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第26話

 二月に入り、仕事が休みの日に高槻は彼女と会っていた。 「高槻くんが会いたいってハートマーク寄越すもんだから、これは会わないわけにはいかないよね!」 「……ハートマークなんて付けた覚えないんですけど……」 「まああま、いいじゃないのよ」 「もうっ」  苦笑する高槻に、彼女は「それで?」と促してきた。 「その、……店長から正社員の話が出たんです」 「そっか。もうそんな時期になっちゃうのか……でもさ、高槻くんの中では、答え出てるんでしょ?」 「それは……」 「迷ってる?」 「迷ってる……んだと思います」  はっきり、迷っている、と言えなかった。  どうしても、心の中で梶浦と桜田の存在がちらつく。 「今の仕事は嫌い?」 「好き、です」 「やりがいは?」 「あります。好きにやらせてもらえる分、コーナーを任されることに誇りを持っています」  なにかをするには、当然店長の了承も必要だが、提案したあとはほぼ断られることはまずない。のちに、数字的に悪ければ対策を考えたりはするもの、店長は「一度それでやってみようか」と、まずは挑戦させてくれる。  いつだったか、「やらないより、挑戦してみないと結果もわからないしね」と、柔和な笑みを浮かべていたことを思い出す。 「そこまで答えられるなら、出ているようなものじゃない」 「そう……ですね」 「なによ。煮え切らないわね」  そう言って、彼女は冷め切っている紅茶をひとくち飲んだ。 「……もしかして、梶浦さんのこと?」 「……っ」 「殴り込みに行ってもいいかしら?」  笑顔で言うが、目が笑っていない。 「梶浦さんと、その……えっと、恋人がいると仕事やりづらい?」 「前回、田中さんに相談してからは、少しずつ気持ち的に楽になってきて、つい最近までも昔ほどまではいきませんが戻ったような気がして……でも、それでも、桜田さんがいないときには弁解しようとしてくるので、もうどうすればいいのか……」  だからあのとき、「これ以上この話題は出さないでください」と言ってしまったのだ。 「今の書店で働きたいのであれば、高槻くんがフロアを移動するか、相談次第ではアルバイトの配置換えも可能だと思うのよ」 「プライベートなことで、そこまで事を大きくしたくないです」 「まあ、そうよね。あとは、最悪、別の店舗に異動するか」 「異動……」  登用の詳細事項に、面談時に異動したい勤務地があれば、約束はできないがこれまでの経験次第では考慮する旨の記載があったのを覚えている。 「新しい場所と環境で、一から築いていくことは大変だけど」 「そもそも、僕、人見知りですからね」 「そういえば、そうだったわね。しかも隠れ腐男子だし」  微笑む彼女は、高槻の初々しさを思い出しているようだ。 「そんな高槻くんが馴染めるかも心配だけど、腐男子として生きていけるかも不安よね」 「担当次第では、仕事でBLすら触れないかもしれないですしね。というか、腐男子はどこへ行っても生きていけます」  なに言ってるんですか、と困った笑みを見せる 「私は、今の環境が高槻くんにとって最良だと思うの。でも、最終的に決めるのは高槻くん次第。担当はそのままでも、アルバイトの配置換え自体はなんとでもなる。次のステップのためとかなんとか理由をつけて、店長や真壁さんに相談してみるとかね」  詳しくは訊かないが、ここまで知っているとなると、高槻が入社する前にも似たようなことがあったのだろうかと勘繰ってしまう。  話を聞いていると、やはり彼女に相談してよかったと安堵した。 「田中さん」 「ん?」 「話を聞いてくれて、ありがとうございます」 「たいしたアドバイスはしてないけどね。あとは高槻くん次第。梶浦さんたちのことを抜きにして、正社員のことはきちんと考えてみること。それと、梶浦さんとのことも、なんとかなるといいけど……」 「田中さんのおかず? ご馳走? にならなくてすみません」 「そんなことはどうでもいいのよ! そこは、梶浦さんが悪いんだから。やっぱり、一発お見舞いしてやろうかしら」 「わあああ、それだけはやめてください!」  本当になに考えてんのかしら、と悪態を吐く彼女。  こうやって話を聞いて、高槻の代わりに怒ってくれることが嬉しい。  