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母と子
時間は夜の10時
晩飯を食い終わった後弟と妹全員にしっかりと歯を磨かせて、まだ宿題を終わらせていなかった勇磨には宿題をさせる
そしていつも、早くて10時には寝かせる
それよりも早く眠ってしまった琴美は、すやすやと眠る唯一の弟の隣で何か寝言を言っているようだ
そんな姿に微笑ましく思いながら、俺は教科書を開いた
物音ひとつしない静かな部屋で今から勉強をする
これは俺の習慣、いつからかは覚えていないがかなり昔からこうやってひっそりと勉強することが身に染みついている
次のテストでも学年1位を目指す
でないと俺には後がない
こうやって学年トップを取り続けて学校に居座っているのも、お袋に申し訳ないからと理由を付けているが実際は健との唯一の繋がりをまだ断つ勇気がないからだ
それなのに俺はまともに学校にも行かずに健から逃げ続けている
「はぁ…………」
吐き慣れないため息が思わず口から漏れる
それでも頭と手はまるで機械のようにカリカリと問題集を解き、ぺらりと次のページへ移る
健との繋がりを断てないのに
健から逃げ続けている
こんなのあまりにも矛盾している
そんなこと分かっているが、怖いんだ
健に会うと、同じ時間を同じように過ごすといつ自分の気持ちが露見するか分からない
今日だって輝に言われてあのザマだって言うのに、本人前にしたら何を口走るか分からねえ
そのくらい、俺の気持ちは大きくて深い
午後11時
勉強を始めて1時間、そろそろお袋が仕事を終えて帰ってくる頃だろう
そう思いながらひたすら問題集を解いていると、ガチャ、とドアの開く音が耳に入り手を止める
「ただいま」
少し疲労を含んだような声がする
ガサガサとビニール袋の音と、コトっと靴を揃える音も
「お帰り」
「静磨、ただいま」
俺とは形の違う丸い目をきゅっと細めて笑ってみせる
この瞳は俺や勇磨ではなく、歩美と琴美と慶磨に受け継がれた
お袋の持っている荷物を取り上げてテーブルに置く
中には肉や魚や惣菜が、適当に詰め込まれている
深夜だから安くてつい買っちゃった、と疲れた顔を優しく微笑ませる母
「みんなもう寝ちゃった?」
「あぁ」
「そっか、ありがとね」
お袋は長い黒髪を一本結びにしたヘアゴムをほどく
そのまま冷蔵庫まで歩いて行き、中から水の入ったペットボトルを取り出す
「晩飯、ラップかけてある」
「ありがと、わ、美味しそう」
テーブルに置かれた形の悪い餃子を見てお袋は優しく微笑む
爆弾のように中身の膨らんだひとつを指差して、これ勇磨が作ったやつでしょと無邪気に笑う
疲れているはずなのにいつもお袋はいつも笑顔だ
「静磨、ちょっとお母さんと話しよう」
「…………………あぁ」
「今日は、学校行ったの?」
「行ったけどすぐ帰ってきた」
「なんで?」
「…………輝に会った」
お袋とテーブルに向かい合って座って話す
聞かれたくなかった質問にも素直に頷き目を逸らす
俺の返答にお袋は少し困ったように俯く
俺と輝とは幼馴染だから、もちろんお袋も輝のことはよく知っている
輝はよくうちにも遊びに来ていたから、お袋も輝のことを可愛がっていたのを覚えている
「健ちゃんは………?」
「………………………ああ、会った…………」
とたんに心配そうな顔をして俺の顔を覗き込む
中学の頃からの付き合いである健ともお袋は知り合いだ
お袋は健のことを可愛いとえらく気に入ってたみたいだから、今でも気にかけている所がある
別にお袋が俺の気持ちを知っているわけじゃねえが
「お母さんね、静磨はバイトしなくていいと思うの」
「………………」
「ちゃんと学校に行って欲しい」
「………………」
「だめかな、お母さん頑張るから」
少しクマのある目を苦しそうに細めて言う
お袋とこんな風に向き合って話したのは久しぶりだ
普段から保育園や小学校の話はしたりしているが、俺のことについては殆ど触れてこなかった
だけど、今日は違った
今日はそっとしておいて欲しかったのに
きっとそう思っていることをお袋は察したんだろう
「ねぇ静磨、バイト、そんなにしなきゃダメ?」
「…………勇磨たちのためだろ」
「お母さんが頑張るから、バイト減らすことできない?」
「…………………」
「お母さんにとっては静磨も大事な息子だよ?お母さん、そんな苦しそうな顔して働いてる静磨、見たくないよ」
お袋の目に涙が浮かぶ
俺だって学校に行きたい
健に会いたい
でも、ダメだ
俺が親父の代わりになってやらねえと
弟たちを不幸にしないように努力しねえと
19歳で俺を産んで、ここまででかく育ててくれたお袋を支えねえと
苦しいのは俺だけでいい
弟たちにこんな思いはさせない
俺が全員、望むのなら大学まで行かせてやる
ぐっと膝の上で拳を握りしめてお袋への言葉を飲み込む
「静磨は今、幸せ?」
「……………」
「お母さん、そうは見えない」
「……………」
「静磨がずっと我慢して耐えて、苦しそうに見える」
お袋の瞳から一筋の涙が溢れる
普段は優しく笑って、たくましく働くお袋の涙がとても珍しい
どうしたらいいか良く分からなくて少し考えた俺は黙ってティッシュの箱を手渡す
お袋はそれを右手で受け取りごめんと言って涙を拭う
「ごめんね静磨、でも私お母さんだから静磨にも幸せになってもらわなきゃ困るよ」
「…………………俺は幸せだよ」
「静磨………」
そう言い捨て、何も言わずに立ち上がる
そして作っておいたお袋の分の晩飯を電子レンジに入れると、お袋と目を合わせないようにして寝室に身を隠す
寝室には並んで眠る俺の大切な家族の姿
寝相の悪い勇磨
うつ伏せで眠る歩美
ずっと寝言を言っている琴美
よだれを垂らした慶磨
そんな可愛い寝顔を見ると、意思に反して涙が溢れてくる
「っ………………」
悪い、お袋
俺はこんなに幸せな家族に囲まれてんだ
輝のように、裕福な家庭に生まれても家族が嫌いな奴だっている
俺はもう、俺の幸せをひとつ持ってる
これ以上求めるなんて贅沢すぎんだろ?
でももし
もしあとひとつだけ、手に入れられるのなら………
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