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十六、お別れの時は笑顔で

 僕に圧し掛かっていた重みが消え去る。それと同時に竜ちゃんがくくく、と笑った。 「如月、おまえも野暮なことするなぁ? 他人の性行為を覗く趣味でもあったのか?」 「…………」  竜ちゃんは何事もなかったかのように立ち上がり、僕から離れた。  僕は多少自由の利くようになった体を、入り口が見える様に倒す。そこには確かに柊さんがいて、無様に転がる僕を無表情にぼんやりと眺めていた。 「これは合意。こういうプレイだ。碧はこういうのが好きなんだよ」 「……なぁ、北條。コレ、見てもそんなこと言えんの?」  ドア口で立ち止まっていた柊さんは部屋に足を踏み入れると、一直線にテーブルに向かい、テーブルの天板裏を探るようにして触った。かちり、と音を立てたのち、小さいスティック状の何かを取り出した。  それが何か、僕には見当もつかない。竜ちゃんもじっと柊さんの様子を窺っていた。 「この中に音声データが入ってんの。さっき、この部屋で録音された音声が」  何かに気付いた竜ちゃんが、柊さんの手の中にあるものを凝視していた。そのまましばらく無言で佇んでいたかと思えばふん、と嗤った。 「仕方ない奴だな。それはおまえが勝手に作った音声(もの)だろう? 自分を正当化するために」 「さぁ…どうだか」  柊さんの声はこんな状況だというのに至極楽しそうだ。口元にもうっすらと笑みが浮かんでいる。  床に転がったまま起き上がれずにいる僕に近づいて手に持っていた毛布を僕にそっとかけてくれる。ただ、僕を見下ろす目からは全く感情が読み取れなかった。とても声をかけられる雰囲気ではなかった。  その様子を、竜ちゃんは目を離すことなく観察していて、二人の間には妙な緊張感が漂っていた。   「あー、そうそう」  そう言って、僕の髪をそっと撫で梳いてから、柊さんは竜ちゃんを振り返った。 「もう一つあってよ。…そっちは音声を放送室に送れるようになってんの」 「……っ…」  にやける柊さんとは正反対に竜ちゃんの目は愕然と大きく見開かれた。 「あ、気付いた? 今ここでおまえが碧に対してした発言と行為、全校放送で流れてたって」 「——そ、そんなバカなことがあるかっ」 「じゃあ、見てみる?」  柊さんは大股で窓際に近づき、カーテンをざっと引いた。  僕から見えるのは雲一つない青い空だけだったけれど、竜ちゃんが見ている景色は違ったようだった。  窓の外に視線を泳がせた竜ちゃんの顔からは血の気が引き、いつも自信に溢れている竜ちゃんと同じ人物とは思えないぐらいに狼狽していた。 「う、うそだ…」 「おまえさぁ、人気者だよな、ホント。これだけギャラリー呼んじまうんだからよ」 「…こんなはず…」 「おまえがここに来るのは想定してた。朝、碧が天然かました所為で、おまえは火消しに必死だっただろ? そのあと、碧を丸め込みに来るんじゃねぇかって」 「おまえ、会議は…」 「あぁ、きちんと出席したぜ。ま、その途中におまえがきっちりやらかしてくれたから、お開きになったってわけ」 「な…っ」 「ってことで、ご苦労さん」  柊さんの声は終始軽やかだった。でも、それはとても芝居がかっていて、柊さんの心はそこにないようだった。 「…こ、こんな馬鹿なことがあってたまるか…っ!」  竜ちゃんは狼狽しながらも一歩踏み出すと、笑みを張り付けたままの柊さんに殴りかかって行った。   けれど竜ちゃんの拳は身を躱した柊さんに掠ることはなかった。反対に、柊さんに横っ腹を蹴り飛ばされて、竜ちゃんは床に転がり突っ伏した。僕が初めて見る、想像もできない姿だった。 「人の気持ちを軽くみんじゃねぇ。