もし、誰にも相談できないことを考えると、負のループにずっと陥っていただろう。  今となっては仕事上の付き合いはなくても、いい関係を保てている彼女との関係性に有難味を実感した。 「最終的に決めたら教えてね」 「はい。田中さんには、いつもお世話になってるんですから」 「もし異動するにしても、都内にしなさいよ。お茶しながら萌え話すらできないなんて嫌なのよ」 「なに言ってるんですか、もう」  くすっ、と笑みを浮かべる。  話が落ち着いたところで、彼女は別のカフェに移動しようと提案してきた。 「楽しい会話で一日を終わったほうがいいでしょ」 「……ありがとうございます」 「さー、ここからは盛り上がっていくわよ」 「ノリがスナックのママさんみたいですよ」 「なによ。言うようになったじゃないの」 「ふふっ、すみません」  入社してから彼女に救われている。  なにもかも。  そう伝えたところで、彼女は「私はなにもしてないわよ」と言うだろうが、たいしたことをしていなくても、高槻にとっては元教育係である先輩の存在は大きかったのだ。  会計を済ませてカフェを出る。  一歩、外へ出れば、今だけでも楽しいことを考えよう。  高槻の答えは、もうすでに心の中で出していた。  ◇  三月になり、春を迎え入れる時期になった。  朝晩は冷え込むが、日中は暖かい。  お陰で、桜の蕾もあちらこちらとこんにちはしている。開花もそう遅くない日程で咲くだろう。桜の開花が楽しみだなと思言いながら、高槻は出勤した。  先日、彼女と話をして以来、高槻なりにもう一度考えた。  今の仕事はやりがいもあり、高槻にとってはとても居心地のいい環境だ。梶浦が、桜田が、と考える前に、仕事としてどうしたいのか、と冷静になってみた。  もう一度、自分の胸に手を置いて聞いてみる。  今の書店、店舗で働きたいという意思が強い。 (梶浦さんとのことは……)  確認のため、配置換えや異動の件も知っておきたい。  答えが出たのであれば、あとは動くだけ。  高槻は出勤したあと、店長に「あとで時間をください」と言って通常業務へと戻った。  こんなときに限ってと言うべきか、幸いにと言うべきか、梶浦はシフト休みだった。 「――店長、朝言っていたお話の件、今大丈夫ですか?」 「うん、大丈夫だよ。真壁くん、またあとででもいいかな?」 「え、それなら、僕もう少ししてから来ますよ」  大丈夫とは言うが、真壁と話し中だとは思いもしなかった。 「急ぎでも重要なことでもないから大丈夫だよー」 「それなら、僕の話もすぐに終わるので、真壁さんも一緒にいてくれて構いません」 「いいの?」  椅子から立ち上がろうとしない真壁に、はじめから動くつもりなかったのではないかと笑いそうになった。  早めに終わらせますね、と言い、用件を告げる。 「正社員のお話なんですが、その、受けようと決めました」 「そうなの? 回答期限まだ先だけど、本当に?」 「はい。本が好きなのもありますが、今の仕事も好きですし」  考えていたこと全てを店長に伝える。真壁はなにも言わず、黙って聞いて見守ってくれている。  正社員になるにあたり、本社で筆記試験と面談が行われる。  試験は一日、面談は一次、二次とある。対策も兼ねて、約一週間ほど本社がある地方へ赴くことになることも、概要を読んでいるので知っている。 「僕の意思は変わりません。なので、手続きお願いします。それと、少し訊きたいことがあるんですが……」 「うん、いいよ。答えられるものであればだけど」 「ありがとうございます。……もし、……もしの話ですが、異動したい場合は面談のときに伝えれば考慮してくれるんでしょうか」 「そうだね。希望勤務地を言えば考えてはくれるけど、絶対とはいえないし、これまでの経験や評価によっては今の店舗のままになることもあるよ。……もしかして、高槻くんは異動なんて考えてるの?」 「い、いえ、そこまでは……」  どうしてここで、はっきりと「異動は考えてません」と言えなかったのだろうか。曖昧に返事をしてしまったせいで、店長と一緒に聞いていた真壁が怪訝そうな表情で高槻を見ていたことに、本人は気づかないままでいた。  それが、まさかあんなことになるなんて――。  翌日、高槻が出勤すれば更衣室兼休憩室には、すでに桜田と梶浦が出勤していた。 