17 / 22
第16話
これは一体、なんの冗談だ、とアザミは茫然と男の姿を見た。
淫花廓 を去ったはずの怪士 が、なぜここに居るのだ……。
込み上げてきたのは、強烈な怒りだった。
「約束が違うっ」
苛烈な声を、アザミはそのまま楼主にぶつける。
着流しの男は唇で笑いながら、アザミの向かいのソファに悠々と腰を下ろした。
煙管の雁首を、カツン、と灰皿に打ち付けて。
男が肩を上下させた。
「俺がおまえと、なんの約束をしたって?」
ぬけぬけとそう言われ、アザミは柳眉を吊り上げる。
「僕が借金を肩代わりする代わりに、怪士をここから出すと言いましたよね?」
「ああ、言った。ついでにそのことはこいつには内緒にしとく、って話だったな? いまおまえが自分でバラしちまったが……俺は約束を守ったぜ?」
アザミはハッと口を噤み、壁際で膝をついている能面の男へと視線を走らせた。
怪士の面のせいで、男がどんな表情をしているのかは読み取れない。
アザミは唇をぎりっと噛むと、楼主を睨みつけた。
「ではなぜ、あの男がここに居るんです?」
アザミの詰問に、楼主が小さく鼻を鳴らした。
「簡単な話さ。そいつは俺に、新たな借金をした。だから再び、怪士として雇ったんだ」
アザミは……。
怒りで目の前が真っ赤に染まった。
「おまえはバカかっ!」
怪我のことも忘れ、思わずソファから立ち上がったアザミは、怪士へと怒鳴り声を放った。
男の方へ一歩、足を踏み出そうとして。
右足に体重をかけてしまう。
ズキリ、と脳天を貫くような痛みが走って、アザミはバランスを崩した。
「アザミさまっ」
焦ったように、怪士がアザミの名を呼んで……倒れかけた体を、素早く走り寄ってきた男の太い腕が、危なげなく支えてくる。
腰に回った、その腕の温もりに。
アザミはくらりと眩暈を覚えた。
しかし、張り詰めた筋肉の感触を堪能するよりも、いまは怒りの方が勝った。
「触るなっ! おまえなんか……おまえなんか、呼んでないっ」
握りしめたこぶしを、怪士の腕に叩きつけた。
ガッ、ガッ、と二度三度と振り下ろしたが、男の体はビクともしない。
「おーおー、おっかねぇなぁ」
楼主がくつくつと笑いながら、紫煙を吹き出した。
「アザミ。一旦座れ。説明してやるから」
ひとり余裕を見せている男が憎らしくて、アザミは楼主を殴ってやりたい気分になったが、この足では無理だと諦め、自分を支えている怪士の腕を邪険に払うと、乱暴にソファへと腰を下ろした。
背もたれにもたれかかり、腕を組んで楼主をぎらりと見た。
「弁明をどうぞ」
アザミの偉そうな態度に、楼主が首筋に手を当てて低い笑いを漏らす。
「惚れた男が戻ってきた途端、元気になったじゃねぇか」
「ぶち殺すよ?」
「萎 れたおまえより何倍もいいって褒めてんだよ。……さて、そいつの借金の内容だがな……おい、手前 の口から説明しな」
楼主が刻みたばこを指先で丸め、煙管に詰めなおしながら顎をしゃくった。
アザミが視線だけで、ソファの横に居る男を見た。
怪士は、いつものように片膝を付いて控えた姿勢のまま、心なしか、その巨躯を少し縮こまらせて、ぼそり、と答えた。
「……アザミさまの身請けを、楼主さまにお願いしました」
アザミは絶句し、驚愕に目を見開いた。
身請け、と一口に言っても、その額は男娼が最初に背負った借金額によってまちまちだ。
さらにアザミは人気男娼であるから、身請けの額も跳ね上がる。
怪士のような、資産も地位もないような男が申し出たところで、通るような話ではなかった。
「却下だよ。おまえ如きが、僕を買えるものか。この話は無効だ。破棄してください」
「それがなぁ、アザミ。俺は受けちまったんだ。契約は有効だ。その男はまた淫花廓 で働く」
「そんなバカげた話はないよっ!」
「アザミ。ちゃんと聞け。その男は、なにもかも擲 って、おまえを選んだんだ」
楼主の静かな言葉に、アザミは目を見開いた。
楼主の指がマッチをこすり、オレンジの火を煙管の雁首の上に掲げた。
ゆるゆると、煙を吸いながら。
男がじわりと双眸を細めて笑った。
「そいつはな、完済証明書に署名しなかったんだよ。秘密保持と引き換えに首のチップを取ってやるっつってんのに、頑固に首を横に振ってな、俺の万年筆を折りやがった」
「その節は、申し訳ございませんでした」
楼主の言葉に、怪士が頭を下げた。
