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第12話

 夢を見ていたような気がする。  とろりとした湯の中で、大きな手が、やさしくやわらかくアザミの髪を洗っていた。  耳の後ろを、やわやわと指の腹でこすられて、そのあまりの慎重さにくすりと笑みが零れる。 「もっとちからを入れても、壊れやしないよ」  アザミはそう告げたけれど、男の手のちからは変わらなかった。  瞼の辺りに眠気がまとわりついていて、目を開くことが難しい。  それでもアザミは、無理やりに睫毛を震わせて、うっすらと瞼を持ち上げた。    湯気が立ち上る視界の中で。  黒衣の男が手桶に湯を汲んでいた。  その顔に、怪士(あやかし)の面は、なかった。  遮るもののないそれは、巨躯に相応しい、男らしいパーツで形成された顔であった。    アザミが目を開けていることに気づいた男が、くっきりとした目元を歪めて、困ったように苦く笑った。 「目を、閉じていてください」  低い声が、囁いて。  大きなてのひらが、アザミの両の瞳を覆う。  アザミは素直に目を閉じた。    ぱしゃり、と髪に湯が掛かる。  丁寧に泡を流してゆくその動作に、とろとろと意識が溶けてゆく。   「アザミさま」  水音に紛れて、男が小さな小さな声で告げた。 「お慕いしております」  誰にも聞こえないと、思ったのだろうか。語尾が震えて、淡く消えた。  アザミは吐息するように、微かに笑う。  なんだ。  夢か。    都合の良い夢を、見ているのか……。  それでも、この男に甘い言葉を言われるのは悪くない。 「もう一度、言って」  あやふやな口調でそう乞うと、アザミの髪を手櫛で梳きながら、男が答えた。 「愛してます」    アザミの願望は浅ましい。  夢の中ですら、愛を告げられて嬉しい。    けれどアザミは、この男の手を取ってはならない。  アザミがそれをしてしまっては。  この男には、破滅しか残らない。  それでも。  夢の中でなら、ゆるされるのではないか……。  甘美な誘惑に負けて、湯の中から手を持ち上げようとしたアザミであったが、突如として冷え冷えとした理性が覚醒し、制止の声をあげた。  一度でも縋ったら、二度とひとりで立てなくなるよ。     たとえそれが、夢の中の出来事であっても。    アザミはこの先も、ひとりで生きていかなければならないのだ。  縋るべきではない。  これ以上、この男を欲してはならない。  この男を……。  アザミから、引き離さなければならない……。  アザミの腕は、ちからなく湯の底に潜った。    男の硬い指の腹の感触。  やさしい手の動き。  これだけで、充分だった。  これだけを、覚えていようと、思った。  それが、夢の世界の産物であっても。  現実には存在しないもので、あっても。  アザミは、これで充分だ。  目を覚ましたらまたひとりだ。  そのことに、落胆しないように。  アザミは己に言い聞かせながら、眠りの世界を揺蕩(たゆた)う。  ふわふわと。  ふわふわと。   ***  精液に(まみ)れたアザミを、楼主が腕を組んで見下ろしていた。  先ほど、最後のひとりの相手を終えたところであった。  男衆の正確な人数をアザミは知らないので、この1週間にも及ぶ折檻で、本当に一巡したのかはわからない。  それでも見届け人である紅鳶(べにとび)が楼主へと報告に赴き、その結果この男が座敷牢に姿を見せたのだから、アザミへの制裁は終わったと判断して良かった。  この1週間、紅鳶とともにずっとこの場所に控えていた怪士(あやかし)の姿はない。彼も放免されたのだろう。  楼主が煙管(キセル)を吹かせながら、気怠い仕草でしゃがみ込んだ。  鉄格子に背を預けて、ふぅ、と唇から紫煙を吐きだす。 「結局、セーフワードは言わず仕舞いか。頑固なことだなぁ、アザミ?」  男の揶揄めいた言葉を聞き流し、アザミはゆっくりと布団から体を起こした。    どろり、と後孔から誰のものか判別のつかない精液が漏れ出す。  早く風呂に入りたかった。  全裸のアザミへと、ばさり、と襦袢が飛んで来た。楼主が投げて寄越したのだ。  アザミは黙って、それを細い肩に羽織った。   「アザミ。明日から見世(みせ)に立てんのか?」  その問いかけに、アザミはうっすらと微笑む。 「ええ、もちろん」  掠れた声で応じたアザミを、楼主が眇めた目で見つめ、鼻を鳴らした。 「まったく。可愛くねぇ奴だよ、おまえは。早々に音をあげりゃあそこまでボロボロにならなくて済んだのにな」  楼主が煙管の先端で、床に置きっぱなしにされていた青磁の器をコンと突いた。  そこには、淫花廓オリジナルの、蜂蜜色の媚薬が入っている。  この1週間、アザミはそれをペニスと乳首に塗られ、その上で男たちに触られることもなく、狂いそうなほどの欲望に苛まれていた。    この男は恐らく、アザミにセーフワードを言わせたかったのだ。  アザミがそれを口にした瞬間、アザミへの制裁は終わり、代わりにあの怪士(あやかし)が罰を受ける。  彼への折檻はなにが用意されていたのだろうか。  ここからの追放だろうか。さらなる借金の上乗せだろうか。……母親の治療費の支援の打ち止めだろうか。    いずれにせよ、アザミが原因であの男が傷つくことは、あってはならなかった。  昔……アザミが客に殺されかけたあの事件のとき。  彼は、アザミをたすけてくれた。声にならぬアザミの声を、聞き届けてくれたのだった。  たすけて、という言葉を口にして。  救いの手がアザミに伸ばされたことなど、これまで一度もなかった。  あの男が、初めてだった。  その結果怪士は、折檻を受けた。  アザミなどをたすけたために、罰として棒で打たれたのだった。    アザミは泥のように重い体で、楼主の前に正座をした。  楼主が軽く片眉を跳ね上げて、アザミを見た。 「お願いがあります」  アザミは床に三つ指をついて、楼主の目を見つめる。    年齢の読めぬ深い色の瞳が、アザミのこころの奥を覗くように細められた。 「一応聞いてやる。言ってみろ」     男の声に促され、アザミはゆっくりと(おもて)を伏せた。  床にひたいをこすりつけるほどに、(こうべ)を深く垂れる。  その、土下座の姿勢で。  アザミは願い事を口にした。    アザミの言葉を聞き終えた楼主が、無造作に手を伸ばし、アザミの長い髪を掴んだ。  そのまま強引に顔を上げさせられ、頭皮が引き攣れる痛みにアザミは眉をしかめた。 「後悔しねぇのか」  低く、問いかけられて。    アザミは笑った。  アザミらしい、とよく言われる、高慢で、うつくしい微笑を、意図的に浮かべたのだった……。    

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