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鮫島モンスター⑤

   ◆ ◆ ◆  しまった、と思った。目を開けている筈なのだが、俺の目の前は真っ暗で、両隣に居た双子の姿も無い。 「……っ」  同じ格好で寝ていた所為で背中が悲鳴を上げている。俺は本当に阿呆だ。どれだけ気を抜けば他人の家で暗くなるまで昼寝が出来るのか。  いくら冬だから外が暗くなるのが早いと言ったって、こんなに暗くなっていれば、三時なんざとっくに過ぎているだろう。  料理教室に参加出来なかった。マズい。イコール、鮫島の家には完全に帰れない。  この部屋から外に出ることさえ、今の俺にはハードルが高く感じられた。双子が居なくなっているということは、灰原さんは一度くらい子供部屋に来たんじゃないか?  記憶に無いが、起こされた気もする。起こされたのに、俺は起きなかった?プリン食って、子供と遊んで、昼寝しただけ?相当、最低な人間じゃねぇか。 「クソだ……」  一人、頭を抱え、落ち込んだ。自分が最低な人間だということは前々から分かっていたが、優しさを分けてくれた人間に対して、その面を見せることは許されたことじゃない。  職無し、家無し、金無し。今更、俺は自分の置かれている立場を理解した。どんなに生きていくのが困難な状態か、理解したのだ。  気付いたところで、どうしようも無い。俺の中身は空っぽだ。現実から逃避するにも場所が無い。  コンコンっ  扉があるであろう方向からノックの音が聞こえた。確実に双子では無い。  コンコンっ 「……はい」  もう一度聞こえた音に対して、俺は控えめに返事をした。狸寝入りをしていれば良かったと扉が開く瞬間は思っていたが、直ぐに、していなくて良かったと思う。理由は…… 「……ごめんねー、スエキくん」  入ってきた灰原さんに謝られたからだ。  一瞬で部屋が明るくなった。壁のスイッチを押し、彼女が部屋の電気を点けたのだ。俺も灰原さんに謝ろうとしていたのだが、先を越された。 「洋双ようじと栄双えいじのこと任せちゃったから、疲れたでしょう?起こそうと思ったんだけど、申し訳なくて……」 「いや、こちらこそ、すみません」  起こされていなかった、ということに関してはホッとした。 「今ね、六時半くらいなんだけど。どうする?夕飯食べてく?それとも、帰る?」 「寝てただけなのに、夕飯をご馳走になるなんて、そんなこと出来ませんよ」  これ以上、能無しになりたくは無い。 「じゃあ、帰る?」  何故、もう一度聞くのだろうか。聞かずとも、残った選択肢は一つしかないのに。 「帰れ……ませんけど……」  凄く小さな声で呟いた。灰原さんは察しが良さそうだから、このたった一言で、きっと俺が鮫島の家に居候していることがバレてしまう。そもそも友人では無いが、ただの友人では無いということがバレてしまう。 「じゃあ、泊まって行きなさい。一週間くらい、ずっと!」  ニコッと笑った灰原さんを見て、何故だか胸が熱くなった。母親の面影を見る。 「一週間は、さすがに。俺、灰原さんの家に何をしに来たんだって、怒られてしまうので」  怒られる?誰に?そんな相手、居ないだろうに。俺が笑いながら返事をすると、急に灰原さんが真面目な顔になった。 「鮫島くんの言うこと、聞かなくて良いんだからね?彼、意外と寂しがりやだから、スエキくんに構って欲しくて色々言ってるだけだよ。それに、意外と優しい一面もあるかもだから」  鮫島という男が、寂しがりやな筈が無い。未知の部屋に籠りっ切りで一日に何度も外に出てこない。自ら殻に籠っているような男だ。そんな男が、寂しがりやなはず……、無いだろう? 「優しい一面なんてあるんですか?」  全く予想が出来ない。真冬の真っ暗な寒空の下、家に入れてくれたことは感謝しているが、あの態度。まるで王様だ。 「まあ、君にもいつか分かるよ」  ニコやかな顔に戻り、グーサインを出す灰原さん。いつか……、その時は訪れるのだろうか。いや、もう会わない鮫島のことなんざ、忘れてしまえば良い。