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第5話

 穏やかな日差しが降り注ぐ軒下で、辰巳はフレデリックの長い脚に頭を乗せて寝ころんでいた。晴れて家族公認(?)の仲となってから早一か月。  散歩帰りの匡成に拾われて家に帰った辰巳は、麻酔も効かないうちから開いた傷を縫われた。注射でさえも荒々しい美月に説教されながらの縫合は、もう二度と経験したくない。  それもこれも、自業自得だったが。おかげで、未だに辰巳は家から出る事を許されてはいない。  事情により匡成によって足止めされていたフレデリックの船が再び日本に寄港するのは三か月後だというから、まだ二か月は休暇があるという事だ。  本来であれば寄港地まで飛んで乗務に復帰する事も出来たはずだったが、フレデリックはそうしようとはしなかった。  匡成の許しもあって、フレデリックはあれ以降ずっと辰巳の家に滞在している。もはや、同棲状態だ。  フレデリックの素性に関しての一件は、”確認”だと言った匡成の言葉通り、これといってその後問題にはなっていない。  どちらにせよ知れたところで海外の本職を相手に日本のヤクザが楯突くなど不可能だ。  何かが起きてからでは遅いなどと騒ぐ馬鹿もいたようだが、匡成が約束通り火を消した。それで終わりだった。  本当に、この家業は面倒臭い。 「あークソ。暇で仕方がねぇ」 「そう? 僕はこうして辰巳と過ごせるのは結構楽しいけどな」 「あぁん? 日がな一日縁側で昼寝とか、どこの年寄りだよ」 「年寄りというか、辰巳の場合は猫?」  頭を撫で梳くフレデリックの手で本当に毛繕いでもされているような気分になって、辰巳は起き上がった。  その眉間には、皴が刻まれている。 「どうしたのかなー…子猫ちゃん?」  わざとらしいフレデリックの猫なで声に、辰巳は心底嫌そうな顔をした。  不意に、匡成にお前はネコなのかと問われたことを思い出して、増々眉間の皴を深くする。  辰巳の場合、猫と言うよりはむしろ虎か何かだと思うが、匡成もフレデリックもからかいを含んでいるために辰巳の機嫌を逆撫でする。  その口から吐き出される声は、地を這うように低い。 「あぁん? もう一遍言ってみろ」 「子猫ちゃん?」  フレデリックの口角が煽るように持ち上がり、辰巳を挑発する。 「どっちがネコだよ。この場で組み敷かれてぇのか? フレッド」 「気が合うね、辰巳。そろそろ僕も、キミを抱きたいと思ってたところだよ」 「はぁん? やれるもんならやってみろよ」  先ほどまでの穏やかな空気はどこへやら。睨み合う事数秒の後、辰巳は立ち上がるとフレデリックの腕を掴んで自室へと連れ込んだ。  包帯こそ取れていないが辰巳の腰の傷は、もう殆ど塞がっていた。 「脱げよフレッド」  バサリと、辰巳のシャツが畳に落ちる。引き締まった腰に巻かれた包帯をうっとりと眺めて、フレデリックは着ている服を脱いでいく。  立ったままの辰巳の足元にフレデリックは自ら膝をつくと、視線を逸らすことなくその口を開いて辰巳の屹立を飲み込んだ。 「ッ、何が抱きてぇだ? それが、男のもん咥えて言う科白かよ」 「んふっ、分かってないなぁ…辰巳は」  既に腹につく程反り返る辰巳の剛直を根元から舐め上げて、フレデリックが妖艶に嗤う。  見下ろす辰巳に見せつけるように歯を剥き出しにすると、そのまま軽く歯を立てた。 「痛ッ、お前な…っ」 「ここ、急所だって分かってる?」  フレデリックの腕が、逃がさないとでもいうように辰巳の腰を引き寄せる。