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第17話

「まったく、信じ難いと思わないかい?」  アザミが、綺麗に整えた爪を見ながら、尖った声を聞かせた。    アザミの前には、マツバツバキが座っている。  場所は、マツバの部屋だ。  家主はマツバのはずなのに、ひとり掛けの背の低いソファにはアザミが悠々と足を組んで座り、マツバはアザミの正面に正座していた。  しずい邸の男娼同士は、よほど仲良くない限り、お互いの部屋を行き来することはない。  なので当然、マツバの部屋にアザミが来たのもこれが初めてであった。  マツバの隣には、箱がたくさん積み重なっている。すべて、チョコレートの箱だ。  淫花廓(いんかかく)の看板と言っても良かった人気男娼『アザミ』が、落籍(ひか)された、という噂は、瞬く間にしずい邸を駆け巡った。  いったいどこの御仁(ごじん)がアザミを身請けしたのか、と客同士の間でもかなりの探り合いが行われたようである。  アザミへの問い合わせが殺到したが、足首の怪我で臥せっていたアザミが部屋から出てくることはなく、代わりに、客たちには伝言がなされた。 『アザミを惜しんでくださるなら、お心の代わりに、アザミにチョコレートを届けてください。旦那様のお気持ちを、アザミはこの身の内側に受け入れて生きてゆきます』  果たして、淫花廓には連日のようにアザミ宛に高級チョコレートが届けられたのだった。  それは、1週間経ついまも、さほど数は減っていない。  そして、1週間ぶりに私室から出て来たアザミが向かったのが、マツバツバキの部屋だったのである。  マツバはアザミが持って来た……否、正確に表現するならば、アザミに付き従う男衆が持って来たたくさんの箱に仰天し、それでも久しぶりに姿を現したアザミの顔を見て、ホッと安堵の息を漏らした。 「僕のせいでお怪我をさせて、すみませんでした」  畳に三つ指をついて深々と頭を下げたマツバに取り合わず、ずかずかと部屋に入ってきたアザミは、許可も得ずにソファに座ると、 「それを置いて、おまえは外で待っておいで」  と怪士(あやかし)の面の男へと告げた。  その男衆は、他の男衆とは違い、剃髪していない。珍しいその姿に、マツバは目をパチパチとさせて、男が出て行くのを視線で追った。 「マツバ」 「は、はいっ」 「あの時、おまえが僕を心配して戻って来てくれたと聞いている。悪かったね」 「い、いえっ! 元はと言えば、僕のせいですし」 「ふふ……あれは、僕が勝手におまえにぶつかっただけの話だよ。そのチョコレートは、お詫びの品だ。好きに食べるといい」  「こんなにたくさん……いただけません」 「べつに、西園寺さまのチョコレートのように、変な成分が入っているわけじゃない」  そう言われ、マツバはドキリとした。  以前に西園寺がチョコレートを食べさせてくれたのだが、それは媚薬入りで……マツバは身も世もなくよがり泣き、男に抱かれて何度も吐精したのだった。  なぜそのことをアザミが知っているのか……。  マツバが真っ赤になってちらとアザミを伺うと、彼は、艶めかしい唇を笑みの形に歪め、意地悪く囁いた。 「なんだ。冗談のつもりだったけれど……図星か。まぁ、あのおひとなら、やりそうなことだけど……」  くつくつと肩を揺すって笑うアザミには、渡り廊下でマツバがぶつかったときのような、ひどく昏い陰りはなくて。  そのことに、マツバは内心で安堵したのだった。  あのときのアザミは……うつくしさの中にも儚さが潜み、退廃に色濃く支配されているようであった。  思わず、チョコレートを分け与えるような畏れ多い真似をしてしまったのだが……まさかそのときのやり取りが原因で、こんな……何十倍ものお返しをされるとは夢にも思わなかったマツバである。 「あの……アザミさん」 「なんだい?」 「身請けの話は、本当なのでしょうか?」  マツバは、正座した膝の上で、両手をぎゅっと握り締め、思い切って本人に尋ねた。  この1週間、噂だけがひとり歩きをしていたが、アザミほどの男娼を落籍したという人物に、誰も心当たりがないのだった。  アザミが、赤い唇をほころばせて微笑む。   