それにひらりと手を振って、男が笑んだままの瞳にアザミを映す。
「署名がなきゃあチップは外せねぇ。だからチップを入れたまま監視付きで放り出したのさ。お袋さんの移植手術のこともあったしな。お袋さんは、良くなったのか?」
「はい。手術も無事に終わり、リハビリも順調です」
怪士のその答えで、彼がこの三か月、母親に付き添っていたことが知れた。
「母親の件が落ち着いて、頭も冷えただろうと思い呼んでみりゃあ、こいつはチップを外してもらうことよりも、おまえの傍で働かせてくれと俺に頼み込んできたのさ」
アザミは膝の上で両手を握りしめた。
胸に込み上げてくる感情が、怒りなのかなんなのかよくわからなくなる。
喉がなにかに塞がれたようで苦しくて、唇をうっすらと開いた。
「アザミ。おまえの言うように、この男におまえを身請けできる金なんて、逆立ちしたって出てきやしねぇ。それでも、借金してでもおまえが欲しいんだとよ」
「……そんな、ふざけた話……」
「俺はな、男娼のことは商品だと思ってるような人でなしだ。だがな、アザミ。さっきも言ったが、おまえはもう男娼じゃねぇ。おまえは男娼失格だ。だからまぁ、この男におまえを売っ払ってもいいかと思ってな」
そうだ。アザミは男娼を馘首 にされたのだ。
アザミが他所の売春宿に売られるならば、結局怪士とは離れ離れではないか。
いや、アザミの身柄はこの怪士が買ったのか……。
よくわからなくなって、アザミの思考は混乱した。
「とは言え、だ。売れっ妓だったおまえを身請けするんだ。少なく見積もっても百億単位にはならぁなぁ。一生働いても返せる額じゃねぇ」
ふぅ、と煙を吐き出して。
男が首をぐるりと回した。
そして、アザミと怪士の双方へと、その深い色の瞳をひたと据えて。
「だからおまえら二人で、ここで働いて返済しな」
と、命じてきた。
アザミの唇が戦慄 いた。
「嫌です」
考える前に答えていた。
「嫌です」
子どものように、頑是なく繰り返したアザミへと、呆れたような眼差しが向けられた。
「いい加減、認めてやんな。たったひとりのお袋さんを捨てて、ここに帰って来たような男だぞ?」
「……怪士は、この狭い世界で、うっかり、僕なんかに逆上 せただけなんだ。頭が冷えれば……」
外の世界に戻って、頭が冷えれば、アザミなんて見向きもしなくなるに違いない。
アザミがそう言葉にする前に、
「三月 あっただろうが」
ピシャリ、と叩きつける強さで楼主の声が響いた。
「冷える奴はたった一日で夢から醒めるんだよ。この男には三月もあった。アザミ。こいつが欲しくないと言うなら、いまハッキリとそう言え。おまえがどうしても嫌なら、この話は白紙に戻す」
楼主から決断を迫られ、アザミは震える唇を噛んだ。
膝の上では手も震えている。
呼吸がうまくできなくて、喉がカラカラになった。
欲しいものを、欲しいと口にするのは恐ろしい。
一度手に入れてしまえば、次は、失うときの恐怖に怯えなければならない。
この男の手を取ってしまえば。
アザミは二度と、ひとりでは立てないだろう……。
拒むべきだと、理性がわめいている。
それと同じだけの大きさで、アザミの欲望が。
この男が、欲しい、と。
叫んでいた……。
ひっ、と小さく声が漏れた。
息が吸えなくて、苦しい。
ひっ、ひっ、とおかしな具合に肩が揺れた。
「アザミさま」
低く、やわらかな声が。
鼓膜を揺らした。
膝の上のこぶしを、大きなてのひらが包む。
眉を寄せた、泣き出す前のような表情で、アザミがソファの下の男を見た。
怪士の能面が、少し近づいてきて。
「愛してます、アザミさま。できれば、俺をお側に置いてください」
アザミのなにもかもを受けとめるほどに、強い声が。
ゆっくりと、そう囁いた。
アザミの両目から、ぼろり、と涙が零れた。
もうどうしようもなかった。
抗うことなど、できなかった。
上体を、ソファから乗り出すように倒して。両手を、男へと差し伸べる。
短髪のその頭を抱き込むように、腕を回して。
アザミは、怪士へと縋りついた。
「……おまえはバカだ」
涙声で男を詰ると、頬を寄せていた首筋が軽く揺れた。笑ったのだろう。
「こんなところに戻ってきて……おまえは、バカだよ」
泣きながら、アザミは男の髪に指を絡めた。
怪士の腕が、しっかりとアザミの背を抱き返している。
不器用な印象の手が、やわらかな仕草で背中を撫でてきたから……。
