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第3話

 契約社員として入社し、もうすぐ一年が経とうとしていた頃、高槻の教育係である彼女は欠勤することが増えた。  冬から春へと季節が変化するこの時期、体調でも崩してしまったのだろうかと心配した。  フェアやサイン会などのイベント、新刊が発売されるたびに喜んでいた彼女。仕事中や休憩中に好きな作品、好きな作家で盛りあがることもあった。  そんな彼女の姿が仕事中に見られないのは、少々寂しいものがある。  そして、彼女の欠勤は一ヶ月以上にも及んだ。 「本当に大丈夫なのかな」  当店オリジナルのポップを作ろうと、BLコーナーの作業台で思わずぽろっと零す。だが、その声は誰の耳にも届かず、静かなフロアに溶け込んでいくだけ。  欠勤の連絡は入ってくるが、ほぼ毎日いない状態。  彼女のことを心配に思っていると、気づけば作業している手が止まってしまう。  はっきり言って、集中できていない。 (……本当、どうしたんだろう)  休んでいる理由は高槻でもわからずじまい。  恐らく、店長は彼女の欠勤理由を知っているだろう。同じ仕事仲間、同じコーナー担当なのに、高槻だけがなにひとつ知らない。  それとも、言えない悪い病気なのだろうか。  大好きなBLの次に考えてしまう、彼女のこと。一緒に仕事をする彼女のことが気がかりで仕方がない。 「早く元気になって、戻ってこないかな」  また色んな話がしたい。補充しながら、新刊を並べながら、フェアの準備をしながら、「あ、この作家さんの話おもしろいよね」「この新人さん、今後も期待しちゃう!」「私の五本指に入るくらい、この作家さんの『アレ』の描き方が凄いのよ!」など――『アレ』の描き方と言われてしまったとき、なんのことかは察したが、このフロアでいつ誰が聞いているのかわからない状況でさすがに焦り、慌てて彼女の暴走を止めたこともあった。  そんな彼女は笑っていたが。 「ここが酒の席で、尚且つ個室であれば僕だってその件について参戦したいくらいです」と言いながら苦笑していると、偶然通りかかった店長に「君たち漫才でもしているのかな?」と突っ込まれてしまった。  静かなフロアで仕事をしながら、仕事のために盛りあがるのは悪くない。  それなのに、今その盛りあがりが欠けている。 「はぁ……」  ため息ばかり出る。  仕事のモチベーションがなかなか向上しない。稀に、店長が週替わりで一日フロアをヘルプで手伝ってくれるのだが、そのときに「相方がいないと寂しいよね」と、申し訳なさそうに言われてしまう。  いつでも店長に彼女の欠勤理由を尋ねればよかったのだが、なんだか訊くのを躊躇ってしまった。あれから「悪い病気ではないよ」と言っていたので、ひとまず安心すべきだろう。  では、なぜまだ復帰しないのか。  悪い病気ではないけれども、欠勤しなければいけないほど、他になにか理由があるというのか。 (……って、余計な詮索をするのはよそう)  仕事に集中。  彼女がいつでも帰ってきていいように。  いつか彼女がひょっこり帰ってきて、「もう聞いてよ! こんなことがあったんだよね」と、のんきに言ってくるに違いない。  好きなBLを語るような感じと一緒で。  それまで、このBLを守るんだと、高槻は謎の闘志が滾った。  特撮でいえば、ヒーローのようなものだ。  結局、欠勤してから三ヶ月が経とうとする頃に、彼女は復帰した。  顔色は悪くない。それよりも、心なしか全体的にふっくら丸みを帯びているように思えるのは気のせいだろうか――なんて、己の胸中に問いかけてもどうしようもない。  もともと彼女は細身な体型をしていたので、やはり何度見てもどこかしらふっくらしているように見える。 「ごめんね! 突然、長いこと休んで……ご心配おかけしました」  顔の前で手を合わせて、謝ってきた彼女。 「店長から悪い病気じゃないってことだけは聞いていたので、田中さんが戻ってくるのをBLと一緒に待っていましたよ」 「うまいこと言うようになったわね」 「……いえ、それほどでも」 「あ、今少しだけ照れたでしょ」 「……」 「高槻くん、そんなジト目で見つめないでよ。