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第14話
カツ、と赤いハイヒールの踵 が鳴る。
カツ、カツ、カツ、カツ。
うつくしい歩き方、というものを、アザミは淫花廓 に来て教え込まれた。
しずい邸の男娼は、優雅であることを求められる。
そのために、茶道や華道、箸使いやテーブルマナー、立ち方や歩き方などを覚えさせられるのだった。
書道やペン字も習わされる。パソコンやスマホなど外部との連絡手段が遮断されているため、客になにか伝えたいことがあるときは……たとえば、次の約束や、上っ面の愛の言葉などを伝えるときには、必然的に手紙になるからであった。
行儀作法などは厳しく仕込まれるのに反して、最低限の教養以外の勉学であったり、政治情勢を始め俗世の情報などからは遠ざけられる。
男に抱かれるための商品が賢くて得をするなどないからである。
しずい邸の客は、社会的地位が高い者が多い。
彼らは男娼相手に政治談議がしたいのではなく、男娼の体で楽しみたいだけなのだ。
しずい邸の男娼に求められることは、男を悦ばせること、無知であること、口が堅いこと。
男の征服欲を満たせる存在でありさえすれば、ここではうまくやっていけるのだった。
アザミはこれまで、その信条をもとに、うまく立ち回ってきたと思う。
奔放だ我が儘だと言われることもあったが、所詮この狭い鳥籠の中で羽ばたける範囲の話だ。
アザミは己に不相応な願望などは抱かない。
ここから出ることを、夢想したこともない。
それなのに。
黒衣のあの男の姿を、無意識に探してしまう自分が居て。
そのことに、無性に苛々するのだった。
あれからもう、三月 も経過しているというのに……。
カツカツカツカツ。
蜂巣 からしずい邸へと続く渡り廊下を、前も碌に見ずに歩いた。
ゆるやかなカーブにさしかかったとき。
誰かに、ドン、とぶつかった。
細いハイヒールがぐらつき、アザミは転倒した。赤い着物が石造りの廊下にばさりと広がった。
「うわっ」
ぶつかった相手が焦った声をあげる。
「あ、アザミさんっ、申し訳ありませんっ」
勢いよく頭を下げたその癖のない髪を、アザミは座り込んだままで見上げた。
アザミの視線の先では、しずい邸の男娼、マツバツバキが焦ったような顔で眉尻を情けなく下げている。
前方不注意だったのは明らかにアザミの方なのに、ぶつかられたマツバが必死に頭 を垂れ、「申し訳ありません」を繰り返した。
淫花廓 では廓 に入った時期よりも、売り上げ額が物を言う。ましてや、マツバよりもアザミの方が入廓も早く、指名も比べるまでもなく多いのだから、パワーバランスは明白であった。
アザミは、ぶつかったのは自分の方だと言って謝罪の言葉を口にしようとしたが、ふと、床に、てのひら二つ分ほどの大きさの箱が転がっているのを目にして、それをまじまじと見つめた。
寄木細工のような、凝った木箱だった。
落ちた拍子で開いたのだろう蓋から、カラフルな銀紙に包まれたお菓子が覗いている。チョコレートだろうか。
こういった嗜好品は男娼たちにとっては貴重だ。
酒などは、ここで食事を摂る客の相伴に与かることもあるが、甘味類は客の差し入れでしか味わうことができなかった。
淫花廓への食品の持ち込みは、原則禁止となっている。アザミがここへ来るよりも以前に、とある男娼に身請けを打診した客が、すげなく断られてしまい、それを逆恨みして持ち込んだケーキに毒を仕込み、男娼を殺してしまった、という事件があったらしい。
それ以降、客が持ち込む品々に対しては厳重なチェックが行われるようになった。
そのチェックをクリアした物だけが、男娼の手元に届けられるのである。