「おはようございます。早いですね、二人とも」 「あ、おはようございます!」  朝から元気のいい桜田。  眩しいな、と若さに圧倒されかけた。  ロッカーに荷物を預けて、カッターシャツに着替えてエプロンを装着する。フロアに出るまであと三十分もある。どうして、こんな朝早くに来てしまったのだろうかと後悔した。  起床して時間を確認すれば少し寝坊をしてしまい、慌てて準備をして家を出た。カフェに寄っている時間はないと思い、そのまま寄らずに来てしまったが運の尽き。朝から梶浦と桜田の姿を見ることになるとは、思いもしなかったのだ。  鞄から携帯と小銭を取り出し、室内にある自販機で缶コーヒーを買う。カフェに寄れなかった分、ここでコーヒーを飲んで目を覚まさせたい。高槻は椅子に腰かけて、プルタブに指をかけた。  飲みながら携帯を弄っていると、対角線上に座って梶浦と話をしていた桜田が、なにかを思い出したかのように高槻に声をかけてきた。 「昨日、はじめて遅番出勤したんですけど、高槻さん異動するんですか? 正社員のために夏? 秋……だったかな、一週間ほどいなくなるって聞いたんですけど……異動のための研修ですか?」 「えっ!?」  高槻と梶浦の驚いた声が重なる。 「出勤したときに真壁さんまだいて、店長と真剣な表情で話してたんで、邪魔しないように聞き耳立てながら着替えてたんです」  ――そこは聞き耳立てるんじゃなく、空気を読んでさっさとフロアに出てくれればよかったのに!  高槻は頭を抱えたくなった。  それ以前に、店長と真壁に「この件については誰にも言わないでほしい」と、軽く口止めでもしておけばよかったと後悔した。  異動の件を曖昧に返事してしまったせいで、真壁が変に捉えてしまったのだろう。 「正社員のために地方異動するんですか? もう戻ってこないんですか? もしそうなら、真壁さん、寂しくなるねって言ってましたけど……」  桜田の質問攻めに、高槻はなにも言えないでいる。 「それに、夏にしろ、秋にしろ、高槻さんと一緒に働けるのって、あと数ヶ月ってことじゃないですか」 「いや、それはっ……!」  どうして、こうもややこしくなってしまったのか。  ――いや、ややこしくさせてるのは自分のせいじゃないか!  心の中で、自分へツッコミせざるを得なかった。  桜田の発言で驚いて以降、なにも発言しなかった梶浦がようやく口を開いた。 「……異動するって本当なんですか? 俺から離れるんですか?」 「梶浦さんは全く関係な――」 「あります! 俺のせいですか? 俺が、高槻さんを困らせたからですか?」  矢継ぎ早に発言する梶浦に、高槻は「一度、落ち着いてください」と制するも、それでも梶浦は止まらない。 「俺が、高槻さんに想いを告げなければよかったですか? それとも、桜田さんと付き合ったことがいけなかったですか?」  いや、そういうことじゃない――と、言いたいのに言えない。  異動のことも、まず真壁からして誤解であり、二人にもその誤解を解かなければいけない。 「……あー、もう!」  高槻と梶浦の二人を黙って見ていた桜田は、頭を掻きながら「ストップ!」と間に入って止めた。 「言い出した俺が言うのもあれですが、そろそろ他のスタッフも出勤してくると思うんで、話の続きは退勤後でどうですか?」  桜田のお陰で、一気に冷静になった高槻と梶浦はお互いに謝る。 「……熱くなってしまい、すみません」 「いえ……」 「とにかく話はあとで、高槻さんもそれでいいですよね?」 「……わかりました」  桜田の言葉に、高槻は決意した。  誤解を解くのもそうだが、逃げることだけはしたくない。 (……あれ、この感覚……)  梶浦との間にあった出来事みたいだ。桜田と付き合うことになり、でも梶浦からすれば「理由がある」と言っていたが、高槻は聞く耳すら持たなかった。 (言い訳のできないつらさ……はー、僕のばか)  自分の身に起こったことで気づけたこと。  梶浦にもきちんと謝らなければいけない。  そして、梶浦が言おうとしていた「本当の理由」を知りたい。  今更かもしれないけれども、今ならきちんと聞けると思ったのだ。

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