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第20話

 裸の肌同士が、触れあっていた。  とろとろとした微睡みが心地良い。  アザミは、ベッドに横たわる怪士(あやかし)の逞しい体の上に寝そべり、厚い胸板に頬を押し付けるようにして目を閉じていた。  蜂巣(ハチス)に入ってから、何時間が経過したのかわからない。  ベッドで立て続けに二度射精され、その後は青いタイル張りの浴室で体を清められた。  ふわふわの白い泡でアザミの肌を洗っている内に、怪士のペニスがまたちからをみなぎらせてゆくのを見つけ、アザミはタイルに膝をついて、その男根を口と手で慰めた。  先端の孔を舌でほじり、溢れてくる液体を吸い上げて、男の味を堪能していると、今度はアザミの後孔が疼き出した。  自分で慰めようと、後ろに指を伸ばした途端、その腕を掴まれてしまう。  アザミは強引に立たされて、壁の方を向かされた。え、と思う間もなく、後孔に男の指がねじ込まれる。    嬌声を上げて背筋を反らせたアザミの中を、怪士がごつごつとした指でぐちゅぐちゅと掻きまわしてくる。  アザミは悶え、翻弄され、指だけでイかされた。  逐情した後のペニスを湯で流され、繊細な動きで洗われる。  しかし怪士の牡は、勃起したままで……アザミは今度こそ主導権を握ろうと、浴室用の椅子に座った男の腰を、跨いだ。  怪士の剛直を、ぬぷ……と後孔に咥えたところまでは、良かった。  淫靡に腰を揺らして微笑んだアザミに、男は目を奪われていたし、大きな喉仏がごくりと動いて生唾を飲み込んでいた。  ふふ……と笑みを漏らして、アザミが男を翻弄するため、本格的に腰を使おうとしたその時。  怪士が突然立ち上がったのだった。  アザミは背中をひんやりとしたタイルに押し付けられ、両足を男に抱えられたまま、不安定な姿勢で貫かれた。  湯煙に曇る視界の中で、男の全身に浮き出た筋肉が躍動しているのが目に映る。  男らしく濃い眉の、その目尻側にある傷が、快感に歪んで。  アザミは男の顔を抱き寄せて、そこにキスをした。  怪士の鋭い双眸が、じわりと細まる。  視線を絡ませたままで、唇が合わさった。  荒い呼吸の中でキスをしながら、男が腰を打ちつけてくる。  壁と逞しい肉体に挟まれ、逃げ場もなく、アザミは巻き起こる快楽のすべてを、身の内側へと受け入れた。  浴室から出ると、男が甲斐甲斐しく身の回りの世話を焼いてくれた。  冷たい水を飲まされ、髪のひと房ずつを丁寧に拭われる。  お互いに裸のままなので、触れあう内にまたどちらからともなく昂ぶってしまう。  誰も咎める者は居らず、2人は本能のままにお互いの体を貪った。  怪士から激しく求められ、アザミの方からも男を欲して……発情期の動物も斯くやいうほどに、交合を繰り返したのだった。    そしてようやく、突き上げてくるような欲求が、落ち着きをみせた。    全身が、泥のように重い。  性交に慣れたアザミを、ここまで疲れさせるなんて、と、怪士のタフさにいっそ感心してしまう。  アザミは脱力した体をうつ伏せにし、怪士の上に横たわった。  男の大きな手が、アザミの長い髪を梳いている。  そのやわらかな仕草に、徐々に眠りを誘われた。  けれど、眠ってしまうのは怖い。  実はこれは夢なのではないかという、そんな馬鹿げた恐怖がアザミの中にはあって。  目が覚めたときにもしも隣にこの男の姿がなかったら。  今度こそアザミは、生きていけないだろうと、思った。 「どこにも行くなよ」  薄く目を開いて、アザミはポツリと呟いた。その声が頼りなさすぎて、アザミは自分にうんざりする。  アザミの女々しい願い事を、けれど怪士は笑わなかった。 「はい」  と、真摯な声が、くっきりと答えて。  アザミの髪が、また撫でられた。 「……アザミさま」  男の胸が振動して、音を伝えてくる。 「ん……」  怪士の指の感触に、猫のように目を細めて、アザミは生返事をした。  この男のてのひらは、いつだってあたたかくて……ずっと、撫でていてほしくなる。  思考が霧散しそうな心地良さの中、続く男の言葉に、アザミは一気に覚醒した。 「アザミさま。名前を……教えていただけますか?」  密やかな男の声に、アザミはガバっと上体を起こした。  アザミの動きを追うように、怪士も体を起こし、太ももの上に座るアザミの腰をてのひらで支える。  アザミは両の目を見開いて、男を凝視した。  怪士は、落ち着いた色をたたえた瞳に、そんなアザミを映している。  名前……。  『アザミ』という名を貰う以前の、己の名前……。    アザミはゆっくりと首を振って、怪士の問いかけを退けた。 「怪士……それはダメだよ」  それは、尋ねていい類のことではない。  なぜならアザミも怪士も、この淫花廓(いんかかく)から出ることなどできないのだから。  2人で割ってもなお、返しきれないほどの借金が、お互いの肩には載っている。    アザミはよかった。  アザミは昔から両親の虐待を受け、まともな暮らしをしていなかったし、10代の頃からは男娼として生きてきて……いまさら、『普通』の暮らしができるとは、自分でも思っていなかった。  