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第9話

 恥ずかしいところを見せてしまったし、人前で泣く予定なんてなかった。  だが、それもとうとう緊張の糸が切れてしまったのか、今まで張り詰めていたものが爆発してしまった。  そんな自分が情けなく、恥ずかしい。  それでも、梶浦のさり気ない、嫌味のない、「頑張り屋さんですね」という励ましの言葉と、頭を撫でてくれた大きな手が気持ちよくて、そのときから心臓がドキドキしていた。 「高槻さーん!」 「ぅわ、っ……踏み台に乗ってるんですから、両肩掴むの止めてください。落ちたらどうするんですか」  ――大事なBL本が!  高槻自身ではなく、優先するのがBLなのもどうかと思うが、落としてしまったことで本が汚れたりしていないか、そちらのほうが心配なのだ。  仮に、高槻が踏み外して怪我をしても、治療をすればいずれ治る。  しかし、落としたことで角が潰れたり、汚れてしまうなど――商品として出せないものは返品せざるをえない。 (BLを好む世の皆様に買ってもらい、作家さんに還元して次の素敵な作品を生み出してもらわなきゃいけないんだから……!)  高槻にとっては大事なことである。  自身のBLライフのためでもあるが、とても大事なのだ。 「高槻さんが怪我をする前に、俺が受け止めてあげますよ」 「なっ……!」  ――にを言っているんだ、彼は。  思わず心の中でツッコミを入れる。彼の素でもあるのだろうけれども、少女漫画を読みすぎて、出てくる言葉が王子様になってしまっていないだろうかとさえも思ってしまう。  だが、梶浦とはこういう人間なのだ。 「本当に大好きなんですね。BLのこと」 「そ、それは……まあ、そのっ」  改めて言われてしまうと照れくさくなり、うまく言葉が出てこない。  言わずもがな、高槻はBLのことをこよなく愛している。  BLに限らず、本は裏切らない。  これまで、高槻に恋愛でなにかあったというわけではない。  好きになりかけていた、仕事の先輩でもある彼女のことは別として。  BLを好きになったきっかけは、ある青年漫画に出会ってからだ。青年漫画といっても、どちらかといえば所謂「女性向け」に分類されるような内容ではある。  登場人物は男キャラばかりの学園青春漫画。四人の男子グループがいて、常に仲がいいのだが、友達なのに距離感が恋人に近いのだ。読んでいる側からすれば、胸が終始ドキドキしていた。  あとでわかったことだが、その作品は女性の間ではなにかと話題を集めていた。  そして、最大の爆弾を落とされたのがネットの投稿サイト。  ファンによって投稿される作品は、ROM専である高槻には羨ましいものだった。気になるファンアートを見ては、ブックマークをしていく日々。  その中で、高槻の目に留まったものがあった。  ただのファンアートであればいつもと変わらないのだが、最後のほうに差し掛かろうとしたとき、一枚だけ注意してほしいという内容のものが書かれてあったのだ。特に気にとめなかった高槻はクリックした。問題である最後の一枚の前に、ワンクッションで「腐向け注意」と書かれてあったのだが、まだこのとき意味がわかっていなかった。  最後の一枚を見た瞬間、高槻はマウスをぐっと無意識に握った。  早い話が、四人キャラのうち二人が抱き合い、キスをしているイラストだったのだ。  衝撃と言えば衝撃なのだが、別に気持ち悪いとも思わなかった。  そこからだ。まずは、問題となった「腐向け注意」の意味から調べることになり、「腐女子」という言葉を知った上で、少しずつ自ら足を突っ込んでいくようになってしまった。  高槻偲、当時十六歳のときだ。  ファンアートから少しずつ二次創作へと踏み入れ、気づいたときには立派な「腐男子」へと成り果てていた。「同人誌」と呼ばれる本にも手を出してしまい、購入している同人作家さんが商業BLデビューするきっかけで、商業BL作品が存在するのかということも知った。  