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第15話

 心地良い振動とともに、宙を浮いていた。  背中と膝の後ろに、逞しい腕の感触があった。  盛り上がった筋肉は、いつだって硬くて。  そこに指を滑らせて愛撫するのが好きだった。  アザミは目を開けようとしたが、上下の瞼が(のり)で張り付いたように開いてくれない。  いま、アザミを抱いて運んでいる、この腕の持ち主を知りたかった。  そんなはずはない、と否定する傍から、もしかして、という期待が湧いてくる。  ふわり、とやわらかな布団の上に体を横たえられた。  冷え切った肌に、ふかふかの羽毛布団が被せられる。  男の気配が、遠ざかろうとするのを察知して、アザミは唇を開いた。  行くな、と。  考える前に零れた言葉は、頼りなく、掠れて。  自分の耳にすら、聞こえはしなかった。  は、と目を開くと、自室の天井が見えた。  いつの間に、部屋に戻って来たのか……。  起き上がろうと身じろぐと、右の足首がずきりと痛んだ。  アザミはゆっくりと上体を起こし、掛布団をめくってみる。  くるぶしの辺りが青く変色し、腫れていた。  いつ捻ったのだろうか、と記憶を辿ると、昨夜……いや、明け方に近い時刻だっただろうか……蜂巣(ハチス)からしずい邸へと続く石造りの廊下で、マツバツバキとぶつかったことに思い至った。  マツバと会話をしている内に、妙に気怠くなって……アザミは、冷たい石の上で横になった、はずだった。  夢うつつに、誰かに抱き上げられて運ばれたことを覚えている。  あれは……あの腕の、感触は……。  期待するな、とアザミはシーツを固く握り、己に言い聞かせた。  が、ここに居るはずがないのだ。  期待するな。    コン、コン、コン、と扉をノックされ、アザミはビクっと肩を揺らした。 「アザミさま。失礼します」  面越しの、少しこもった男の声が聞こえてきた。  アザミは目を見開いて、開く扉を見つめる。  シーツを握る指が震えた。  静かな動作で入ってきたのは、怪士(あやかし)の面を着けた男衆であった。  ……違う。  ではない。  無意識に詰めていた息を、アザミはゆるゆると吐き出した。  吐息には落胆の色が混ざっており、アザミはその事実に打ちのめされる。  もしかして、が来るかもしれないと……。  期待してしまっていた。  こころの深い部分で、期待してしまっていた。  がアザミを抱き上げて部屋まで運んでくれたなどと、おかしな夢を見たものだから、閉じ込めていたはずの甘えが……寂しさが、引きずり出されてしまった。  アザミはひとりでも平気だ。  平気なはずだ。  これまで、ひとりで生きてきたし、これからも生きてゆける。  誰に支えられずとも。  アザミは自分の足だけで立てる、はずだった。  ……あの男の腕を知るまでは。  たすけます、と低い声で告げられて。  何度もあの腕にまもられて。    アザミは……。  ひとりでは生きていけぬと……。  いま、恐ろしいほどの絶望とともに、その事実に気づいてしまったのだった。  ぐぅっとおかしな音が、喉奥から漏れた。  唇がわなわなと震えた。  アザミはてのひらで、口元を抑えた。  両目から、ぼろりと涙が零れた。    泣くなんて、信じられなかった。  この自分が、泣くなんて。  涙を止めようと思うのに、涙腺は、アザミの言うことを少しも聞いてくれない。  アザミは深く俯いて、長い髪で顔を隠した。  それでも肩の震えや、喉から漏れる嗚咽までは隠し切れない。  男衆は、アザミが泣いていることに気づいただろう。  突然泣き出したアザミに、驚いているかもしれない。  けれど能面の男は、余計な口を挟まずに、畳に膝をついて静かに控えていた。  慰めを求めないアザミには、男衆の機械的な対応は、ありがたかった。  しばらくの(のち)、男衆がアザミへと声を掛けてきた。 「アザミさま。楼主さまがお呼びです」  男の言葉に、アザミは瞬きを繰り返し、睫毛に残る涙を、振り払ったのだった。      ***  腫れた足首はひどく痛んで、アザミは廊下の壁に縋るようにして歩を進めた。  アザミを先導する男衆は、振り向かない。男娼からの要請がない限り、男衆から男娼に対してなにかをしてくることはないのだった。  おまけにアザミは、男衆のひとりと個人的な関係を持ち、その罰として男衆全員と交わったのだ。この、アザミの前を歩く男も、アザミの孔に突っ込んで腰を振ったのだろう。  