喉の奥まで飲み込まれ、先端を締め上げられて、辰巳は息を詰めた。  今までとは違う。と、ようやく辰巳が気付いたところで、既に遅かった。  フレデリックの口腔で締め上げ、追い立てられて声が漏れる。 「ッ…く、…は…ッ、待…ッ」 「駄目だよ、辰巳。今日は……待たない…」  自らの意思とは関係なく急速に追い上げられた快感は過ぎたもので、あっという間に吐精感が込み上げる。  吐き出す直前でフレデリックの指に屹立の根元を戒められて、辰巳は思わずその肩に手を突く。情けない事に、辰巳は立っているのでさえ精一杯だった。  ともすれば嬌声をあげてしまいそうなところを、辰巳は食いしばるように言葉を絞り出す。 「ぅッ…ア、…指…ッ、放…せ、てめ…ッ」  膝を震わせる辰巳の屹立を含んだまま、フレデリックはクスクスと笑う。  肩に食い込む辰巳の指に力が入れば入るほど、フレデリックもまた、辰巳を追い上げた。  根元を強く握り込んだまま吐精を煽るように吸い上げれば、さすがに辰巳の口からも嬌声が漏れる。  苦しそうで気持ち良さそうな声に、フレデリックが満足そうに微笑んだ。  奉仕される事にしか慣れていないだろう辰巳の躰が、愛おしい。  吸い上げる度に目の前で辰巳の美しい腹筋が艶めかしく隆起するのを、フレデリックはうっとりと眺めた。 「ふッ、く…ッ、フレ…ッド…」 「うんー?」 「駄目…だッ、マジ…で…ッ、待っ」  切羽詰まった声に、さすがに限界だと悟ったフレデリックが口を離した瞬間、辰巳の躰が膝からくずおれた。  抱き止めたフレデリックの腕の中で、辰巳が浅い呼吸を繰り返す。 「っ…ふッ、はッ……はあ…っ、ぁ」 「大丈夫かい? 少し、苛め過…ぅんっ、ぅ…」  辰巳の唇が、フレデリックの言葉尻を攫う。やがて離れた唇から、低い声が吐き出された。 「お前が抱きてえって言うなら抱かれてやる。その代わり、一回出させろよフレッド…」  辰巳の不器用なお願いに、フレデリックは微笑んだ。 「まったく、キミって男は…本当に可愛いね」 「うるせぇよ馬鹿」  フレデリックは辰巳の躰を抱き上げて、大きな一枚板のテーブルの上に座らせる。膝を割り開いて中心を口に含めば、辰巳の口から快楽に塗れた声が落ちた。 「はッ、あ…、それ…気持ち…いい…ッ」  金糸の髪に辰巳の武骨な指が潜り込んで、愛おしそうに掻き抱く。  辰巳の腹筋がぐっと締まったかと思うと、フレデリックの口腔に熱が注ぎ込まれた。残滓までをも飲み干して、ようやくフレデリックは口を離す。 「はー…っクソ、本当にお前は質が悪ぃな」 「そうかな?」 「お前、どんだけ今まで手ぇ抜いてやがった?」 「手抜きはしてないよ。我慢してただけで」 「言っとくが、俺はお前みてぇに自分で解したりは出来ねぇからな」  ガシガシと頭を掻きながら言う辰巳を見上げて、フレデリックは微笑んだ。  本当に、辰巳はフレデリックに抱かせてくれる気でいるらしい。 「希望があれば聞いておくよ? 辰巳」 「何の希望だよ」 「優しく抱かれたいか、無理矢理犯されたいか。どちらをお望みかな、子猫ちゃん?」 「ッ、子猫ちゃんは、ヤメろ。他は好きにしていい」  好きにしていいと顔を赤くする辰巳に、フレデリックはクスクスと声をあげて笑った。  それから、どれ程の時間が経過したのかすら分からない。  テーブルの上に四つん這いにさせられた時の羞恥心など些末に感じる程、フレデリックの手によって辰巳の躰はぐずぐずに溶かされていた。  ――あー…やべぇな。気持ち良い。  