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第5話

 一年の中で短い月でもある二月のバレンタインを迎えると、あとはあっという間に日々が過ぎ去り、三月が到来した。  三月初旬。  本日、新人を迎え入れる。  その新人を迎える準備は、店長との綿密なミーティングにより万端とはいえるが、いざというときに限って緊張してあたふたするのが目に見えている。  だが、なんとかなる精神で切り抜けようと思った。  しかも、新人の彼は採用の連絡を入れたさいに、高槻の中で更に好印象づけた。  とても丁寧な喋り方、はきはきとした物言いに、男性にしては少し声は高めだがテノールの心地いい声。彼への株が、高槻の中で上昇していく。  なんとなくだが、身長高そうだ、とどうでもいいことを考えてしまう。 『教育係になるんだから、採用の連絡も入れてみようか』  ――なんて、採用の連絡くらい店長がしてくれとも思ったが、これは連絡してよかったなと思うくらいには、高槻は彼と対面するのが楽しみになってきた。  問題なのが、楽しみだと言うわりには、人見知りがどう発動するか。  全員が全員ではないが、誰しも初対面でうまくコミュニケーションを取れる人は、そう多くないだろう。よほどコミュニケーション能力が高くない限り、そうそうはじめから打ち解けるのは難しいと思っている。  コミュニケーション能力が高くないと自覚している高槻は、喋るにも口下手すぎるくらいだ。時が経ち、慣れてくればそうでもないが、それまでの過程が人によっては時間がかかるのだ。  もちろん、彼女にも最初はよそよそしかった。  距離が近くなり、よく喋るようになったのは、高槻がBLを好きだと発覚してからだ。それからは、相手が先輩でありながらもツッコミを入れたり、時折冗談を交えたりと、話すことが楽しくなっていた。  それは、趣味が合うからこその会話なのも一理ある。 (あれ、そういえば……)  新しく人を増やすにも、今回の新人をBLコーナーに配置する前提で採用しているのは気のせいだろうかと、今更ながらそこに気づいた。  数名採用するのであれば、今回の新人以外に、数名の中から選別してもよかったのではないだろうか。  だがそこは、店長が思っての選出だったのだろう。 「――高槻くん。朝礼終わったら、今日のスケジュール改めて確認するからよろしくね」 「あ、はい。ところで店長……」 「ん? なにか困ったことでもあった?」 「困ったこと、というか……訊きたいことがありまして。今日から入社してくる新人の彼、はじめからBLコーナーに配属する前提で採用しているんですよね?」  胸中で思っていたことを店長に尋ねてみる。 「うん、そうだね。いつまでも高槻くんをひとりにしておくのは可哀想だし、それに彼……は、本人から聞いたほうがいいかな」 「え?」  どういうことだろう。  店長の最後の言葉が気になりつつも、更に店長は「あ、きちんと面接時に、彼にはBLのこと説明してあるから」と爆弾投下してきた。  店長曰く、面接時に彼の話をしっかり聞いた上で、その単語を出して説明したと言う。  まさか、彼も実は隠れ腐男子なのだろうかと期待してしまう。 「さ、高槻くん。そろそろ朝礼はじまるよ」 「あ、はい」  高槻を呼ぶ店長の声。新人のことを考えるのはあとだと思い、高槻は店長の背中を追いかけた。  朝礼が終わってからは、開店の準備がはじまる。  レジ開けの釣り銭準備に、各フロアの清掃、新刊を並べる準備など――特にコミックスであれば、特典があるのかないのか、レジでの配布なのかそうでないのかも確認する。  レジでの配布の場合、事前に周知はしてあるが、改めてレジ担当へと確認のために連絡を取り連携する。  本日のBLコーナーでの新刊たちは、特典ペーパーは付くが、それは本と一緒にシュリンクして店頭に並べているため、レジでの直接手渡しはない。  それに、今日は新人の受け入れがあるため、確実にやらなくてはいけない作業だけは前倒しで終わらせていた。  また、オリエンテーションから研修まで一日潰れてしまうため、高槻がフロアにいないときの新刊などの補充は、同じコミックス担当が担ってくれることになっている。  同じコミックス担当のスタッフに「いない間、よろしくお願いします」と伝え、高槻は店長と共にスケジュールの再確認をしていた。  開店してから三十分後に、新人の彼は来る予定になっている。  そこから店長が案内して、入社手続きの準備を終えてから高槻にバトンタッチ。オリエンテーション、研修、なにからなにまで高槻が教育係として面倒を見る流れだ。  もちろん、ひとりで補えないところはフォローもしてくれるよう、周囲からのヘルプは万全。  なんといっても、契約社員になってはじめての新人教育。  新人には大変な仕事だろうとも楽しくあってほしい。 (田中さんに教えてもらっていたときのことを思い出しながら頑張ろう)  立場が上だからといって、偉そうにはしたくない。  