見つめても、攻めにご褒美あげているようなものなんだから」 「――って、復帰早々、僕を田中さんの妄想に巻き込まないでください!」  笑う彼女は、徐々に穏やかな表情へと変わる。 「……あのね、高槻くん」 「どうしましたか? あ、そうだ。今度フェアがはじまるんですよ。また、一緒に準備ができますね」 「あ、そうなんだ! どこのフェア? ……って、ちがーう!」 「すみません。話の途中に水を差してしまって」 「いや、いいのよ。……話は元に戻すんだけどね、今日の仕事が終わったら少しだけ時間ちょうだい?」  本当は心のどこかで恐れていたこと。  欠勤していた理由を聞きたいような、聞きたくないようなせめぎ合いが心を乱す。 「……わかりました」 「ありがとう。じゃあ、今日はなにをすればいいかな? しばらく高槻くんに任せていたから、やり方合わせたほうがいいかなと思って」 「やり方もなにも、いつも通りですよ。まあ、そうですね……フェアの準備はもう少し先ですし、新刊も今日はないので在庫確認がてら棚直ししていきますか」 「了解であります、隊長!」 「隊長ってなんですか、隊長って」  復帰しても元気なのは変わりない。  でも、雰囲気が優しくなった。 「あ……でも、復帰したばかりで病み上がりなので、ゆっくりで。あとで、この本すすめたい、推したいっていうのがあったら、ポップも作りましょう」 「うん。色々とありがとう……本当、ありがとう」  微笑みながら言う彼女の表情は、どこか寂しそうだ。  ここで、平静を装って「謝られることなんて、なにもしていませんけど」と、気の利いたひと言でも言えればよかったが言えなかった。  でも、なにも言わないでいてあげるのも、ときには優しさだと思う。  だから、復帰したときも、あとで話があると言ったときも、すぐに高槻は詮索しなかったし、こちらから尋ねることもしなかった。  彼女が言いたいと思ったときに言ってくれるほうが、彼女も言いやすいし、安心するだろう。 「田中さん。フェアが落ち着いたら、新刊置き場の隣のワンスパンを特集コーナーに変えてみませんか?」 「特集コーナー?」 「はい。以前、どんな棚作りにするのか話し合ったときに、特集コーナーのこともちらっと話が出ていましたし。それを店長にも相談してみたんですけど、店長曰く『君たちに全て任せているから好きにしてみなさい』と言われました」 「そうなんだ」 「なので、どうですか? 今は新刊置き場の隣がフェア用として使っているので、そこを特集コーナーにして、フェアは毎回頻繁にあるわけでもないので、そこはまた追々考えたいなと」 「確かに、フェアは頻繁にあるわけじゃないからね。特集コーナーってあれだよね。例えば、鬼畜攻め特集や裏社会特集とか……」 「なんでチョイスがそこなんですか。……まあ、そんな感じです。コミックスと小説で埋もれている作品、知らない作品、知っている作品だけどまだ読んだことがない作品。色々あると思うんです。それを、月一で特集組んでいくことで新しい扉を拓いてくれる人が少なからず……ひとりくらいはいると嬉しいですが……」 「ほうほう。やりますねえ、うちの書店いち腐男子くん」 「ちょっと、なにニヤついてるんですか」 「いやあ、いない間に逞しくなっちゃって」  弄り倒してくる彼女に、高槻はいつものことだと冷静になるが、本心では嬉しかったりする。  もしかしたら、この先こういうやり取りができなくなってしまうのではないだろうかと、嫌なことを考えないようにしているのだが、心の片隅ではほんの少しそんなことを考えてしまっているもうひとりの自分自身がいた。 「店長に任されてるならやっちゃおうよ!」 「田中さんにそう言われると……」 「本当はやりたかったんでしょ?」 「……ばれちゃいましたか。本当は、田中さんに背中を押してもらうのを待ってたんです。なので、一緒にやりましょう」  彼女は「楽しそうね」と嬉しそうに喜んでくれているはずなのに、先程みたいにまた寂しそうな表情を浮かべた。  一緒にやりましょう、と言った手前、彼女と一緒に仕事ができたのは、その月を境に最後となった。  それは、初夏を通り過ぎ、厳しい夏がはじまった時期であった――。    ◆  彼女に告げられた真実は、「ああ、なるほど」と納得できるものだった。 「時間作ってもらってごめんね」 「いえ。特に用事もないので大丈夫ですよ」 「ならよかった。……まずは、突然休んでしまってごめんね。当然、びっくりしたわよね」 「毎日あんなに元気な田中さんが休んだら、誰でも驚いて心配しますよ」 「あはは、そっか」  呼び出されたのが高槻だけということは、やはり店長はすでに知っているのだろう。  だから、こうして二人でいることが許されている。  これから先のことを聞きたくなくても、聞かなくてはいけない。  大事なことなのだから。  ど、ど、と緊張で心拍があがる。手に汗を握り、自然と構えてしまう身体に更なる緊張が高まっていく。 「回りくどいことを言うの苦手だから結論から言うけど……――妊娠しているの、私」  眉を下げて困ったような笑みを浮かべる彼女に、高槻は理解するのに時間がかかった。  今なんと言っただろうか、と彼女を呆然と見つめる。  すると、彼女に「驚きすぎだよ」と笑われた。 「あのね、妊娠してるの」 「……にん、しん」 「そう、妊娠。お腹にね、赤ちゃんがいるの」 「……妊娠……赤ちゃん、ですか」  なんとか言葉を咀嚼し、単語を声にすることで理解した。  彼女のお腹の中には、現在、赤ちゃんがいる。休んでいたのは悪阻のせい。個人差もあるが、初産だと特に悪阻が酷いと彼女は言う。  そんな彼女も悪阻が酷かった。そんな酷い状態で仕事なんてできない、集中もできない。  そのせいで、仕事を休まざるを得なかった。  ましてや、大好きなBLでさえも考えられないくらい、日々悪阻に悩まされていた彼女。妊娠のことを告げるタイミングでさえも、どうしようかと考えていたそうだ。  書店の責任者でもある店長には、きちんと報告しなくてはいけない。その上で、高槻にはいつ言えばいいのか相談もしたとのこと。  それ以前に、彼女が結婚までしているとは知らなかった。  結婚指輪もしていなかったし、仕事をする上で邪魔だったから外していたのかもしれない。  それだったら気づかない。 「店長からはね、落ち着いてからでもいいんじゃないかなって言われたんだ」 「……なるほど……だから『悪い病気ではない』ってことなんですね」 「ああ、確かにそうかも!」 「あ、――……田中さん、おめでとうございます」  告げられた真実に驚いたことは事実だが、まだ口にしていないお祝いの言葉。  新しい命を授かったのだ。  なら、ここは「おめでとう」と伝えるべきだ。 「ふふ、ありがとう」 「でも、これからどうするんですか?」 「そう、それね。本題はここからなの」  はじめての妊娠、出産なのもあり、彼女は今後の仕事をどうするのか――こればかりは、相談するよりも旦那さんと一緒に考えて、悩んで、最終的に答えを出したそうだ。  彼女自身の問題なのだから、自分で答えを導いた。 「高槻くんが、楽しいことを考えてくれたり、また一緒に仕事やろうねって言ってくれたこと、本当に嬉しかったの」 「はい」 「私もBL大好きだし、高槻くんと楽しく話をしながら仕事をするのも好き。でもね……」 「田中さんが考えて出した答えならいいんですよ」 「なんで、高槻くん腐男子なのよ。もういっそのこと、ホモになっちゃえ」 「……地味に魔法をかけないでくださいよ。まあ、ここで冗談を言うの田中さんらしいですけど。……いなく、なるんですね」 「……ばれるかあ」 「回りくどいこと苦手だと言うわりに、一番大事なことは素直に言えないんですね」  矛盾している彼女に笑みが零れた。  責めているわけではない。こんなときにでさえ、思わず可愛いなと思ってしまうくらいだ。  本当に好きになりかけていた。趣味も同じで、一緒にいると楽しくて、仕事だけの関わりなんて勿体ないと感じていた。  けれども、彼女には彼氏もとい旦那さんがいて、今では新しい命も授かった。  喜ばしいことではないか。  背中を押してもらったのだ。  ちっぽけな内容だけれども。  だから、今度は彼女の背中を高槻が押してあげなくてはいけない。  一番大事なことを、素直に言えない彼女の背中を――。 「――大丈夫ですよ。