広い和室に、ただひたすらに辰巳の吐息と、水音が響く。 「ッ…ぁ、……ぁく、ぅっ」  辰巳は額をテーブルへと擦りつけた。一枚板のひんやりとした冷たさが、熱に浮かされたように熱い額に心地良い。  自分の後孔に何本の指が入っているのかすら、既に辰巳は把握できていなかった。  最初に感じた圧迫感すら、今は薄れつつある。  フレデリックは、最初から指を入れるような真似はしなかった。  これ以上ないというほど舌で丁寧に蕾を解され、辰巳の躰に負担の一つも掛けずに指を飲み込ませたのだ。ただし、辰巳の羞恥心を煽る事だけは忘れなかったけれど。 「っは…、ぁ…ッ」  下を向いていてもなお、腹に付きそうなほど反り返った屹立からはダラダラと雫が垂れて、辰巳の太腿とテーブルを汚している。  指を食んだ縁を舌で舐め上げられれば、欲しがるようにナカの襞が収縮した。 「ッ、…それ、気持ち…いッ」 「カズオキのここ、いやらしいね」  ふぅ…と、息を吹きかけられるだけで、辰巳の腰がぴくりと震えた。  指を食ませたまま、覆いかぶさるような態勢でフレデリックは自身の屹立を辰巳の内腿に滑らせた。雄同士が擦れ合って、卑猥な水音をたてる。  辰巳の雄芯から透明な糸が滴り落ちた。限界などとうに超えた躰が、些細な刺激にも反応して涎を垂らす。 「アッ…、ぃや…だっ、ソコ…ッ、もっ…ぅ、無理ッ」 「そろそろ、欲しくなってくれた?」  ナカに飲み込まされたフレデリックの指が蠢いて、辰巳の気持ち良いところを僅かに擦り上げた。  爪先から全身に痺れるように広がる快感は、これまでに辰巳が経験したことのないものだ。一瞬掠めるだけの快感では到底足りなくて、辰巳の腰が揺れる。 「っ足り…ねぇよ…、指じゃ」  震える腕でぐっと上体を持ち上げる辰巳に、フレデリックは指を引き抜いた。  躰を起こした辰巳の腕が伸びて、フレデリックの首に回される。耳元に寄せた口から低く掠れた声で辰巳が囁いた。 「寄越せ。お前を…全部」 「カズオキが望むなら、あげるよ」  ほんの一瞬の浮遊感。抱き上げられた辰巳は、フレデリックの雄芯を自重で飲み込まされた。圧迫感に息が止まる。 「――…ッッ!! ぐッ、は…ッ」  頭の天辺まで貫かれるような衝撃に、辰巳の躰が強張った。 「カズオキ…苦しいかい?」 「ハッ、ドコ…見てモノ言って…っんだよ」  唇を歪めた辰巳の視線が、胸を滑るように落とされる。それを追ったフレデリックの視界には、二人の腹を濡らした白濁があった。  思わず、笑いが込み上げる。 「ふふっ、本当に…僕を夢中にさせるのが上手いね」 「動けよ、フレッド。もっと、気持ちよくさせろ」 「カズオキが望むなら…いくらでもあげるよ」  フレデリックの腹筋がぐっと引き締まり、辰巳の躰を抱えたまま横倒しにした。   ◇   ◆   ◇  翌朝。スパンッと勢いよく辰巳の部屋の襖を開け放ったのは、辰巳匡成その人だった。  奥座敷の布団の上に素っ裸で転がる二人の息子を、仁王立ちで見下ろす。その目には、当然ながら呆れたような色が浮かんでいた。  下半身すら隠そうともせず仰向けに眠る辰巳の胸には、フレデリックの頭が乗っていた。  金糸の髪がさらりと辰巳の胸を滑り、頭が持ち上げられる。 「んっ……マサ…ナリ…?」  眠そうに目を擦りながらフレデリックが起きても、朝が弱い辰巳はまだ眠ったままだ。  匡成が軽く顎をしゃくると、意味を理解してフレデリックの手が辰巳の肩を揺する。  まるでそれは、本当の親子のようにも見える遣り取りだった。 