「落籍(ひか)されたかどうかは置いといて、……男娼でなくなるのは、事実だよ」  不思議な言い方を、アザミがした。  どういうことだろうか。  男娼ではなくなるけれど、淫花廓(ここ)には残る、ということだろうか?  首を傾げたマツバを、アザミが指先までうつくしい手で招いた。  マツバが膝を滑らせてにじり寄ると、アザミが内緒話をするようにマツバの耳に手を当てて、密やかな声で囁いた。 「僕はね、好きな男と一緒になれる道を、ゆくんだよ」  マツバはただでさえ大きな瞳を、丸くして。  妖艶な花のように笑うアザミを凝視した。 「どういう、意味でしょうか?」  マツバの問いかけを、アザミが笑ってはぐらかす。 「ふふ……。けれど、僕の好きな男は、朴念仁でね。足が治るまでは僕を抱かないと言って聞かないんだよ」    足、と言われ、マツバは着物の裾から覗く白い足首に目をやった。  パッと見はどちらの足を痛めたのかわからないほどに、腫れは引いていたけれど、この部屋を訪れた際には右足を少し引きずっていたようにも思う。 「大事に……されてるんですね」  アザミの好きな男というのが誰のことなのかまるで思い当たらなかったが、マツバは、ポツリとそう呟いた。  好いた御方に大切にしてもらえるなんて、羨ましい。マツバなどは、週に一度の逢瀬が果たせるかどうかで……西園寺は魅力的な男だから、もしかしたら外の世界に本命の相手が居るかもしれなかった。    じわり、と嫉妬の感情が込み上げそうになって、マツバは首を振って自分の中からそれを追い出す。  いまは、自分のことよりもアザミの話だ。  本命の相手と一緒になるというには、アザミは少し浮かないようにも見えた。 「僕は、大事にしてほしいわけじゃない……。それに、男娼が傍に居るにも関わらず、少しも手を出してこないなんて、まったく、信じ難いと思わないかい?」  アザミが、綺麗に整えた爪を見ながら、尖った声を聞かせた。しかしやはり、その顔に憂いが潜んでいるように見えて、マツバは首を傾げた。  確かに、アザミほどうつくしいひとに誘われてその気にならない男が存在するとは思えない。  けれど、本気で好きな相手が怪我をしていたら、やはり体を厭うほうを優先するだろう。マツバだってきっと、西園寺が怪我や病気をしたならば、抱かれたい欲求よりも、心配する気持ちの方が勝るはずだ。  マツバがたどたどしくそう言うと、アザミは長い睫毛を伏せて、ふ、と吐息した。 「逆の立場で考えてみなよ。西園寺さまが、おまえのことを抱かないとしたら……どんな気分になる?」  先ほどからあまりにナチュラルに西園寺の名前を挙げられて、マツバは西園寺に惚れているわけではないと訂正するタイミングを完全に逃してしまっていた。  男娼に恋愛はご法度だ。  客に惚れたところで、自分が苦しむだけなのである。  マツバは男娼で……西園寺以外にも体を開かなければならないのだから……。 「ぼ、僕は……」 「僕は、あの男の目の前で、たくさんの男に輪姦(まわ)されたからね」 「えっ! アザミさん、それは……」  輪姦、という不穏当な単語に、マツバはぎょっと肩を跳ねさせた。  しかし、そう言ったアザミは涼しい顔で、伏せていた瞼を持ち上げて、小さく微笑んだ。 「僕は同情されたのかな。愛だと思っていたけれど……憐れまれただけかもしれないね。あの男が僕を抱かないのは、僕が汚れているからだよ。マツバ、おまえも西園寺さまに身請けされるときは、飽きられる覚悟で行くんだよ。僕たちは永遠に若いわけでも、うつくしいわけでもない。男娼をしていたという過去を、疎ましく思われる日が、必ず来るんだから……」  繊細な微笑を見せるアザミに、マツバは息を飲んだ。  西園寺がマツバを身請けしてくれるなど、夢のまた夢で。  現実にはあり得ないことだろうけれど。  たとえば、マツバが、西園寺だけを求めて良い環境に居たとして。当の西園寺に飽きられたのだとすると……それを想像して、体中にゾッと鳥肌が立った。 「ふふ……詮無いことを言ってしまったね。マツバ。聞き流して、いいんだよ。さて、長居をしてしまった。足が治ったら、僕はあの部屋を出る。これが、『アザミ』としておまえに会う最後だよ。