僕、田中さんの分まで楽しんで仕事するんで。先に情報知っても教えてあげません」 「情報横流しにするの駄目でしょ! ……って、酷い! 私がいなくても楽しく仕事するなんて! 邪魔しにきてやるんだから!」 「身重なのに無理してどうするんですか。……冗談ですよ。いつでも遊びに来て、店に、作家さんたちに貢献してあげてください」 「……うん、ありがとう。旦那と話し合って、自分の好きなようにしたらいいよって言われたんだ。でも、はじめての出産だから大事にしたい。集中したい」 「はい」 「それなら、仕事を辞めようって。高槻くんの教育係になって、仕事が本当に楽しくて。だから、余計に寂しくなっちゃった」 「僕が言えるようなことではないですけど、店長なら『子育てが落ち着いたら、いつでもおいで』とでも言うと思います」 「そうね」  そもそも、産休申請でもすれば退職せずに、仕事を続けることができるのではないだろうか。  そう思ったが、彼女なりの考えがあるのだろう。  腐っていても、仕事に、自分に、真面目な人だ。  高槻がどう引き止めても、彼女の意思は強いはず。 「僕、田中さんと一緒に仕事やれて楽しかったです。まさか、ここで僕の趣味を引き当てて担当にされるまでは、あのとき予想すらしていませんでしたけど」 「でも、そのお陰で書店内では隠れ腐男子しなくて気が楽になったでしょ? 私も楽しく仕事できたし」 「まあ、確かにそれは……」  BLコーナーを任されてから、毎日が楽しいのは本当だ。スタッフの間では、隠さず堂々としていられる。時折、彼女が周囲を巻き込んで高槻を弄ってくることもあるが、別に悪い気はしない。  また、BL関連の特典やフェアなどの問い合わせ窓口は、先輩である彼女よりも、真っ先に高槻へ回されることが多い。慣れない当初は意地悪されているのかと思ったが、「頼りにしてるんだって」ということを店長からあとで聞いた。  周囲を巻き込んで弄ったりするのも、高槻が「可愛いから」と言う。 (……なんの特徴もない平凡なのに)  彼女曰く、弄り甲斐があるそうだ。人見知りだ、と高槻が言ったこともあるが、周囲はそんなこと思ってもおらず、むしろ声をかけて構いたくなるという。。  そんなことを以前言われたことがあり、年齢のわりには童顔のせいだろうかと呪った。――とはいえ、人見知りと童顔は全くもって関係ない。 「私、この職場が好き。もちろん、遊びに来るわよ」 「そうしてください。でも、仕事の邪魔はしちゃ駄目ですよ」 「なら、この作品探してるんですけど在庫ありますか? って尋ねようかしら」 「……あらかた知ってるくせに。わざとらしいですね」  妙な攻防戦を繰り広げながら、お互いに笑い合う。  今日が最終日というわけではない。今月いっぱいなのだから、まだ二人で仕事はできる。色んなことを彼女から教えてもらい、色んなことを彼女と手を合わせて仕事に取り組んできた。  腐仲間としても情報交換したり、語り合ったりと会話を弾ませてきた。  少なからず、彼女に好意を寄せていた。  けれども、それは、見事に散ってしまったのだ。 (――なんて、思いを告げる勇気もなかったけど)  どうあがいても失恋確定だが、それほどショックは大きくない。  好意を寄せていたことは本当だが、彼女とどうなりたいということまでは明確ではなかった。  だから、浅い傷だけで済んでいるのだろう。  むしろ、この先もっと大変なのは彼女だ。  高槻は女性ではないので女性の気持ちはわからないが、とにかく母子とも健康に、元気な赤ん坊が産まれることを願っている。  ただ、それだけ。 「そういえば、今更感あるんだけど連絡先交換しない?」 「……あ。なんだかんだで交換していませんでしたね。ここで会えば話は足りていましたから」 「でも、これからはそうもいかないでしょ? 腐仲間として仲良くしてよ。お茶したりさ。これもなにかの縁だしね」  そんなことを言いながら、お互いに連絡先の交換をした。  一年以上今まで働いてきて、連絡先を交換していなかったことに驚きだ。  そんな彼女は、月末に笑顔で書店を退職していった。

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