「辰巳…辰巳っ」 「あー…?」 「起きて辰巳」  ぼんやりと目を開けた辰巳は、まだ匡成の存在に気付いていなかった。  寝惚けたままフレデリックの頭を引き寄せて、唇を重ねる。 「っ、辰…巳っ、そうじゃな…マサ…っふ」  間近にあるフレデリックの碧い瞳が横に滑るのを辰巳の視線が追って、ようやく匡成の存在に気付く。 「ああ? 親父?」 「親の目の前で朝っぱらからイチャつくとはいい度胸だな、一意」  キスシーンもさることながら、明らかに情事の跡が色濃く残る部屋と目の前の二人を見下ろして、匡成は盛大な溜め息を吐いた。 「お前らには羞恥心ってものがないのか?」  匡成が言うのは尤もで、フレデリックは辛うじて下着を穿いてはいたが、上半身裸。辰巳に至っては全裸のままだった。  辰巳はそれで仰向けに寝ているのだから手に負えない。  ちらりと後ろに視線を走らせれば、テーブルの上は散々な状態のまま放置されているのだ。いくら匡成といえど、溜め息くらい吐きたくなると言うものだった。  布団の上に胡坐をかいた辰巳がガシガシと頭を掻いて欠伸を噛み殺す。 「羞恥心、ねぇ…。同じ男で恥ずかしいもクソもあんのかよ」 「そういう問題じゃねぇよクソガキ。本当に救いようがねぇなお前」 「はぁん? 親に似たんじゃねぇか?」  悪びれもしない息子に、思わず匡成は額に手をやって天井を見上げる。  どうにも育て方を間違えたと、今更思ったところで遅かった。 「つか説教しに来たのかよ親父」  辰巳の言葉に、匡成が思い出したように顔から手を下ろした。 「ああ、そうだった。ちょっとお前らにガキのお守を頼みたくてな」 「ガキのお守だ?」 「ああ。今日、昼飯をそいつの親父と食う予定になってる。少し話があるからガキ同士遊んでてくれ」  突拍子もない匡成の話に、辰巳とフレデリックは顔を見合わせた。 「僕も行けばいいのかい?」 「ああ。一意ひとりじゃ、手に負えねぇだろうからな」 「手に負えねぇ? …って、どんなガキだよそりゃ」 「会えばわかるさ。小遣いはくれてやる。昼前に出るから支度をしておけ」  年齢は十六だという。それ以上の説明を、匡成は一切しなかった。  部屋を出る直前で、匡成がふと振り返る。 「それとお前ら、部屋汚すのは構わねぇが少しは自重しろ。声、丸聞こえだぞ」 「あぁあぁ、そりゃ悪かったな。テメェの声も丸聞こえだったって事だろうがよ」 「ハハッ。俺は、女喘がしても手前は喘がねぇよ」  そう言って匡成はひらひらと手を振りながら出て行ってしまった。 「このクソ親父ッ」  辰巳が吐き捨てれば廊下から匡成の笑い声が聞こえて、さすがに自重した方がいいかもしれないと、フレデリックは思ったのだった。  日本家屋には、プライバシーなどというものは存在しない。と、フレデリックは学んだ。  ――辰巳の可愛い声は、あまり人に聞かせたくないなぁ…。  そんなフレデリックの思いに気付く筈もなく、辰巳が問いかける。 「十六…って、中坊か?」 「日本だと高校生じゃないかな」 「ひと回りも年違っててガキ同士遊んでろって何だよ…」 「さあ?」  辰巳とフレデリックは、顔を見合わせる。  昼まで時間はあったが、取り敢えず風呂に入るかと二人で風呂場へと向かっていった。  十六歳。というにはあまりにも落ち着いた容姿と、尊大な態度を備えた少年は、その名を須藤甲斐(すどうかい)といった。  会食の後に匡成と甲斐の父親が席を外すと、テーブルには重い沈黙が下りた。  