食品の場合は、事前に持ち込みの申請をし、着物や装飾品などとは比べ物にならぬほどの細かな検品を受け、その上で楼主が可としたものを例外的に持ち込むことができるのだった。
当日の検品だけならいざ知らず、事前の申請も必要という手間の多さに、食品を男娼に差し入れようとする客は稀だ。
アザミほどの売れっ妓 ともなれば、褥 で、アザミは苺のケーキが食べたいです、とでも囁けば、次に来るときには大きなケーキの箱を抱えて現れる客も居るだろう。
この男娼のためならば手間暇かけても惜しくない、と思わせるのが男娼の手腕の見せ所なのである。
しかし、このマツバツバキは、そういった売込みが下手そうだ。
よく言えば純朴、悪く言えば稼ぎ下手。顔やスタイルは悪くないのに、いまいち指名が伸びないのは、客が自分を指名したくなるような駆け引きや仕込みが不得手なのだと思えた。
そのマツバが、高級品のチョコレートを携えている。
誰に贈られたものかは、容易に想像がついた。
マツバの一番の上客で……アザミとも一度寝たことのある男、西園寺 忠幸 で間違いないだろう。
結構なことだな、と苦いような気持ちが込み上げてきた。
あんないい男に惚れられて、菓子まで差し入れてもらえて。
マツバはさぞいい気分だろう。
西園寺との逢瀬を終えたあと、彼はいつも頬を紅潮させ、恋する乙女も斯くやというほどうっとりとした表情をしているのだ。
暢気 なことだ。
しあわせそうでなによりだ。
けれど男娼のしあわせなんて、泡沫 のごとくすぐに消える。
それを教えてやろうか。
好きな男に抱かれて浮かれる、この憐れな男娼に……。
嗜虐的な衝動が、胸の内側から溢れてきて、アザミは目元にちからを込めた。
「あ、アザミさん、大丈夫ですか? どこか痛めましたか? あ、あの、僕……」
尻もちをついたまま起き上がらないアザミへと、マツバがますます情けない表情になり、床に膝をついてアザミと目線を合わせた。
きらきらとした、大きな瞳だった。
純真なマツバの内面を、そのまま表しているかのような瞳だった。
「……チョコレート……」
アザミは、掠れた声で呟いた。
「え? あ、ああ……。お客様に、頂戴したのです」
ひとの悪意などひとつも知らない、というような顔で、ふわり、とマツバが微笑んだ。
彼の細い指先が、転がっていた木箱を引き寄せ、蓋をパタンと閉じる。
宝物でも扱うような、丁寧な仕草だった。
「あ、アザミさんも、召し上がりますか?」
屈託なくそう問われ、アザミの頭にカっと血が昇った。
マツバなどに施してもらわなくても、チョコレートぐらい、アザミだって手に入れることができる。
「結構だよ。僕にだって、差し入れてくれる御方ぐらい居るんでね」
尖った声でそう返すと、マツバが恥じ入るように赤面し、それからおずおずと首を振った。
「も、申し訳ありません。違うんです。そういう意味じゃなくて……」
木箱を持つ手に、ぎゅっとちからが込められ、マツバが思い切ったように口にした。
「アザミさん、その……すごく、痩せられたので……」
アザミは毒気を抜かれ、目を丸くした。
この妓 はなにを言っているのだろうか。言われた意味がよくわからずに、アザミは首を傾げる。
「……痩せた?」
「は、はい。お顔の色も、すぐれないことが多いですし……。あの、甘いものでも食べれば、元気がでるんじゃないかと思って……出過ぎた真似をして、すみませんでした……」
大きな瞳を気遣わし気に瞬かせ、マツバがまた頭を下げた。
痩せた……そうだろうか。自分ではよくわからない。
慢性的な寝不足で、倦怠感が抜けきらない日が増えているが……毎日のように顔を合わせる相手から指摘されるほどに、体重が落ちているのだろうか?
