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第4話

 辰巳が目を開けると、ぼんやりと見知った天井が目に入った。どうやら生きているらしい事に安堵する。  フレッド。と、そう名を呼ぼうとして、喉が引き攣れた。 「親父! 若が目を覚ましました!」  ――うるせぇな。それよりもフレッドはどこだよ…。  頭に響く声に顔を顰め、辰巳は声を絞り出した。 「フレ…ッド…」 『辰巳、僕は大丈夫だよ』 「なら…いい…」  聞き慣れた、穏やかな低音が耳に流れ込んで、安心した辰巳は目を閉じた。  躰が、怠くて仕方がない。   ◇   ◇   ◇  随分と長い事夢を見ていた気がする。  辰巳が目を覚ますと、ぼんやりとした視界の中に父親の顔があった。  辰巳匡成(たつみまさやり)。辰巳の実の父親であり、辰巳組の頭である。普段は家に帰ってくるのも稀な男の顔に、辰巳の口から奇妙な声が漏れる。 「んな…っ?」 「起きたか、一意」  反射的に辰巳が躰を起こそうとすれば、匡成の腕にやんわりと肩を押さえられた。  どうやら、起き上がるなという事らしい。  少しだけ怠くはあるものの、痛みもなく意識もはっきりしている。辰巳はゆっくりと部屋の中を見回したが、フレデリックどころか部屋には匡成と辰巳以外誰もいないらしい。  ――当たり前か。何日寝てたのか知らねぇが、船に戻ってるよな…。  ぐるりとひとしきり首を巡らせただけで、辰巳はその頭を枕の上に戻した。  さすがに匡成の腕に抵抗して起き上がるほどの力がない事は、自分自身がよく分かっている。  息子の様子に匡成はひとつ頷いて、静かに口を開く。 「一意、あの外国人だが」 「フレッドがどうかしたのか」 「お前、あの金髪の坊やとは、いったいどういう関係だ?」 「どう…って、なんつーか、ツレ? どうしてそんな事を聞く?」 「お前が、最初に目を覚ました時に名を呼んだんで気になった」  匡成の言葉に、辰巳は思わず絶句した。一度目を覚ましたという記憶がない。だが、フレデリックの夢は、確かに見ていたような気がする。  無意識というのは恐ろしいものだと思う。 「目を覚ました覚えはねぇが、フレッドの名を呼ぶ可能性はあるかもなぁ」 「お前、あの金髪の坊やが大事か?」 「大事だよ。失くしたくねぇ」  辰巳の言葉に、匡成が驚いたように目を見開いた。  それはそうだろう。母親を失ってから、大事な人など作らないと辰巳は言い続けてきた。そしてその言葉通り、辰巳は今まで友人すら作りはしなかったのだから。 「親父、今日何日だ?」 「二十日」 「五日も寝てたのか…。フレッドは? 帰したんだろうな」 「それなんだが…少し面倒な事になっている」 「日本に、いるのか?」 「ああ」  匡成の言葉に、辰巳は今度こそ上体を起こした。フレデリックが日本に残っているというのなら、寝ている場合ではない。  腰に激痛が走って、辰巳の動きが一瞬止まった。思わず蹲りそうになって、辰巳は歯を喰い締める。 「ッ――…っ痛ぇな、クソッ」 「まだ動くのは無理だ」 「無理も何もねぇんだよ。場所分かってんならフレッドのところに連れて行きやがれ。アイツに何かあったらテメェも許さねぇぞクソ親父」  大仰に躰に巻きつけられた包帯が、飾りでない事は辰巳も分かっている。  じくじくと腰の辺りにわだかまった痛みに顔を顰めながらも、辰巳はどうにか布団の上に胡坐をかいた。  片膝を支えに立ち上がろうとするとする辰巳に、苦笑を漏らした匡成が声を張る。 「おい! 鎮痛剤持って来い!」 「はっ!! 只今ッ!!」 「ククッ、我が息子ながら…本当にお前は馬鹿だな」  そうまでして会いたいほど、金髪の坊やが大事という訳だ。