その頃には高槻も高校を卒業するところまできていた。  お小遣いで商業BL作品をこっそり購入していたことは、家族には今も秘密にしてある。 「――……つきさん、高槻さん。おーい!」 「はっ!」 「食い入るように表紙と睨めっこしてるのもいいですけど、これから明日の新刊準備に向けて、棚の入れ替えするんですよね?」 「……その通りです」  あの初日から数週間経って、三月下旬。  電話研修を中心に、棚作りに関してはゆっくり教えていくこととなった。  まずは、棚の配列はどうなっているのか、から入り、陳列の仕方などを教えていく。陳列している中に所々ある面展は、注目作品やスタッフおすすめ作品、または出版社よりポップをいただいたものだったりする。 「えっと、それでは……明日の発売される新刊タイトル、小説とコミックス合わせて何タイトルありますか?」 「あ、はい。えっと……」  エプロンのポケットに入っている今月の新刊リストを取り出し、梶浦は数えはじめた。  渡してある新刊リストは二種類ある。  一種類は書店共通の毎月の発売リスト。もう一種類は、高槻がわかりやすいようにと自作した、BL関連だけの発売リストになる。 「コミックスは全部で十タイトル、小説は今回ありません」  高槻も発売リストを見ながら確認をする。 「そうですね。ありがとうございます」  梶浦にお礼を伝え、新刊コーナーがある棚の前に移動した。 「今回、小説の新刊はありませんが、十タイトル分空けなくてはいけないので、その作業を今からやります」  梶浦がアルバイト入社してから今日まで、十タイトルは多いほうだ。研修期間中、発売される新刊はあっても、ここまで多くはなかった。  多ければ、今後の参考にもなるので、教えるタイミングとしてはよかった。  新刊発売日はある程度固定で決まっていても、発行されるタイトルの数はまちまちだ。少ないときは少ないし、多いときは一気に多くなるときもある。  ある程度数えれば、あとは追加で入荷した書籍を棚に並べていく作業と、特集コーナーの入れ替えのために必要なタイトルを回収しようと棚とストッカーを一緒に確認した。 「そういえば、どうして高槻さんはBLが好きなんですか?」 「それは……」  いざ訊かれてしまうと身構えてしまう。  特に疚しいことがあるわけでもないのに。  先程、現実逃避として昔を思い返していた内容を梶浦に話した。 「へえ……そういうきっかけがあったんですね」 「はい。あとは、単純に好きなんです。普通の男女恋愛にある葛藤と、同性愛にある葛藤って似ているようで違うなって感じますし、恋愛するのは一緒でも、想いや気持ちを考えると……言葉にするのは難しいですね。でも、不思議と惹かれます」 「そうですか」 「BLを知ってからは、まるで自分が主人公になった気持ちになって、つい感情移入もしちゃいます。そこからは、少女漫画を読んでも思わず脳内で男性に変換しちゃってBLにさせてしまうんですよね。やっちゃいけないって思うんですけど、つい……」 「あー、その気持ちわからなくもないです。思わず、一度はやってしまいますね」  貪欲に脳が欲しているのか、作品にはごめんなさいと思いつつも、なんでもかんでもBLに変換してしまう癖。  困った笑みを浮かべながら、高槻は話を続けた。 「だからといって、自分の恋愛も反映するとは限りません。……実際に、好きになりかけた女性がいましたし。僕と同じ趣味の人なんですけどね」 「その人とは?」 「梶浦さんに少しだけお話しましたが、僕の教育係だった人なんです。彼女も腐女子なんですけど、腐男子の僕を気持ち悪いとも思わず、いつも構ってくれて。僕も、そんな彼女との会話はとても楽しくて、仕事も楽しくて……はじめは、こういう人が彼女になったら楽しいんだろうなって思うくらいの気持ちだったんですけどね」  彼女が休みがちになり、真実を知って改めて気づいた気持ち。  気になる存在から、好きになりかけていた気持ちへ変化したが呆気なく失恋。  