14 / 22
第13話
正座で楼主の前に控えた男は、ポカンと口を開けた。
幸いなことに、顔は能面で隠れているので、間抜けな表情は楼主の目には入らない。
怪士 の動揺など、毛の先ほども気に留めない淫花廓 の支配者は、酷薄な印象の唇を笑みの形に歪めた。
「俺からの話は以上だ。その書類にさっさと署名しな」
煙管 の吸い口を咥えたままで、男がローテーブルの上に置かれた一枚の紙を顎で示した。
怪士は低頭の姿勢で、
「あ、あの」
とようやく言葉を発する。
「仰っている意味が、よく、わかりません……」
怪士がそう言うと、楼主が愚者を見るように半眼になり、こちらを睥睨してきた。
「なにがわからねぇんだ。言葉の通りだろうが。おまえの借金はなくなった。おまえはもう淫花廓 に居る必要は無ぇ。それへの署名と引き換えに、首のチップは除去してやるって言ってんだ。俺も暇じゃねぇ。さっさと署名しな」
つけつけとした口調で、先ほどと同じ説明を繰り返される。
しかしやはり、意味が少しもわからない。
「しゃ、借金がなくなったというのは、どういうことなのでしょうか?」
「あぁん? おまえは馬鹿か。言葉の通りだろうが」
ふぅ、と呆れた吐息とともに紫煙を吐き出して。
男が万年筆を怪士へと放り投げた。
「それが完済の証明と秘密保持の同意書だ。まさか手前 の名前を忘れたってんじゃねぇだろうな?」
ぎろり、と睨まれて、怪士は否定の形に首を振る。
ここでは誰も呼ぶ人間はいないけれど、己の名前はきちんと覚えている。
だが、問題はそこではなかった。
「私にはもう、これ以上の借金はゆるされないということでしょうか?」
怪士は楼主に母親の治療費を借りている。
入院代、手術代、その他、諸々の費用を。
母親は治癒したわけではなく、むしろまだまだ医療費が必要であった。医師からも海外での移植手術を勧められている状態だと聞く(怪士は淫花廓 から出ることはできなかったが、翁面 の男衆がこまめに母親の状況を教えてくれているのだ)。
ここで楼主の支援が打ち止めとなるのは痛かった。
淫花廓を出て、他に稼ぐ当てなどまったくないのである。
「この度は、楼主さまにもご迷惑をおかけし、大変申し訳ありませんでした。できることなら、まだ……」
「おいおい。おまえは耳が付いてねぇのか? 完済だと言ってるだろうが。おまえの母親の治療費はすべて、将来かかる分も含め、完済だ。おまえからはもう取り立てねぇ。おまえはもうここのことは忘れて、母親の移植手術に付いてってやんな。これまでよく勤めてくれたな。餞別としていくらか包んでやる。だからさっさと署名しろ」
怪士は狐につままれたような気分で、膝元に転がっている楼主の万年筆を見た。
黒い光沢のあるそれを、目に映しつつ、男の言葉を反芻する。
(おまえからもう取り立てねぇ)
……おまえからは……?
「……誰か、べつの方が、肩代わりしてくれたということですか?」
低い声で、怪士は楼主へと問いかけた。
楼主の薄い唇が、ニィっと歪んだ。
「なるほど、馬鹿じゃねぇな」
カツン、と煙管の雁首を灰皿に当てて、男が懐手した指で顎をこする。
怪士の言葉を肯定したも同然の態度に、怪士は畳についた手をぐっと握り締めた。
「どなたが……いったいどんな理由で、どなたがそんなことを……」
「知ってどうする」
切りつけるような冷ややかさで、楼主が怪士へと問うた。
「それを知って、どうするってんだ。おまえが利口な男なら、黙ってその紙切れに署名して、こんな場所からはさっさと立ち去るんだな。二度とここの土地は踏めねぇが、だからといって不都合があるわけじゃねぇ」
ふん、と小さく鼻を鳴らして、楼主がまた吸い口に唇を寄せた。
年齢の読めぬ男の、その端整な顔を、怪士は茫然と見上げた。
まさか、という疑念が身の内側から湧き上がってくる。
まさか。
「アザミさま、ですか?」
喘ぐように、怪士はその名を口にした。
楼主からの返事はない。
返事がないのが、答えだった。
なぜだ。
なぜ、アザミが借金の肩代わりなどするのだ。
アザミ自身も、淫花廓に莫大な金を借りているというのに……その上に怪士の分まで抱えては、年季が明けるのがさらに遠のくではないか。
怪士は楼主へと平伏し、低く掠れた声で、
「お断りさせてください」
と言った。
こんな話、受けれるわけがなかった。
「どうしようもねぇ間抜けだ」
心底呆れた、という声音を漏らして、楼主が立ち上がった。
そのまま、頭を下げている怪士へと歩み寄って来る。
「俺はおまえの意見を聞いてるわけじゃあねぇんだよ。署名しろと言ってんだ」
足袋 を履いた足が、怪士の右肩の後ろに乗った。
そこにぐっとちからを込められ、怪士は逆らわずにさらに頭を下げた。
