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第8話
ブルースの軍服はぶかぶかだった。屈強だった身体は見窄らしいほどに細くなり、本物のミイラのようだった。皺だらけの皮膚は膜のように薄くなり、顔の骨が浮き出ている。窪んだ眼窩の奥で鈍く光る翡翠色の瞳はしかし、泣きじゃくるマズルカを、昔と変わらずまっすぐに見つめていた。
100年以上も前からずっと、その目に惹かれていた。
優しく、暖かく、頼もしく包んでくれるような眼差しが、大好きだった。
……自分は、この瞳に見合った者になるべきだった。
それがこんなことになってしまい、マズルカは己を深く恥じ、これ以上にないほどに悔いた。
「本当に、ごめんなさい」
何もかもが手遅れだと分かっていても、口にせずにはいられなかった。呼吸器も衰え、ひゅーひゅーと苦しげに息するブルースの手を握り、大声で泣いた。そんな自分を彼は静謐に見つめたが、ほんのひと時だった。
囁くように名を呼ばれ、顔をあげる。ブルースの唇が微かに動く。マズルカはそこに耳を寄せ、彼の息の音に全神経を集中させた。
彼は静かに言った。
「まっていてくれて、ありがとう」
あいしている。
骨と皮だけになったブルースの手が、力なく滑り落ちていく。どれだけ皺くちゃになっても暖かかった手のひらが、だらりと虚空に垂れた。
一回りも二回りも小さくなった彼の力なき身体を、マズルカは抱きとめた。重いのか軽いのか判然としない躯からは少しずつ体温が失われ、僅かな肉が硬直していくのを肌で感じる。
……滂沱、放心。その状態がどれ程続いただろう。ブルースの亡骸をゆっくりとベッドに横たえると、目の縁から次々と浮き出る涙を拭い、何度も深呼吸した。やがて落ち着きを取り戻すと、浅黒くなったブルースの額にしっとりとキスを落とす。
彼の死を悼み、彼の人生を労った今、すべきことは決まっていた。
魔法は万能だと言われるが、死者の蘇生だけは如何にしてもできない。永い歴史のある魔法界でもそれを成し遂げた者は一人もおらず、実現不可能な領域だと言われていた。
しかし、肉体に蓄え続けた99人の子供達を解放する術は知っている。マズルカは息を吐くと、瞑目し、心中で詠唱を始めた。小川のせせらぎのような静穏な呪文を、小鳥の囀りを思わせる歌声で唱える。ランタンの如く柔らかい灯が胸にともった。
これで罪滅ぼしになるとは、つゆも思っていない。
それでも最期くらいは、ブルースや自分に恥じない生き方をしたかった。
灯の中からひとつ、ふたつと浮き出てくるものを感じながら、マズルカは鎮魂歌とも言える呪文を紡いでいく。重く怠い感覚が身体をじわじわと蝕んでいくが、悲しくも何ともなかった。
――君達は、これで自由だ。
僕はもう君達を縛らない。だから、存分に楽しんでおいで。
僅かに残った力で指を鳴らせば、それらはタンポポの綿毛のようにふわふわと浮かび、壁を透け抜け外に出ていく。
行き先はちゃんと命じている。庭に入り口が開いているから。
問題なく辿り着けばきっと、この子達は無事に旅立っていける。
最後の一つが体内から出ていくと、座っているのさえ辛くなり、身体が前に倒れる。
ブルースの薄い胸に顔を預け、細々と息を漏らす。意識がゆっくりと暗闇に落ちていく。
生きて罪を償わない。このまま生きて死んでいくよりも、自らの命が潰えてでも彼らを至るべき場所へ向かわせる。それが贖罪であり、彼らにとっての幸福になると思った。
もはや、指一本動かすことすらできない。終わりの時を迎えようとしていた。
ブルースも最期は、こんな感じだったのだろうか。
けれども、怖くなかった。むしろ、ひどく穏やかな気持ちでいた。硬い自縛が解け、どこへでも行けそうだった。
……ごめんなさい、子供達。ごめんなさい、ブルース。
けれども、ありがとう。……愛してる。
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