というよりも、元々匡成と甲斐の父親が話していただけで、辰巳とフレデリック、それに甲斐は名乗った以外に言葉を発していないという体たらくだ。気まずいどころの話ではない。 「…………」 「…………」 「あー…、まあ何だ、取り敢えず俺らも出ねぇか?」 「そうだね。いつまでも居座る訳にもいかないし。甲斐君は、どこか行きたい場所はあるかい?」 「別に行きたい場所などない」  甲斐の言葉に、辰巳とフレデリックは思わず顔を見合わせた。  行きたい場所がないと、その答えに驚いた訳では、もちろんない。”口調”の方に驚いたのだ。 「あのよ、甲斐っつったか? お前、いつもそんな喋り方してんのか?」 「何か問題があるか?」 「いや、大ありだろ」  思わず突っ込んだ辰巳を見る甲斐の目は、無表情というより不信感を浮かべている。いや、むしろ嘲りか…。  そんな二人を見やって、フレデリックは苦笑を漏らした。  匡成が朝、言っていた言葉を思い出す。  ”手に負えない”子供だと匡成は言った。その意味を、辰巳もフレデリックもようやく理解する。 「もう少し年相応の話方ってのがあんだろ」 「いや、辰巳がそれを言うのは…ねえ…?」 「あぁん?」 「それ。年相応かい?」  フレデリックが言えば、辰巳は何も言い返すことが出来なかった。一応、辰巳にも自覚はある。是正する気はさらさらないが。  苦笑するフレデリックの横で、甲斐がフン…と鼻を鳴らす。  辰巳の頬がピクリと引き攣ったのを、フレデリックの視線はしっかりと捉えていた。  いくら気の短い辰巳でも、三十路手前の大人が十六歳の少年相手にキレるなど大人げないという思いはある。思いはあるのだが…。  ――このクソガキが…。  内心で思った辰巳だが、まあそれはしっかりと表情に現れていて…。  フレデリックは軽く辰巳の袖を引いた。 「辰巳辰巳…」 「ああ?」 「顔に『このクソガキが』って、書いてあるよ?」  そう言ってフレデリックが朗らかに笑う。  フレデリックが自分をダシにして甲斐に『クソガキ』と伝えているのだと、辰巳には分かった。 「フレッド…お前なぁ…」 「辰巳はすぐ顔に出るから気を付けないと。ねえ、甲斐君?」 「その男がどうであろうと、俺には関係ない」 「関係ない…か。ふふっ、本当にキミは…子供だねぇ」  クスクスと笑うフレデリックを、甲斐が睨む。子供と言われるのが不本意なのだろう。  が、辰巳は何かに気付いたように目を眇めた。今まで無表情だった甲斐が、”睨んで”いたからだ。 「ああ、なるほど。甲斐君は、子供扱いされるのが嫌いという訳だね?」 「おいおいフレッド、あんまり煽ってやるなよ。可哀相だろうが」 「そうだね。冗談はここまでにしておこうか」  そう言って、フレデリックが身を乗り出して声を低めた。  目配せをされて辰巳も同じようにテーブルに肘をつくと、ちょいちょいと、甲斐を誘うように掌を上に人差し指を曲げてみせる。  渋々ながら顔を近付ける甲斐にフレデリックは微笑んで、低い声で囁いた。 「入り口付近のテーブルにいる三人組の男が見えるかい? 甲斐」 「見える」 「見覚えは?」 「ない」  フレデリックの言葉に、辰巳は黙って携帯電話を開いた。入り口は辰巳の背中側にあって、見えない。  辰巳は携帯のカメラを起動させると、インカメラに切り替える。  角度を調節すると、確かに男が三人映り込んだ。角刈りとハゲとデブ。特徴と顔を確認しつつ、スピーカーの部分を指で押さえて数回シャッターを切る。  インカメラで撮影した画像は荒いが、それはもう仕方がない。  