だからあのまま年季が明けて、淫花廓(ここ)から出ることができたとしても、家族もない、学もない、できることと言えば男に抱かれることだけのアザミが、外の世界で真っ当にやっていけるとは、到底思えなかったのだ。  だから、アザミはいい。ここから出られなくても、いい。  しかし怪士は……この男には、まだ、家族が居るのだ。たったひとりの、母親が。  男は唯一の肉親を棄てて、アザミを選んでくれた。    けれどやはり、後悔しているのだろうか。  アザミに名前を尋ねる、ということが、俗世に対しての怪士の未練のように思えて、アザミはもう一度「ダメだよ」と囁いた。 「淫花廓(ここ)で暮らす以上、外の世界を持ち込むべきじゃない。怪士。僕は、男娼のアザミだった男で……本当はもう、アザミとも呼んじゃいけないんだ……」 「アザミさま……俺は」 「怪士。おまえの名前も、僕は訊かない。だからおまえも、訊くな」  繋ぎ止めておきたい、とアザミはいま、強く思った。  外の世界に未練を残す、この男を。  淫花廓に、繋ぎ止めておきたい。  移植手術を受けたという母親は、さぞアザミのことを恨んでいるだろう。  息子を奪ったアザミを、ゆるし難く思っているだろう。  だけどアザミだって。  もう、この男の手を離せない。  アザミにはこの男しかいないから。  この腕がなくては生きてゆけない。 「淫花廓(ここ)に居る間は、外の世界のことは忘れろ……。僕だけを見ておけ」  傲慢なセリフとは裏腹に、みっともなく語尾が震えてしまった。  アザミは唇を噛んで、視線を俯ける。  外の世界のことは忘れろ、と言ったところで。  怪士が真実、俗世に戻りたい、と乞うならば……。  アザミはこの手を、離すしかないのだろう。 「違うのです、アザミさま」  男の左手が、アザミの右手の甲に重なった。  表面を、恭しい仕草で撫でられる。  男の手が触れたそこは……かつて、まだ『アザミ』になる前のアザミが……怪我をした場所であった。  いまはもうない傷を、探すように。  男の指の腹が、そこをさする。 「アザミさま。俺は、俺の知らないあなたが知りたい。ただその欲のためだけに、尋ねてしまいました。申し訳ありません」    アザミの内側を震わせるような、低い男の声が。  アザミの胸を満たした。   「過去のあなたも、いまのあなたも、未来のあなたも、すべて、俺のものにしたい。……俺はおかしい。ほとんど、狂っている。俺があなたを食いつぶす前に、あなたは逃げていい」  逃げていい、と言いながら。  男の右手は、しっかりとアザミの腰に回っていたし、左手はアザミの手を撫でさすっている。  男が不意に見せた独占欲に、アザミの全身が甘く痺れた。     「怪士」 「はい」 「もう一度、僕の手を吸え。……あのときのように」 「はい」  『あのとき』がいつを指しているのか……と、怪士は一瞬も迷わなかった。  アザミの手を掬い上げた怪士が、唇を、白い手の甲へとつけた。  そのまま、ちゅ、と吸われ、その唇の熱さにアザミはぞくりと震えた。湧き上がって来たのは、歓喜であった。    ひとりで歩くのだと、ひとりで生きてゆくのだと、必死に虚勢を纏っていたアザミのこころから。  怪士の唇が、棘を抜き取ってゆく。  強く吸われたアザミの肌に、赤い唇の痕が刻まれた。  アザミはそこに、己の唇を寄せて。  怪士の残した熱を、味わう。 「アザミさま。愛しています」  儚いようなその言葉に、少し、泣きたくなって。  アザミは男の首に抱き着いた。  そして、その耳朶(じだ)に口づけると、吐息の音だけで、囁いた。 「     」  怪士がハッとしたように身じろぐ。  アザミは目を細め、口元のホクロを歪ませて、微笑した。 「過去の僕も、もらってくれるんだろう?」  甘く囁くと、怪士が何度も頷き、噛み締めるように一度、その音を舌の上に乗せた。  アザミは立てた人差し指で男の肉厚の唇を塞ぎ、 「淫花廓(ここ)では不要の名前だよ。おまえだけが知ってればいい」  と言って、その声を封じた。  怪士が「はい」と従順に首肯する。          その男の耳朶を口に含み、それをやわらかく吸って。  アザミは乞うた。 「おまえの過去も、僕に寄越せ」  アザミの言葉に、怪士が笑った。  目尻に笑い皺の寄る、やわらかな笑顔だった。  怪士がアザミの体を抱きしめ、先ほどのアザミと同じように耳朶に唇を寄せると、ここでは呼ぶことがゆるされていない名前を、ゆっくりと発音した。 「     」  アザミはその音の連なりを、耳の奥に閉じ込めた。    淫花廓から出る日は、永久に来ないかもしれない。  男の名前を口にすることは、一生ないかもしれない。    それでもきっと、忘れることはない。  この名前は、怪士の一部で。  そしてまた、アザミの一部も、男へと預けているのだ。  アザミが男の逞しい体にもたれかかると、怪士がアザミごとゆっくりとベッドに横たわった。  全身を、これ以上はない、というぬくもりに包まれながら。  アザミは眠りについたのだった……。     

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