そう、匡成が独り言のように呟いた。  すぐさま辰巳の元に運び込まれた鎮痛剤は、錠剤などではなかった。  若い衆の後ろに、派手な身なりの女が一人控えている。美月楓(みつきかえで)。彼女は、医師免許を持つ正真正銘の女医だ。  美月は辰巳の家によく出入りしている、いわゆる闇医者。匡成の愛人だという噂もあるが、果たして嘘か真か。若い衆に持たせた鞄から注射器を取り出すと、美月は躊躇いなく辰巳の腕に針を突き刺した。いつもながら荒々しい。  辰巳が礼を言うと、にこりと微笑んで美月は出て行ってしまう。  筋肉注射のため即効性はなく、痛みは変わらないはずなのにすぐさま辰巳は立ち上がった。  立ち上がったはいいが、腰の傷から熱と痛みが全身に広がるような感覚に辰巳は顔を顰める。着替えを若い衆に任せて、辰巳は匡成から状況を聞き出すことにした。 「んで? フレッドは今どこにいる」 「俺の(ヤサ)」 「あぁん? 何だってそんなところに押し込めた」 「一番、安全だからだよ」  匡成が安全だと言うのなら安全なのだろうが、どうしてそんな場所にフレデリックを避難させる羽目になったのかを辰巳は知りたい。  不機嫌さを隠そうともせず辰巳が聞けば、匡成は苦い笑みを浮かべた。 「お前、あの金髪の坊やの素性を知ってるか?」 「はぁん? そんなもん知らねぇよ。船乗りだろ」 「それだけじゃないから、困った事になってるんだがな…」  匡成の言葉に、辰巳が振り返る。 「どういう事だ」 「妙な噂を持ち込んだ奴がいる。金髪の坊やが、フランスの大所帯と繋がりがあるとな」 「フランスの大所帯って…、嘘だろう?」 「さぁな。それを聞き出すのは、お前の役目だろう一意」  あくまでも噂の域を出ないと匡成は言うが、もしそれが本当だった場合はとんでもない話だ。  そんな噂が流れたのだとしたら、騒ぎも起きるはずである。  以前、辰巳は何の気なしにフレデリックにフランスのマフィアかと尋ねたことがあるが、それが冗談では済まなくなるという事だ。  辰巳は大きく息を吐き出した。確かに、フレデリックには得体の知れない部分があった。  倉庫で発砲した時、岬と、それから辰巳に向けられたフレデリックの目が脳裏に過ぎる。  ――無感情で、酷く冷めた目ぇしてやがったな。そのくせ、色気はあんだよなぁ。  一言では言い表せない。楽しそうでもあるし、感心しているようでもあるし、馬鹿にしているようでもある。そんな目を、あの時フレデリックはしていた。 「そんで? それを俺に聞き出させてどうしようってんだよ親父」 「どうもこうも、本当の事など俺らに知れるはずがない。ただの確認だよ。火を消すためのな」  確認。匡成の言葉に、辰巳は鋭い舌打ちを響かせた。もとよりその為に匡成がフレデリックを足止めしたことは間違いない。  ――本当に、めんどくせぇな。  ともあれ、フレデリックに会って話がしたい。 「表に車回せ。それと、一意に携帯渡してやれ」 「はッ! 只今お持ちします」 「一意、お前の携帯は金髪の坊やに持たせたままだ。あとは好きにしろ」  玄関の目の前に横付けされた車に辰巳が乗り込むと、匡成も乗り込んできた。 「何で親父まで来んだよ」 「ああ? 散歩だ散歩。話は二人だけでさせてやるから安心しろ」  あっさりと言われてしまい、辰巳は思い切り眉間に皴を寄せた。  出がけに渡された携帯電話を取り出すと、辰巳は迷うことなく自分の携帯に発信する。数コールの後にプツッと小さな音が聞こえたが、相手は黙ったままだ。  構うことなく、辰巳が口を開く。 「俺だ」  ただ一言。それだけで良かった。相手がフレデリックであるなら、声でわかる。 『辰巳…?』 「連絡すんのが遅くなって悪ぃな。随分と寝てたみてぇでよ」 『傷は、大丈夫なのかい?』 