目の前で同じように携帯を出して甲斐に何やら見せて笑っているフレデリックに、辰巳が問いかける。 「アレが、どうかしたのかフレッド?」 「最初は四人いた。もう一人は若い茶髪の男で、匡成たちの後を追っていったよ。それと、さっき甲斐がレストルームに立った時に、あそこの太った男が後から入っていかなかったかい?」 「何人かいた気がするが、あいつらかどうかは覚えていない」  フレデリックは柔らかな笑みを浮かべているものの口調は至極真面目なもので、冗談を言っているようには聞こえない。  現に辰巳も、妙な視線を感じてはいた。相手を特定する事までは出来ていなかったけれど。  どうやら匡成が”手に負えない”と言った理由は、こちらが本題だったようだ。 「辰巳。匡成に連絡は取れるかい? 何か、知ってるかもしれない」 「あぁん? あのクソ親父、面倒事押し付けやがって…」  言いながら辰巳が匡成の携帯に発信しようとするのを、やんわりとフレデリックの手が止めた。少し待てという事だろう。  その隣でフレデリックが甲斐に問いかける。 「たぶん彼らが狙っているのはキミだよ、甲斐。何か、お父さんから聞いてないかい?」 「父が関係あるかどうかはわからないが、誘拐未遂と脅迫状なら何度かあるな」  誘拐だの脅迫だのと物騒な事をさらりと言ってのける甲斐に、辰巳とフレデリックは苦笑を漏らすしかない。  だが、そういうキナ臭い話を聞いたところで動じるような二人でもなかった。  フレデリックが心得たとばかりに頷く。 「なるほど。取り敢えず、ここを出ようか。匡成には、車の中で電話しよう。僕も話が聞きたい」  そう言う事なら…と、辰巳が立ち上がるのをフレデリックは座ったまま見上げた。  どうやら一緒に行く気はないようだ。 「辰巳、悪いけど先に車を回してもらえるかい? 僕は、甲斐と一緒に出るから」 「んあ? ああ、じゃあ適当に時間見計らって出て来いよ」 「ありがとう」  微笑むフレデリックに、辰巳は内心で呆れていた。この男は、トラブルに慣れ過ぎている。  車は地下駐車場に停めてある。もし甲斐が狙われているのだとしたら、地下駐車場など襲うには格好の場所だろう。  ――まったく、面白ぇ男だよ。  地下へと降りるエレベーターの中で、辰巳はキーケースを弄んだ。  辰巳は、フレデリックの素性を全くと言っていいほど知らなかった。船乗りだというが、働いているところを見た訳でもない。  挙句、フランスのマフィアか何かかも知れないと噂が流れても、正直どうでもいいと思った。  辰巳にとってフレデリックが何者であるかは、正直関係がない。  ただ、どうして惹かれるのかが分からなかった。  思えば会ったばかりのその日にフレデリックを飲みに誘った事自体、不思議なくらいだ。それまでの辰巳は一緒に酒を飲もうと誰かを誘った事など一度もない。  フレデリックの何に、どこに、そんなに惹かれたのだろうか。  考えたところで答えは出ないのだけれど。辰巳に関して言えば、”野生の勘”というのが一番正しいかもしれない。  惹かれた理由は分からなくとも、フレデリックは想像以上に辰巳を虜にしてくれる。色々な、意味で。それだけは確かで、それだけで辰巳には十分だった。  辰巳が車をホテルのエントランス前に着けると、ちょうどフレデリックと甲斐が並んで出てくるところだった。  どうやら、時間はぴったりだったようである。  フレデリックは後部ドアを甲斐の為に開けてやると、自分は助手席に乗り込んできた。 「んで? どうするよ。適当に流すか?」 「そうだね。