高槻も新人になったつもりで、一緒に復習がてら学び、改めて本屋で働くことは楽しいのだと、高槻は感じたかった。 (ああ、それでも緊張する)  緊張でばくばくと高鳴る鼓動をよそに、己に苦笑した。  なんとか緊張を紛らわそうと、スケジュール確認が終わってからBLコーナーの作業台に戻り、仕事に身を入れようと思ったが、作業台で数分ばかり立ち往生してしまった。 脚が竦んで動けないのではない。  本当に緊張しているのだ。 「――あ、高槻さん!」 「っは、ひっ!」 「ちょっと、どんな返事してるんですか」  静かなフロアで突然名前を呼ばれたことに驚き、高槻は素っ頓狂な声を出してしまう。高槻の名前を呼んだスタッフも一瞬目を丸くしたが、あまりにもおもしろくて吹き出して笑っている。 「ど、どうしたんですか?」 「ええ、新しいバイトの子が来たよって教えに来たんだけど……まさか、緊張してるの?」 「そりゃ、まあ……」 「高槻さん、教育係なんでしょ? ほら、頑張る!」 「はは、そうですね……ありがとうございます」  改めて緊張感が高槻を襲う。  新人が来たということは、すでに時間は三十分経過しているのだ。 (とうとう来た……どうしよう)  今更、慌てたところでどうしようもないことはわかっている。  しかし、身体中の筋肉が硬直していくような感覚に囚われてしまい、高槻はいまだに作業台から動けないでいた。  初対面だからといえ、こんなにガチガチしすぎるのも失礼だろうし、不安にさせてしまいかねない。  心の中で「平常心、平常心、笑顔、笑顔……」と、呪文のように言い聞かせている自分が情けない。  これだからコミュニケーション能力が低い自分は、と高槻は項垂れそうになる。最悪、いつだったかも唱えた「なんとかなる精神」を発動させるしかない。 (……頑張れ、僕)  結局、ぐだぐだ思ったところで引き返せないのだ。  いい加減に腹を括れ、と高槻は自分に喝を入れた。  緊張で作業台から動けないのであれば、作業台でしかできないことをやろう。そう考えて、高槻は手作りポップの下書きを作ろうと作業台の引き出しから紙とシャープペンシルを取り出した。  心なしか手が震えている。いい大人がこんな状態で情けなさ過ぎる。「ええい!」と、半ばやけくそな感じではあるが、荒治療でこうでもしなければ仕事にならない。  すでに店は開店しており、客もまばらに来店してきているのだ。  手を動かし、ポップの下書きをシャーペンで書きこんでいく。  手作りポップは、読んだことのある作品であったり、帯やあらすじから汲み取って作ってみたり、様々だ。ときには、作家さん自らミニ色紙にイラストやコメントを添えて、それを作品と一緒に飾るということもある。  下書きをしながら、どんな文章にしようか、どんな単語を使おうか――作っていく制作過程が楽しい。書いていて恥ずかしい単語もあるが、脳内で「この二人がそんなプレイに走るのか……」と、緩む表情を我慢させる。  これがバックヤードであれば、ひとり言のようにぶつぶつと声に出して呟いていただろう。  客もいるフロアでは、さすがに変なことは口走れない。  集中しすぎると周囲が見えなくなってしまうことがあるので、集中しすぎず、時間を気にしながら手を動かした。  BLコーナーには、もうここにはいない彼女に背中を押されて作った、月一の特集コーナーが存在している。  彼女が退職した翌月からはじまった、特集コーナー。一緒に棚を作ることはできなかったが、はじめての特集内容をどのようなものにするか、作品タイトルの選出、レイアウトを決めるところまでは彼女と二人で協力し合えることができた。あとは、高槻ひとりで仕上げ、それ以降も高槻ひとりで特集コーナーを維持してきた。 (最後まで一緒に作りあげることはできなくても、一緒に仕事ができたのは本当に嬉しかったな)  例えチョイスで言っていた彼女の「鬼畜攻め」からスタートした特集コーナーは、何気に好評だったりする。少しでも興味を持ってもらえるように、手に取ってもらえるように、ひとつひとつの作品にひと言を添えた手作りポップも付けている。  この特集コーナーの内容決めは、月末に、二ヶ月後に特集する内容とタイトル選出を決めるようにしている。はじめた頃は、月末に翌月のことを考えていたが、タイミング悪くフェアの準備と重なることもありドタバタしたこともあったためだ。これだと、せっかくの特集コーナーが死んでしまう。  量が多いというわけでもないが、特にタイトル選出で苦戦してしまう。だが、早めに把握しておきたい。特に、現在はひとりで棚を維持させているのだ。要するに、来月の特集コーナーについては、先月末には決まっているということだ。 「――あ、いたいた。高槻くん」 「……店長。まさか……」 「そう。そのまさか。今、中途半端かな?」 「あ、いえ、大丈夫です。ポップの下書きしてたので」  微笑ましい様子で現れた店長に、高槻の表情が強張った。  