「ああ、たいした事はない」  聞きなれた低音が、耳に心地良い。 『そう。それなら良かった』 「これからそっちへ行く。もう少し待ってろ」 『わかった』  電話を切ると、辰巳はどさりと疲れたようにシートに凭れた。 「大丈夫か?」 「あぁん? 怠いには怠いがな」 「お前、早死にするな」 「縁起でもねぇこと言ってんじゃねぇよクソ親父」  思い切り顔を顰めて吐き捨てる辰巳に、匡成が声をあげて笑う。  その笑い声がふと途切れて、匡成が思い出したように口を開いた。 「そういや一意。お前、ネコなの?」 「はあっ!? ッ痛って…、ざけんなクソ親父ッ。てめぇは息子に何てこと聞きやがんだよッ」 「あの金髪の坊や、お前より良い躰してるもんなぁ」 「テメェ…それ以上言ったらぶん殴るぞ」 「ハハッ、傷抉られたきゃあやってみろ」  笑ってはいるが、この男ならやりかねない。そう、辰巳は思う。  さすがに実の息子にそこまではしないだろうなどという甘い考えが匡成に通用しない事を、辰巳は身をもって知っている。  思わず黙る息子に、匡成がくつくつと喉の奥で嗤う。そして、こう言ったのである。 「まあ、息子が増えるってのはいい事だ。なあ、一意」  被害者が増えるの間違いだろうと辰巳は思ったが、口には出さずにおいた。  体調が万全でない今、匡成が相手では本気で命を失いかねない。  渡されたカードキーで部屋のドアを開けると、辰巳は大股で廊下を進んでいく。  ようやく効き始めた鎮痛剤に、とりあえず通常の動きであれば問題なく動けるようにはなっていた。  ドアの開く音にこちらを見たフレデリックと辰巳の視線が絡み合う。 「辰巳」 「悪かったな、こんな所に押し込んでよ。仕事は、大丈夫なのか?」 「大丈夫だよ。連絡は入れてあるからね」  次に横浜港に船が寄港した時に、乗務に戻ると言う事で話はついているらしい。  思わぬ長期休暇だと言ってフレデリックは笑うが、それだけ仕事を空ける事が今後にどう響くのかは、想像に難くない。  辰巳はフレデリックの隣に腰を下ろすと、煙草に火を点ける。  咥え煙草でソファに凭れ掛かると、天井に紫煙を勢いよく吐き出した。 「お前を、失くしたくない」 「辰巳?」 「お前が龍一に攫われた時、失くしたくねぇなって、そう思った」  衒いもなく真っ直ぐに告げられる言葉が、飾り気も何もなくて辰巳らしい。 「僕はね、辰巳。キミが刺された時に、初めてこの躰を呪ったよ。僕が居なければ、辰巳が刺される事はなかった」 「そうでもねぇんじゃねぇの? 俺は、お前で良かったと思ってるよ。お陰で命拾いしたからな。もう少し到着が遅れてたら、この世にいねえってさ」  辰巳のような大きな躰を抱きかかえられる人物など、フレデリック以外にはそういない。と、そう言って辰巳は笑った。確かにそれは、事実だ。 「俺なぁ、お前に抱えられてる時、すげぇ安心しててよ。正直そのまま死んでもいいって思ってたんだわ」 「馬鹿な事は言うものじゃないよ」 「馬鹿、か…。親父にも同じ事言われたな。でも、俺はお前を失くすくらいなら、自分が死んだ方がマシだ。フレッド」  相変わらず天井を見上げたままの辰巳を、フレデリックが驚いたように見る。 「お前は男で、俺が守らなくても大丈夫だってのは、分かってんだけどよ」 「そうだね」 「けど、俺はお前を守りたい」 「ふふっ、辰巳。それ、凄い殺し文句だよ?」 「当たり前だろ、口説いてんだからよ」  辰巳の言葉に、フレデリックがクスクスと声をあげて笑う。 「本当にキミって男は…どうしてそう僕を夢中にさせるのが上手いのかな」 「どうしてそう、お前って奴は正直なんだろうな」 「じゃあ、そんな正直な僕からお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」 「あん?」 