必要以上にアザミと接して、自分もペナルティを受けてはたまらない、と考える男衆は多いようで、三月(みつき)前のあの出来事以来、アザミの周囲にはあまり男衆が近寄って来ないのだった。  たすけて、と言えば、肩ぐらい貸してくれるだろう。  けれどアザミは、その言葉を言いたくはなかった。  もう二度と、口にしない。  誰かに寄り掛かる、という甘えを。  アザミはあの男を切り捨てたときに、同時に捨てたのだから。  アザミは右足を引きずりながら、ソファのあるその部屋へと入った。  ここは、最初に……アザミが初めて淫花廓(ここ)へ連れて来られた際に、楼主と会った部屋だった。  ソファでは楼主が相変わらずの着流し姿で、ゆったりと煙管(キセル)を咥えていた。 「よう、アザミ」 「わざわざのお呼び立て、どういったご用件でしょうか」 「冴えねぇ顔色だな。具合でも悪ぃのか」 「ご用件をどうぞ」  話を早く切り上げて、部屋へと戻りたかった。  なにもかも見透かしたような目をしたこの男とやりあうほど、メンタルが回復していない。なにより、右足が痛かった。  左に重心をずらすことでなんとか立つことができているが、長時間は難しいだろう。  鋭い痛みに、ひたいにうっすらと汗が滲む。 「なんだ、座りてぇのか」 「いいえ。ご用件を」  楼主が、紫煙とともにため息を吐き出し、こめかみを煙管の吸い口で掻いた。 「まったく……頑固な奴だ。張り通せる意地ならいいが、自分の限界を見極めねぇと、昨夜みてぇにぶっ倒れるぞ。座れ、アザミ」 「倒れたわけではなく、転んだだけだよ」 「その(あと)廊下で昏倒してたんだよ、おまえは」  これみよがしに吐息して、楼主がソファから立ち上がった。   「マツバの奴が、血相変えて俺の部屋に来やがった。おまえと渡り廊下でぶつかった後、おまえが中々立ち上がらねぇから心配になっておまえの様子を見に、また戻ったんだと。そこでおまえがぶっ倒れてるのを見つけて、夜中に大騒ぎだ。おかげで俺も叩き起こされた」  話しながら、楼主がアザミへと歩み寄ってくる。  そして傍らまで来ると、無造作に、ひょい、とアザミの体を抱き上げた。 「なっ、なにをっ」 「黙ってな。ったく、ガキみてぇに痩せやがって」  チッ、と舌打ちを漏らした楼主が、ボン、とソファにアザミを落とした。  衝撃に足首が動き、瞬間に走った疼痛にアザミは声もなく悶えた。  手を握り締め、歯を食いしばって痛みをこらえるアザミを、男が睥睨し、無情な声で告げた。 「アザミ。おまえ、もう、男娼をやめな」  アザミは細い顎を上げて、楼主を見た。酷薄な双眸が、冷え冷えとこちらを見下ろしていた。 「ここ最近、客と居ても上の空だとクレームが何件か続いてる。痩せすぎで抱き心地が悪くなったとも聞いてるぞ。別の奴を指名する客も出てきてんだ。落ちぶれる前に、手前(テメェ)から去りな」  アザミは目を見開き、ごくりと生唾を飲んだ。痛みのせいではない震えが、足元から這い上がってくる。  この男の言葉はすなわち、決定事項だ。  男娼をやめろと言われたからと言って、放免されるわけではない。  アザミには多額の借金がある。  楼主だって損はできない。少しでも金を回収するために、アザミは二流、三流の売春宿へ売られるのだろう。 「体調管理もできねぇような奴に、男娼は務まらねぇよ。おまけに怪我までしやがって。たったひとり、男衆が居なくなったってだけで、ボロボロだな、アザミ。手前(テメェ)の、こころも、体も」  楼主の指摘に、アザミは(まなじり)にちからを込めた。  ひくり、と目元が痙攣する。  男に指摘されずとも、自分でもよくわかっていた。  アザミはボロボロだ。  こうなるとわかっていたから、誰にも寄り掛からないようにしていたのに……。  投げやりな気持ちの中に、けれどまだ、アザミの矜持は隠れていて。  なけなしのそれを、アザミは微笑として纏った。 「どこに売られるのか存知ませんが、出て行けというなら出て行きます。お世話になりました」  背筋を伸ばし、膝の上にてのひらを重ねて、流れるような動作で頭を下げる。  立ち方、歩き方、頭の下げ方。色々な作法を習う中で、少しでもきれいに見えるようにと努力を重ねた。その日々は無駄ではなく、アザミの所作はうつくしい、と、そのうち客に褒められるようになった。  アザミは淫花廓の男娼だ。  ならば最後まで、男娼らしく振る舞う。それがアザミの、矜持だった。 「その足でどうするってんだ」  楼主が、面白くなさそうに鼻を鳴らした。  