店長が迎えに来た、ということは、そろそろ出番がくるということ。思わず身構えてしまう。 「そんなに緊張することないよ」  いっそのこと、無理矢理にでもテンションをあげて、名を名乗ればいいのだろうか。 「ほらほら、新人くんを待たせているから行くよ」 「ちょっ、あっ、ま、待って店長! 腕もげる!」  実力行使に出た店長。店長も店長だが、自分自身もこういうキャラだっただろうか――というくらいには、テンパっている。 「入社手続きは終わっているから、このあとのオリエンテーションからは高槻くんお願いね。打ち合わせもしたし大丈夫。なにかあったら僕に相談すること。君ひとりじゃないからね」 「……はい」  新人には、これから教育係を連れてくる、と伝えて待機させているという。緊張で胸をばくばくさせながら、高槻は店長の後ろを歩いていた。  事務室を前にして、緊張度は更に増していく。  そんな高槻を見て、店長は「もう今更だから」と笑っているが、高槻にとってはそれどころではないのだ。  人生、最大の大きな壁にぶち当たっているような感覚。 (……って、大袈裟すぎるかな)  ドアノブが回され、いよいよドアが開く。  緊張のあまり、高槻の視界では動きがスローモーションのように感じたが、現実ではドアはあっという間に開いた。 「ごめんね。待たせてしまって」  コミックスフロアがある三階から事務室のある一階まで、非常用階段を使うため時間がかかる。事務室の中に入ったのはいいもの、前を向くことができない。  新人を直視することができないのだ。 「今日から君の教育係を務める、高槻くん。そして、今日から新しくこの書店にアルバイトとして入社してくれた梶浦くんだよ」  ――では、お互いに自己紹介しようか。 「……!?」  当然のことと言えば当然なのだが、やはり高槻にはハードルが高い。緊張しているとはいえ、既存のスタッフである高槻から声をかけなければ新人に悪い印象を与えかねない。  だが、そうは思っていてもなかなか視線を前に向けることができず、少し俯き気味。 「高槻くん?」  大人しくなってしまっている高槻を心配して、声をかける店長。  店長も高槻が緊張しているのは把握している。 「ごめんね。うちの高槻くん、緊張しやすい子なんだ」  緊張どころか、人見知りです――大声でそう叫びたい。  相手が高槻を見て、どんな様子でいるのかわからない。  第一印象としては悪いように見られているだろう。胃が痛くなりそうだ。  しかし、予想とは裏腹に、高槻の耳には店長の声とは違う、第三者の声が入ってきた。 「――あの……はじめまして。俺、梶浦圭介(かじうらけいすけ)って言います」  採用のときに電話で聞いた声と同じ、テノールの心地いい声。  それに加えて、優しい声。まるで小さな子供を安心させるかのような声色に、高槻はゆっくりと視線をあげた。  高槻の真正面にいる彼――梶浦を、高槻は視界いっぱいに捕らえた。 (た、高い……!)  高槻が見上げるほどある高身長。スポーツでもしていたのだろうか。頭ひとつ分、いや、それ以上の身長差がある気がする。  成人男性の平均身長以下な、己の身長に泣きたくなった。  だいたい、家族みんな平均して小さいのだ。  遺伝だ、遺伝。高槻は、そう自身に言い聞かせた。  それより、履歴書で見るのと、実際で見るのとでは雰囲気が違うなと印象が変わった。アッシュブラウンで染めてある髪の毛はとても似合っており、比較的に暗めな髪色でも室内蛍光灯に照らされれば多少ブラウンの明るさが出てくる。  なにより、爽やかなのだ。  証明写真でわからなかったサイドは、ツーブロックになっている。  柔らかい表情で高槻を見つめてくる梶浦は、やや垂れ眉ではあるが微笑まれると子犬みたいな小動物のような愛くるしさが窺える。そして、マイナスイオンでも放出されているのではないだろうかという雰囲気が、梶浦を纏う。 (身体は大きいのに、色々とずるい……受け攻めで考えると、僕としては攻め、かな……って、今は違う!)  それぞれ人は個体差があれば、生まれ持ったものもあるので、こればかりは羨んでも仕方がない。  緊張で脳内が死んでいるせいか、目の前の梶浦を見て受け攻め判断をしてしまったことに、心の中で謝った。 (でも、まだ受け攻め判断ができるということは……緊張するけど大丈夫。なんとかなる……はず)  にこにこと高槻を見つめてくる梶浦に、いい加減挨拶くらいはしなければと、高槻は重たい唇を開いた。 「は、はじめまして。今回、梶浦さんの教育係を担当します、高槻偲と言います。不慣れな点が多いと思いますが……その、よろしくお願いします」 「俺のほうこそ、一生懸命頑張りますね」  手を差し出され、握手を求められる。その差し出した手を、高槻はおずおずと手を出して握り合った。  その手は、とても温かかった。

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