「キスがしたい、辰巳」  言いながら、フレデリックは辰巳の口から煙草を奪い取るとその唇に口付けた。  二人で吐息を貪り合うのは、初めてだった。舌を絡ませて、時折噛みつきがなら二人で笑う。  長い脚の上に背中を乗せてごろりと寝転がった辰巳は、何かを忘れている事に気付いた。フレデリックの顔を真下から見上げて、あっと声を上げる。 「あー…そういやフレッド」 「うん?」 「お前、何でここに押し込められてんのか、理由知ってるか?」  辰巳の問いかけに、フレデリックはあっさりと首を横に振った。 「僕はただ、マサナリって人にここに居れば辰巳が迎えに来るって言われただけだよ。辰巳の携帯は持ってていいから、それで必要な連絡はすればいいって」 「はぁー…、あんのクソ親父」  最初から、辰巳に丸投げするつもりだとしか思えなかった。 「それが、どうかしたのかい?」 「あー…まあ、お前に聞かなきゃならねぇ事があってよ」 「何かな」 「俺、お前に一度フランスのマフィアか何かかって言った事あったよな」  それだけで、辰巳が何を言いたいのかを把握したのだろう。辰巳を見下ろして、フレデリックが微笑んだ。  その笑みが、きっとすべてなのだろうと思う。けれど、そのまま流す訳にはいかなかった。 「辰巳が聞きたい事は分かったよ。それに答えるとするなら、僕は組織の人間じゃない」 「繋がりは?」 「まあ、なくはないね。船のカジノが絡んでる。それ以上は言えない」  フレデリックの答えに、辰巳はガシガシと頭を掻いた。噂は、本当だったという訳だ。  正直なところ、繋がり云々というよりもっと近しいところにフレデリックがいたとしても辰巳は驚かないだろう。  だが、もしそうだったとしても、フレデリックが本当の事を打ち明けるはずがなかった。  俗にマフィアと呼ばれる海外の組織と日本のヤクザでは、決定的に違っている点がある。  向こうは組織といっても、非公然組織だ。日本のヤクザのように、公然と看板を掲げた組織があるわけではない。徹底的な、秘密主義。ましてフランスとあっては、本人が名乗る事は絶対に有り得ないだろう。 「それで、辰巳は僕にそんな事を聞いて、どうするつもりだい?」 「別に。どうもしねぇ…ってか、どうにもならねぇだろ」 「離れる事は、できる」  酷く冷めた目が、辰巳を見下ろしていた。息が、詰まる。  ――まぁた、おっかねぇ顔するもんだなぁ。  ゾクリと、辰巳の背筋を痺れが走る。  辰巳はフレデリックの首に腕を回して引き寄せると、耳元に低く囁いた。 「おいフレッド。怪我人煽ってくれんじゃねぇよ。抱きたくなんだろうが。お前のその目は、色気があり過ぎる」 「ッ……」  そう言って嗤う辰巳を、フレデリックは小さく息を吐いて抱き締めた。 「だからよ、煽んなっつってんだろうが。襲うぞてめぇ」 「怪我人は、大人しくしておくものだよ辰巳?」 「あぁ? 煽るだけ煽って大人しくしてろってなぁ、どういう了見だ?」  こういう了見…かな。と、そう呟いて、フレデリックは辰巳のベルトに指を掛けるとあっという間に抜き去ってしまう。  そのまま煽り倒された辰巳が我慢できはずもなく。辰巳は再び腰を赤く染める事となった。  予想通り傷を悪化させた馬鹿息子と、それを支えるように立つ金髪の新しい息子を、散歩帰りの匡成は拾った。  後部座席に横たわる辰巳の真っ赤な腰とフレデリックの手に握られた赤い携帯を、匡成が呆れたように見やる。 「俺が抉ってやるまでもなかったな。一意」  そう言って、匡成が鼻で笑い飛ばしたことは言うまでもない。

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