「淫花廓 に居る以上、おまえに選択肢はねぇ。俺がしろと言ったことをするんだよ」
静かな話し方で、楼主がそう命じた。
怪士は、面の下で唇を噛んだ。
首を縦に振るしかない。それは、わかっていた。
しかし……。
怪士の脳裏に、アザミの姿が浮かぶ。
怪士だけを、ここから遠ざけて。
あんな細く頼りない足で。
アザミはひとりで、生きてゆくというのか……。
誰にもまもられず。
たった、ひとりで。
怪士が押し黙っていると、ふと、背中の圧迫が消えた。
足を畳みに戻した楼主が、怪士の前にしゃがみ込んで万年筆を拾い上げた。
「ああ、そう言えばアザミから、どうしようもねぇ男衆へ伝言があったな」
万年筆の先で、こめかみ部分をトントンと押して、「なんだったかなぁ」と楼主が一拍、考える間を挟んだ。
男の、感情の読めない双眸が、ひた、と怪士を捉えた。
「ちょっと遊んでやったら舞い上がってその気になったどうしようもねぇ男衆には、別れの言葉も言う気になれねぇ、だったかな? 勘違いした男が自分の周り居ちゃあ具合が悪ぃ、襲われでもしちゃあ敵わねぇ、借金を肩代わりしてやるから、二度と自分の前に現れるな、だとよ」
くるり、と男の指で回った万年筆の持ち手が、怪士の方へと向けられた。
怪士が能面の顔を上げ、楼主のその手を見つめると、楼主が憐れむような声で怪士へと告げた。
「アザミを抱いたことは、悪ぃ夢を見たと思って忘れろ。そのほうがおまえのためだ。元々は暴力事件だって丁稚上げだったんだろう? お袋さんを大事にして、真っ当に生きていきな」
楼主の手が、怪士の手首を掴んだ。
上を向かされたてのひらに、万年筆を載せられる。
楼主が半身を捻り、テーブルの上から用紙を取り上げ、畳の上に置いた。
「署名しろ」
いっそやさしいほどの囁きに、怪士は震える手で万年筆のフタを外した。
書かれている文面を、よく読みもせずに怪士は、一番下の空欄へと、筆先を立てた。
黒いインクがじわりと滲み、その下の畳までもを汚した……。
***
楼主は煙管を吹かせながら、しずい邸を歩いた。
時刻はまだ夕刻で、淫花廓が賑わいをみせるのはこれからであった。
ゆうずい邸では、男娼に抱かれたい有閑マダムたちが集うせいで、香水の匂いがぷんぷんとして閉口するが、このしずい邸では風雅な香が焚きしめてあるため、どこを歩いても良い香りがする。
張見世に男娼たちが集まるのは客が入り出す19時頃からで、いまはまだ数名の男衆が準備に出入りしているだけだった。
そこに、しゃらり、と簪 の飾りを鳴らして、赤い花が現れる。
いや、あれは花ではなくアザミだ。
男衆たちに輪姦される、という制裁をくわえられたにも係わらず、数日も経たぬ内に元のうつくしさを取り戻したのだから驚かされる。
髪を綺麗に結い上げたアザミが、楼主を見て軽く膝を折って挨拶を寄越した。
「ずいぶんと早いお越しじゃねぇか。張り切ってるようでなによりだ」
「まるで、サボっている方がいいという口ぶりですね」
アザミの皮肉に、楼主は苦笑を漏らした。
その名の通り、棘をまとってチクチクとこちらを刺してくるようなこの男娼が、男は嫌いではなかった。
「アザミ」
楼主が名を呼ぶと、アザミが赤い唇をきゅっと引き結ぶ。
両親に捨てられ、借金を背負わされ、金貸しに犯されて、淫花廓に売られてきたアザミ。
楼主は商品に、同情などしない。
男娼は飽くまで商品であるし、それ以上でもそれ以下でもないからだ。
「あの男衆は、ここを出て行ったぜ」
男の言葉に、ほんの刹那、アザミの目元が震えた。
しかし、瞬きをした次の瞬間には、アザミは艶 やかな微笑を湛えて、楼主へと頭を下げた。
「お手間を取らせました。これでせいせいするよ」
ふふ、と吐息を揺らして笑うアザミを、楼主は眇めた目で眺めた。
「おまえは爺 になるまで、ここを出られないぞ」
「それは素敵だ。一生、体を売って過ごしますよ」
「爺を抱くもの好きは居ねぇよ」
「そのときはどうぞ、ゴミ箱にでも捨ててください」
しゃらり、と簪を揺らして、アザミが楼主に背を向けた。
ここへ来た最初の年も痩せぎすだったが、それはいまもあまり変わらねぇな、と楼主は思った。
それとも、1週間にも及ぶ制裁のせいで、痩せたのだろうか?
「アザミ」
楼主はその細い背へと声を掛けた。
アザミはゆっくりと顔だけを振り向かせる。
「慰めてやろうか?」
煙管の吸い口から唇を離して、楼主はそう問いかけた。
アザミのうつくしい目が、丸くなり。
それから彼は、艶然と微笑んだ。
白いその顔の中で、口元のホクロが艶めかしかった。
「必要ありません」
高慢な男娼の表情で、そう応じて。
アザミは優雅な足取りで歩きだした。
楼主は彼を、二度も呼び止めることは、しなかった……。
ともだちにシェアしよう!