彼らが追いかけてくる前に出ようか」  辰巳は携帯電話を短く操作すると、フレデリックの脚の上に放り投げて車を出した。  匡成の携帯に発信して、スピーカーに設定してある。  フレデリックの手の中で、呼び出し音が低く車内に響いた。  やがてコールが切れて匡成の声が聞こえてくる。 『一意か、どうした』 「どうしたじゃねぇよクソ親父ッ。てめぇこのガキ狙われてんの知ってて預けやがったな?」 『おう、さすがだなぁ。お前らの嗅覚には感心するよ』 「きっちり説明しろよコラ」 『その坊やは企業グループんとこの御曹司でなぁ、攫おうって連中が今動いてる。訳あって警察には届けられねぇんだよ。坊やの親父と俺で相手を特定してる最中だ。お前らは、相手炙り出すためのデコイって事だよ。相手が分かれば後はこっちで始末する。それまで坊やと一緒に行動しろ』  あらましを説明する匡成に、辰巳が食って掛かる。 「そんなもん今日中にカタぁつく訳がねぇだろうがよ」 『ああ? 誰が今日中って言った? 暫くは本宅で面倒見ろ。俺は帰らねぇがな』  匡成が言うデコイとは、疑似餌の事だ。すなわち囮になれということである。しかも、数日。というより、相手が分かって話がつくまでという事だろう。  とんでもない事をあっさり言う匡成に、辰巳は舌打ちを響かせた。 「匡成。ひとつ聞いてもいいかい?」 『おう、何だ』 「万が一の場合は、警察に任せるという事でいいのかな?」 『フレッドよ、万が一なんて事がねぇように、俺はお前と一意に坊やを預けたんだ。意味は分かるな?』  匡成の言葉に、フレデリックが黙り込んだ。  相手を泳がせた上で攫わせるな。攫われたとしても自分たちで解決しろと、そう匡成は言っている。 「おいクソ親父。話は分かった。とっとと相手炙り出せや」 『おー。精々、振り回してくれよ一意。デコイが動けば動く程、魚も動くってもんだ』 「匡成。茶髪の男が一人、そっちに行ってるのを気付いてるかい?」 『ほう? そりゃあ初耳だ、今から探らせる』  初耳だと言う匡成の言葉が本当かどうかは分からないが、辰巳は後で写真を送るからそいつらの素性を調べろと言って通話を切った。  通話の内容は後部座席に座る甲斐にも聞こえている筈だったが、とうの本人は黙ったままだ。  辰巳はバックミラーでちらりと甲斐の顔を見る。そこには、相変わらず無表情で何を考えているのか読めない少年の顔があった。  フレデリックに手渡された携帯電話を胸のポケットに仕舞いつつ、辰巳がゴキゴキと首を鳴らす。 「さぁて、どうしたもんかねぇ。どう、泳いでやろうかなぁ」 「楽しそうだね、辰巳?」 「あぁん? 一か月も家の中に閉じ込められてたんだぜ? 少しくらい運動しねぇとな。躰が鈍って仕方がねぇ」  辰巳の様子に、フレデリックは呆れたように肩を竦めた。そのまま後ろの座席を振り返る。 「と、いう訳らしいけど。少し付き合ってもらえるかな?」 「付き合う? 巻き込んでいるのは俺の方だろう」 「うーん…。何ていうか、僕たちは別にキミに巻き込まれた訳じゃないからねぇ」  困ったように笑うフレデリックを、甲斐はただ黙って見つめていた。代わりに口を開いたのは辰巳だ。 「巻き込んだとか巻き込まれたとか、そんな事ぁどうでも構わねぇんだよ。面白けりゃなんでもいい」 「まあ、辰巳はこういう人だから。むしろ付き合うのは甲斐の方だと思うよ?」 「あぁん? それじゃまるで俺が甲斐を巻き込んでるみてぇじゃねぇかよ」 「違うのかい?」 「違いねぇ。…あん? いや違ぇだろ」  眉間に皴を寄せながら言い直して、辰巳はガシガシと頭を掻いた。 