アザミは、アザミらしいと評される笑い方で、口元のホクロを歪ませた。 「どうにでもなりますよ。それに、歩けなくなったとしても、抱かれることぐらいできる。どこに行っても、することは一緒だしね」  ふふ、と囁かな声を漏らして笑った途端、楼主の手が持ち上がり、バシっと後頭部を叩かれた。  強いちからではなかったが、アザミは驚いて叩かれた場所をてのひらで覆った。 「な、なにを……」 「おまえはほんっとに可愛げがねぇ」  楼主が眉を険しく寄せて、眼光鋭くアザミを睨んでいる。  アザミは唖然と、男の怒り顔を見上げた。  楼主は忙しなく煙管を吹かし、立て続けに紫煙を吐き出すと、アザミの顎を乱暴な仕草で掴んできた。 「ガキの頃からなにもかも諦めたようなツラしやがって。アザミ。いい加減、認めろ。その細い足でどんだけ踏ん張ったって、おまえはひとりで立てるほど強くねぇんだよ。欲しいものは欲しいと、その口で言ってみな」  ぎり……と指のちからが強まり、顎の骨が痛んだ。  アザミは背筋を伸ばしたまま、 「いいえ」  と答えた。 「いいえ。アザミは欲しいものなどありません」 「なぜ借金の額を増やしてまで、あの男衆を遠ざけた。特別な感情があったからだろうが」 「いいえ」 「戻って来てほしいと、思ってんだろうが」 「いいえ!」 「じゃあなんで手前(テメェ)はそんなに痩せてんだよ。なにをしても上の空で、いとしい男のことを想って食事も喉を通らねぇ。そういうの、なんていうか教えてやろうか?」 「やめろっ!」    上体を屈めてアザミに顔を寄せてきた男の胸の辺りを、アザミはドン!と突き飛ばした。  しかしアザミよりもウエイトのある楼主の体は、少しも揺らぐことなく、冷酷な声は、淡々とアザミを暴いた。 「恋の病、ってんだよ」  唇の端で、ニヒルに笑って。  ふぅ、と煙とともに、男が声を吐き出した。 「恋しくて恋しくて、そいつが居ねぇと夜も昼も明けねぇ。アザミ。おまえ、あの男が好きなんだな」 「違うっ! 男娼は、恋なんかしないっ。禁忌事項だと、あんたが言ったんじゃないか!」 「男娼失格だと、言ったじゃねぇか。いまのおまえは、ただのだよ、アザミ」    ずっと、男娼(しょうひん)だと言い続けてきたくせに。  なぜいま、そんなことを言うのだ……。  見開いたままの、アザミの目に、透明な雫が盛り上がり、その粒が頬を転がり落ちた。 「アザミは……男娼です。そのように生きてきたし、これからも、生きてゆく」 「おまえには務まらねぇって言っただろ。耳がついてねぇのか。アザミ。おまえに男娼は無理だ」  死刑宣告のように、男が抑揚なくそう言った。  いつの間にか、顎を掴んでいた指は、離れていた。  打って変わった、やわらかな仕草で。  楼主が、アザミの頬を撫でた。涙の粒を、大きなてのひらが拭って。 「アザミ」  と、低い声がアザミを呼んだ。 「あの男が、欲しいか?」  双眸を細めた楼主が、囁くように問いかけてくる。    アザミはこくりと喉を鳴らした。    いまのアザミは、ただのだと……男は、そう言っていた。  それならば、アザミの内側のこの浅ましい願望を、口にしてもいいのだろうか。  葛藤は、一瞬で。  アザミは震える唇で、ゆっくりと、笑った。 「いいえ」  吐息する密やかさで、アザミは首を振った。    アザミの中には、まだ、アザミとして存在することの矜持が、残っていて。  それすらをも(うしな)っては、もう二度と、『アザミ』を名乗ることができないのだと。  ここで、首を横に振るからこその、『アザミ』なのだと。  アザミはそう、思った。  楼主が呆れたように肩を竦め、倒していた上体を戻して、アザミから離れた。 「まったく……おまえの頑固さには参ったぜ」  ポリポリと煙管の吸い口でこめかみを掻いて……男は、続き部屋の扉の方へ顔を向けて「おい」と言った。 「入って来い」  楼主がそう命じるのと同時に、扉が開いた。  静かな動作で三歩、中へと入って来た巨躯の男が、壁際で片膝を付いて控えた。  その顔には、怪士(あやかし)の面がある。  能面も黒衣も、他の男衆と同じものであったが、唯一、短髪の頭部だけが違っていた。    その、髪を生やした怪士面の男を。  アザミは声もなく凝視した。  少し筋肉が落ちて、体つきは少し痩せていたが……。  男は、三月(みつき)前に淫花廓(ここ)を去った、あの怪士であった……。     

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