しかし、商売敵の心配をするとは、マツバもひとが良いというかなんというか……。
アザミはなんだか可笑しくなって、ふふっと笑みを零した。
「ふ、ふふっ。おまえに心配されるようなことじゃないけれど……そんなに言うなら、チョコレート、もらおうかな」
アザミがそう言うと、マツバの表情がぱぁっと明るくなる。
「は、はいっ」
元気に頷いた彼を、少し揶揄ってやりたくなって、アザミは意地悪く唇を歪めた。
「その箱、そこに置いておいてくれる?」
「え……」
ひくり、とマツバの頬が引き攣る。
箱を置け、ということはすなわち、箱ごとチョコレートを寄越せ、ということである。
マツバは貴重な甘味を口にできないどころか、愛しい西園寺に貰った箱までアザミに奪われることになる。
できません、とさすがに断られるだろうと、アザミは思っていた。
だから彼が困る前に、冗談だよ、と告げようとしたのだが……。
「わ、わかりました」
と、マツバがまだ少し強張ったままの頬で、笑顔を浮かべた。
「これを食べて、元気を出してくださいね」
にっこりと、やわらかく笑うマツバは、なるほど、愛されるべき存在に見えた。
純真で、無垢で、可愛らしいマツバ。
アザミがマツバのようであれば……。
誰かに、愛してもらうことができたのだろうか……。
己にないものを見せつけられたような気がして、ひどく胸が塞いだ。
気鬱が、喉元にせり上がってきて……息が詰まりそうになる。
アザミは喉をてのひらで押さえながら、無理やりに笑った。
誰にも弱みを見せたくなかったし、誰にも情けをかけられたくなんてなかった。
「冗談だよ。僕はチョコレートは食べ飽きている。滅多に食べられないようなおまえとは違うからね。持って帰りなさい」
アザミの言葉に、マツバが逡巡するように木箱とアザミの間で視線をウロウロとさせた。
「あ、アザミさん、立てますか? もしかして、どこか怪我をされたんじゃ……」
立ち上がらないアザミに手を差し出して、マツバがアザミを引き上げようとする。
犬でも追い払うようにアザミは腕を振って、それを遠ざけた。
「おまえが要らないなら、その箱、踏みつぶすけど?」
流し目で睨んでやると、マツバが慌てて箱を拾い上げ、大事そうに胸に押し抱いて、
「ほ、本当に大丈夫ですか?」
と心配も露わに問いかけてくる。
アザミは鼻で笑って、顎をしゃくった。早く行け、という無言の催促を、きちんと察知して。
マツバが、アザミに深々と一礼をしてしずい邸への道を辿っていった。
その後ろ姿が完全に消えてからも、アザミは動くことができなかった。
転んだときに、足を捻ったのだ。
ハイヒールなんて履いていたものだから、踏ん張りがきかなかった。ぐきっ、と捻った右の足首が、じんじんと熱を持っているのがわかる。
腫れているかもしれない。部屋に戻ったら、男衆に湿布を持って来させなければ……。
頭ではそう考えているのに、アザミの体は動いてくれなかった。
石造りの廊下は冷える。その冷たさが、ぺたりと座り込んでいる下半身から這い上がってきて、アザミの体がぶるりと震えた。
寒いけれど、動くのも億劫で……。
べつにいいか、とアザミは思った。
風邪を引こうが怪我をしようが、誰が困るわけでもない。
心配してくれる腕もない。
アザミはひとりだ。
どうしようもない空虚さに、アザミは脱力した。
くたり、と上半身も床に横たえた。
冷たく硬い石の褥が、自分には似合いだと思えた。
死ぬときはきっと、ここだ。
ここで、ひとりで死んでゆくのだ。
その未来を想像するのは容易で……アザミはくすりと笑った。
瞼を閉じると、右足の痛みと床の冷たさが際立って。
己のみじめさに、アザミは声を殺して笑い続けのだった……。
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