「あぁもうめんどくせぇな。誰のせいもクソもねぇんだよ。面白けりゃそれでいいだろぅが」 「ごもっとも。という事で、少し作戦会議をしようか」 「お前こそ楽しむ気じゃねぇかよフレッド」 「僕がいつゲームを嫌いだと言ったんだい?」 「ゲーム、ねぇ…」  誘拐犯を相手に囮になる事をゲームだと言い切るフレデリックの言葉は、甲斐の不安を和らげるために敢えてそう言っているのか、本心なのか分からない。  辰巳は煙草を取り出して咥えると、火を点けようとしてふと手を止めた。 「おい甲斐。お前、煙草の煙は平気か?」 「平気じゃないと言ったら吸わないのであれば、平気じゃない」 「あぁん? 本当にお前は可愛くねぇな」  そう言って、辰巳は煙草に火を点す。  後部座席で甲斐がフン…と小さく鼻を鳴らすのが聞こえて、フレデリックはクスリと笑った。  案外、この二人は相性がいいのかもしれない。 「たぶん、相手は僕たちが存在に気付いている事をまだ知らないと思う」 「まあ、気付かれたと知ったなら、コソコソ後つけては来ねぇだろうな」  チラリとバックミラーに視線を走らせる辰巳に、フレデリックも甲斐も、尾行が付いている事を知る。 「でも、ホテルで俺たちが話していたのをあいつらは見てただろう。気付かれたと思っていてもおかしくはないと思うが?」 「それは、心配ないよ甲斐。辰巳が携帯を見てる間、僕はキミに適当な画像を見せていただろう? 周りから見れば、ただ仲良く写真を見せ合って笑っているようにしか見えていないはずだから気にしなくていい」 「俺もフレッドも、一切視線向けてねぇしな。あるとしたら甲斐だが…、俺の躰で向こうからは殆ど死角になってるはずだ。どうせ写真撮られてる事にも気付いてねぇよ。安心しろ」  あっさりと辰巳とフレデリックが言うのを、甲斐は驚いたように見つめた。 「写真…」 「お前は気付いたか?」  ようやく少しだけ話をしてくれる気になったらしい甲斐に、辰巳が問いかける。 「いや…顔を確認しているのは予想できたが…携帯は、シャッター音が消せない筈じゃ…」 「ハハッ、指でスピーカー押さえてただけだがな。まあ、そういうこった」 「指…」  あまりにも単純な方法で音を消していた辰巳に、呆れたように甲斐が呟く。  辰巳が携帯を出した時に、どうしてフレデリックまでもが携帯を出して自分に見せてきたのかも、この時甲斐は初めて理由を知った。  あの時からもうこの二人は、相手に気付かれないように振舞っていたのだと甲斐は知らされる。 「まあでも、急に僕たちと一緒に行動し始めた以上、向こうも直こちらの事を調べるさ。まして辰巳は、同業者だろうからね」 「あんな明らかにってのと、一緒にされたくねぇな」 「ふふっ、そりゃあ辰巳の方が男前だよ。ねえ、甲斐?」 「そんな事を俺に聞くな」  ふいっと顔を逸らせた甲斐だったが、少しだけ考えるような素振りをして問いかけた。 「お前たちはいったい何者なんだ?」  どうやら少しだけ打ち解ける気になってくれたらしい少年に、辰巳とフレデリックはあっさりと答える。 「ただのヤクザだよ」 「休暇中の船乗り、だよ」  どうしてそんな二人が一緒にいるのかまでは、甲斐は聞いてこなかった。  まあ、聞かれたところで十六歳の青少年に、男同士の辰巳とフレデリックが恋人だなどとは、口が裂けても言えない事だが。まあ、バレた時は仕方がないと、そう思う。

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