妊娠を機に退職した彼女とは、今も連絡を取り合っている。  腐仲間として、とても仲良くしている。 「高槻さんは、もう誰かと恋愛したいと思わないんですか?」 「うーん……彼女みたいに気になる存在の人が出てきたらわかりませんけど……自分の趣味のこともありますし」 「それって性別関係なくですか?」 「え、どういう意味……」 「俺と恋愛してみるってのはどうですか?」 「……」  頭が追いつかない。  脳が理解するのに時間かかっている。  開いた口は塞がらず、目は見開いたまま。作業している手は、ロボットのように停止している。 「……」 「高槻さん?」 「……」 「……あの、その……」 「……」  おおよそ、秒針が一周したところで高槻は声を出した。 「……え、っと……か、梶浦さん、今、なんて……」 「だから、俺と恋愛してみるのはどうですかって……」 「え……ええええ!?」  眩しい微笑みを向け、躊躇いもなく言葉にする梶浦に対し、高槻はここが職場だということも忘れて大声をあげてしまった。  慌てて声を潜め、周囲を気にしながら梶浦に話しかける。 「え、いや、だって、か、梶浦さんっ」 「俺、高槻さん一目見て、可愛いなって思ってたんです」  だからといって、そんな提案はないだろう。 「頑張っている姿も、泣いている姿も、全部が可愛くて」 「だ、だからって……え、えっ」 「あの、もしよかったらの話なんですけど、仕事が終わったあとカフェで話しませんか? 今、仕事中ですし……」  ――こんなこと言い出したの、俺のせいですけど。  そう言って、梶浦は眉尻を下げて謝ってきた。  確かに、職場で話すような内容でもなければ、そもそもこの話を切り出した梶浦に責任がある。 「やっぱり、駄目ですか?」 「えっと……」  まさか、梶浦が自分に対してそう感じているとは思いもしなかった。  だって、まだ出会って数週間だというのに――。  梶浦にとっては、その前から高槻の存在を知っていたのでそうでもないかもしれないが。 「……わかりました。ですが、その……寄りたいところがあるので、カフェの前に付き合ってもらってもいいですか?」 「はい!」  快く承諾してくれた梶浦に、高槻は「ありがとう」と伝えた。  とんでもない流れになってしまったお陰で、仕事に集中できず、常に梶浦を意識してしまう。人生なにが起きるかわからないといったところだが、一気に押し寄せてきた。  今、自分の身になにが起きているのだろうか、と一度整理したい。  バックヤードで明日の新刊をシュリンクかけながら、高槻は仕事が終わったあとのカフェのことを考えていた。  今日は梶浦と高槻も十八時あがりだ。明日の新刊準備のために残業をしてもよかったのだが、梶浦と約束をしてしまった以上、残業するのも失礼だと思い、高槻は梶浦を連れてバックヤードへと移動していた。  ドキドキしている心臓とは別に、高槻は頑張って平静を装いながらシュリンク作業を続けている。シュリンクされた本は、梶浦が段ボール箱の中へと片付けていく。 「高槻さん、高槻さん」 「へっ、あ……!」  きちんと本がセットされていなかったせいで、中途半端にシュリンクされてしまった本が梶浦の手の中にあった。明らかにではあるが、梶浦の発言に意識しすぎて、仕事が疎かになっているのがばれてしまっている。 「俺のことを考えてくれてるの嬉しいですけど、きっちり仕事をするのが高槻さんでしょ?」 「あ……はい……」 「別に取って食うわけじゃないですから、意識も警戒もしなくて大丈夫ですよ」  くすりと笑う梶浦に、高槻は恥ずかしくなった。  ここまでくると、高槻が意識している、警戒していると感じさせてしまうのは当然のこと。 「……すみません」 「謝ってほしいわけではないです。そもそも、仕事中に言い出した俺が悪いんですから」  困った笑みを浮かべる梶浦に、どうしてか少しばかり心が締めつけられた。

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