アザミの涙は、ますます止まらなくなってしまった。
パンパン、と不意にてのひらが打ち鳴らされた。
怪士の肩から顔を上げると、不機嫌な楼主の視線とかち合った。
「イチャつくなら後にしてくれ。まだ話は終わっちゃいねぇ。アザミ。おまえはその男の借金を一緒に背負う、それでいいな?」
問われて、アザミはこくりと頷いた。
怪士がホッとしたように肩のちからを抜いたのが、視界の端に映る。
アザミの身請けのための金を、アザミが返す、というおかしなことになったが、異論はなかった。
しかし……。
「……でも、僕は男娼を馘首 になったんじゃ……」
そのことに思い至り、アザミは眉を寄せて楼主を伺った。
「その通りだ」
男は懐手した指で顎先を掻いて、なんでもないことのように頷く。
それから、煙管の先端でアザミを示し、
「おまえには、別の仕事がある」
と言って、おもむろに立ち上がると、窓際に置かれている執務机の引き出しからなにかを取り出し、ぞんざいにアザミへと放り投げてきた。
アザミよりも先に反応した怪士が空中でそれをキャッチし、そっと手渡してくる。
裏返ってはいたが、それは、能面だった。
アザミは受け取った面を膝の上でくるりとひっくり返した。
白い顔に、大きく開いた口……厳しい金の瞳。ひたいの左右からは角が伸びている、その面は……。
女性の恨みや嫉妬を表しているという、般若 の面だった。
「これは?」
「見ての通り、般若だ。アザミ、おまえは般若として淫花廓のために仕えろ」
「……般若として? どういう意味です?」
「男衆はな、翁と怪士だけじゃねぇんだよ。般若はしずい邸の元男娼にやらせていた役割だ。アザミ。おまえは最近こそ腑抜けていたが、男娼としちゃあピカいちだ。新しくここに来る商品に、素質があるかどうか見極めるのが、般若の仕事だ。ガキだったおまえも、他の般若のお墨付きだったんだぜ?」
ここに、そんな役割の男衆がいたとは、まったく知らなかった。
アザミは何度も瞬きをして、まじまじと能面を見つめた。
「般若の仕事はそれだけじゃねぇが……まぁ、それは追い追い教えてやる。とりあえず今日は戻っていいぞ。具体的な話はおまえの足が治ってからだ。それまでは、元の部屋を使っていい。連れて行ってやれ」
話は終了だとばかりに、楼主が顎をしゃくった。
男の命令に即座に反応した怪士が、ソファに座るアザミを横抱きにして腕に抱える。
アザミは逆らわず、男の首に腕を回した。
この感触だ、と、危なげなく自分を持ち上げた怪士の、硬い腕を体に感じ、アザミは噛みしめるようにして思った。
「……僕を渡り廊下から部屋へ運んだのは、おまえだね?」
確信を持って問いかけると、怪士が驚いたように肩を揺らした。
「起きてらしたのですか?」
「ううん……でも、わかった。目が覚めたらおまえが居なくて……泣いてしまったよ」
ふふ、と唇だけで笑って。
アザミは、能面の唇へと、ちゅ、とキスをした。
「おいおい、イチャつくなって言ってんだろ。わかってんだろうが、アザミの足が治るまでセックスは禁止だからな。おいたして悪化したら、ペナルティで借金増やすぞ」
苦々しい楼主の声が飛んできたが、アザミは取り合わずにもう一度怪士へと唇を寄せようとした。
しかし真面目な男はバッと顔を遠ざけて、楼主へと「申し訳ありません」と謝罪する。
アザミは男の肩越しに、ベ、と楼主へと舌を出した。
子ども染みたそれをどう思ったのか、楼主が肩を竦め、思いがけぬほどやさしい表情でじわりと笑った。
「アザミ」
怪士に抱かれたまま退室しようとしたアザミを、一度呼び止めて。
楼主が、いつもの淡々とした口調で言った。
「惚れた腫れたがご法度なのは、男娼と男衆だ。男衆同士の規則は、特に設けちゃいねぇからな」
楼主のその言い草に、アザミは思わず、笑ってしまった。
それから、怪士の腕をポンと叩いて、
「下ろして」
と告げる。
怪士は慎重にアザミの体を立たせた。
アザミは床の上に、きちんと足を付いた。痛みは強かったが、構わなかった。
しっかりと背筋を伸ばし、唇には勝気な微笑を浮かべて。
一番綺麗な角度で、しなやかに頭を下げる。
「楼主。お世話になりました」
これが、男娼の『アザミ』として、この男の前に立つ、最後だ。
それを自覚して、アザミは。
大輪の花のように、うつくしく、笑ったのだった。
ともだちにシェアしよう!