おまえが逃がした魚は、俺が大切に可愛がる」  ——せいぜい泣き喚いて後悔しろ。    低く唸るような声だった。それを、拳を握ったまま起き上がらろうとしない竜ちゃんの背中に投げた後、柊さんは僕に駆け寄って抱き起し、腕に絡まったシャツを正してくれる。それから僕を毛布に包み、その上から抱きしめてくれた。 「柊さん…」  僕が名前を呼べば、柊さんの腕に一層力が込められる。苦しいけれど、心地いい。そう感じられるのは、この腕が柊さんのものだからだと、そこで初めて実感した。 「わりぃ、碧…。囮みたいなことさせて。このぐらいしないと、あいつの信用、揺るがねぇから…」  柊さんの睫毛は震え、どこか泣きそうな顔をしていた。まるで柊さんが痛みを感じているみたいだ。  柊さんは唇を噛むと、ジンジンと痛みが尾を引いている僕の頬に恐る恐る指先で触れた。 「痛かったよな…」  僕の頭をギュっと胸に抱き込んで、何も言葉を発さずしばらくじっとしていた。その腕の中で、僕は柊さんの胸の音に耳を傾け、柊さんが戻ってきてくれた幸せを噛みしめた。 「立てるか…?」 「…はい」  柊さんが体を支えてくれて、僕は何とか立ち上がった。足が震えて、体が自分のものじゃないみたいだったけれど、なんとか踏ん張る。  すると、柊さんがドアの向こうに「おい」と声をかけた。  全校放送されていたのは本当だったみたいで、柊さんの合図で風紀の腕章をつけた数人が部屋に入ってきた。問答無用で項垂れる竜ちゃんを立ち上がらせると、その中の一人が柊さんと僕に顔を向けて、ニヤリと笑った。 「それが本命な」 「うっせぇ。さっさと連れてけよ」 「あいあい。如月さんちのご子息は相変わらず横暴だな。——で、そっちの醜いアヒル少年はこいつを一発殴る権利があるとは思うが、どうする?」  醜いアヒル?  僕はその人の意図を捉えきれず、僕は柊さんの反応を窺った。  「あー…、碧、あいつに言っとくことねぇ?」  柊さんは嫌そうに竜ちゃんを指さした。  言っておくことと言われてもさっぱり思いつかない。さようなら、とか別れの言葉がいいんだろうか。 「多分もう会うことねぇから。…会わせねぇから」 「……じゃぁ…」  柊さんは僕に嘘をつかなかった。僕も嘘を吐きたくない。ずっと、好きだったけど、でも僕は…。   「竜ちゃん、…あ、あのね…僕、竜ちゃんに触られるの気持ち悪くて……だから、もう好きじゃなくなったみたい。ごめんね…竜ちゃん」  これでいい。ちゃんと竜ちゃんに言えた。  お別れの時は笑顔、と言われていたから、少し頬の筋肉は引き攣っていたけれど、僕は竜ちゃんに笑顔を向けた。  なのに、竜ちゃんは茫然と魂が抜けたような、僕から見ても酷い顔をしていて、最後にはガクリと首を垂れた。  すると、ぶはっ、と柊さんと風紀の人がほぼ同時に噴いた。  二人とも傑作傑作と言っていて、僕はその様子にしばらく瞬きする。けれど、二人の仲が良さそうで、柊さんのやんちゃな笑顔も見れて、僕の頬も緩んだ。 「…碧」 「はい…?」 「おまえは弱いのか強いのかわかんねぇな。——でも、そのままでいろよ」  前髪が掃われて、柊さんがちゅっと音を立てて僕の額にキスした。見上げれば、柊さんの穏やかに細められた綺麗な目があって、僕の顔はかぁと火照るように熱くなる。 「ったく、人前でイチャイチャすんなよな…。ま、後はごゆっくり」  風紀の人が号令をかけて、部屋からぞろぞろと出ていくと、部屋に静寂が戻った。  その静寂の中、柊さんがふ、と笑う。 「気持ちよければ好き、か…。あながち間違ってもないかもな」  柊さんはポツリと零した。

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