チョコレートは、要らなければ他の()にあげればいい」 「アザミさん……いいえ、僕が、ぜんぶいただきます」 「太らないように、気を付けるんだよ。ああでももう少し肉が付いた方が、抱き心地は良いのかな? 西園寺さまに、好みをお伺いするといい」  マツバに語り掛けながら、アザミが腰を上げた。  うつくしい裾さばきで、すべるように畳を歩いたアザミは、数歩で足を止めて、軽く眉をしかめた。 「ふぅ……まだ無理か。マツバ。おまえの純真さは美徳だけれど、淫花廓(ここ)ではそれがおまえの枷になる。男娼であることを楽しめるようになったなら、おまえはきっと、稼ぎ頭になるよ」  口元のホクロを、淫靡に歪めて。  艶やかな花のように笑ったアザミが、マツバへと流れるような動作で頭を下げた。 「さようなら、マツバ」 「アザミさん……。本当に、居なくなるのですか?」  不意に、驚くほどの心細さが押し寄せてきて。  マツバはそう問いかけた。  アザミは否とも応とも言わずに、ひょこ……と右足を引きずる歩き方で部屋を出て行く。  これまで、交流なんてほとんどなかった。  けれどアザミはいつだって、マツバたちの遥か前に立っていたし、彼が張見世に姿を見せると、赤い花が咲いたようで誰もがアザミに見惚れていた。  憧れていたのだ、とマツバはいまさらながらに思った。  決して追い付けない存在だとは思っていたけれど、男娼としてのアザミに、憧れていたのだ。  静かに閉じたドアを、マツバはしばらく、感傷を噛みしめるようにして見つめていた……。    ***  廊下に出るとすぐに、男の手が伸びてきて、床から抱き上げられた。  アザミはされるがままに、逞しい腕に体重を預ける。  マツバツバキへの餞別のつもりで、男娼のアザミとして歩いてみたが、完治していない足首にはたった数歩でもかなりの負担だったようだ。  ずきずきと疼く右の足首にちらと目を向けたが、特に腫れたりはしていないので、じきに治まるだろう。 「聞いていたか?」  アザミは短く問いかけた。  マツバとの部屋の中で交わされた会話に、聞き耳を立てていたか、と。 「いいえ」  と怪士は応じたが、それは少し怪しかった。  アザミの声ならば、ほんの囁きでも拾ってきた男だ。耳の良さは、折り紙付きなのだった。  時刻はまだ15時を回った折で、この時間に出歩いている男娼はいない。だから廊下でもエレベーターでも、アザミは他のどの男娼ともすれ違わなかった。  雑用をこなす男衆はチラホラと目に入ったが、特に声を掛けられることはない。    マツバには、アザミが一番つらかったときに、やさしくしてもらった恩がある。  誰とも慣れ合わずに過ごしてきたアザミだったが、男娼を辞める、ということに少しの感傷があるのか、男娼として最後に誰かに会いたい、と思ったとき、マツバの顔が浮かんだのだった。  お礼を言うつもりが、なんだか身請けに関して脅すようなことを言ってしまったので、申し訳なかったかな、と思ったが、当初の目的であるチョコレートを渡せたのだから、まぁいいかと自分を納得させる。  目下の問題は……この男である。  怪士はいま、アザミの部屋で寝食をともにしている。  というのも、アザミの辞令(という表現が適当かどうかは不明だが)が男衆たちに周知されていないため、この出戻りの怪士に関してもまだなんの説明もされていない状態なのである。  面倒くさがりの楼主が、アザミの足が完治したらまとめて伝達する、と言うので、公には動けない怪士は、アザミの部屋でアザミの世話をすることが当面の仕事なのであった。  しかしこの男、アザミが何度誘っても、決してアザミと同じ布団には入って来ず、律義に部屋の隅に自分の布団を敷いて寝ているのだ。  それがアザミには不満なのである。  マツバの言うように、最初は大切にされているのだと思っていた。  しかし、足の腫れが引いてからも、男は頑なにアザミの誘いに応じない。  もう1週間も経過したというのに……。  やはり、男衆全員に抱かれたアザミを、汚いと思っているのだろうか。  そんな考えがアザミの内側には芽生えていて……。  アザミは静かに、唇を噛みしめたのだった。       

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