仕事を探すことを考えよう。 「それで、泊まっていくでしょう?」 「……一日だけ、お邪魔します」  照れ臭くなり、顔を背ける代わりにお辞儀をして顔を隠した。今の俺は多分、凄く複雑な顔をしている。存在を受け入れられた嬉しさと、鮫島を忘れよう、仕事を見つけようという苦しさ。 「よしよし、うちの旦那さんのことは気にしなくて良いからね?無口だけど、凄く心の広い人だから」  一瞬、ドキリとした。鮫島と灰原さんが浮気をしていることを思い出したからだ。複雑な関係とは、それのことだろう? 「あの……」  何かを喋ろうと思った時だった。突然、ガチャリと玄関の鍵が開けられる音がした。 「あ、噂をすれば、うちの旦那さんがご帰宅かしら?」  部屋から消えていく灰原さん。自分は怪しい人間では無いということをいち早く伝えなければ、と俺も急いで後を追った。  階段を駆け降り、玄関を見て俺は唖然とした。玄関に立っていたのは、サンタクロース……、いや、全身に雪を積もらせた鮫島だったのだ。 「あらあら、鮫島くん。どうしたの?真っ白じゃない」  笑いながら、灰原さんが鮫島の身体から雪を払う。 「外は吹雪だ」  鮫島の口から発せられたのは、一言だけだった。何故、この家に来たのか。  灰原さんの旦那さんが居なかったから良かったものの、鉢合わせしていたら、大変なことになっていたんじゃないのか?  何を言ったら良いのか、俺は固まったまま、鮫島を見ていた。 「やだー、傘は?忘れたの?」  雪は払ったが、灰原さんはバンバンと鮫島の背中を叩いている。 「パパー!」  風呂場らしき所から、洋双が走り出してきた。今まで風呂に入っていたらしい。 「パパ!?」  俺は顎が外れるかと思ったが、何だか様子がおかしい。あんなに元気よく出てきたにも関わらず、直ぐに俺の後ろに隠れてしまった。 「おう、元気か?パパじゃなくて悪かったが、……どうした?」  視線を合わせようと玄関でしゃがみ込む鮫島。いつの間にか、俺の後ろからはそっくりな顔が二つ覗いていた。二人は俺の後ろで耳打ちし合っている。俺には何を喋っているのか分からないんだがな。 「あなたが来るの凄く久しぶりだし、そんなむさ苦しい顔してたら、子供に嫌われるに決まってるでしょう?誰だか分からないし。ねえ?スエキくんも、この顔嫌いでしょ?」  ニヤニヤと笑いながら、灰原さんが地味に鮫島のことを攻撃している。命は救われたが、俺は鮫島のことなんざ大嫌いなのだ。奴が俺のことを嫌っているように。  だから、俺は灰原さんの問いに「はい」と答えることが出来る。だが、しかし、俺は黙ったまま、鮫島と灰原さんのやり取りを見守っていた。 「そうか、……分かった」  落ち込んだのだろうか、怒ったのだろうか。鮫島は静かに玄関から出て行った。 「鮫島くんがうちに来るなんて珍しいなぁ。毛嫌いされてると思ったのに」  鮫島が灰原さんを嫌っているということだろうか。いや、そんなわけないか。一体、何をしに来たのか。まさか、奴がこの家に来るとは思っていなかった。 「すえきー!だっこー!」 「すえきー!あそぼー!」  双子が俺の両足に片方ずつ張り付いてくる。まるで凄く強そうな装備をした戦隊ロボみたいだ。 「こらこら、お二人さん。もう寝る時間でしょ?」  二人の頭を撫で回す灰原さん。自然と俺との距離も近くなる。 「まだ、寝ない!ご飯食べてないもーん」 「さっき食べたでしょう?そんな痴呆老人みたいなこと言わないの!」  栄双と灰原さんのやり取りが剰りにも面白く、俺は笑いを堪えることが出来なかった。 「スエキくんったら、笑ってる場合じゃないのよ?勿論、ムスッとしているより、笑ってた方が良いのだけれど」  冗談だろうが、灰原さん自身がムスッとした顔で言った。まだ一日しか子供と接していないが、子育てというものは大変なんだな、と思う。 「すみません。何か手伝いますか?」 「二人を寝かしつける……とか?──ダメよ。逆にテンションMAXになっちゃうから」  うーん、と悩んだ後、引き伸ばされ、引き伸ばされ、却下された。そりゃ、そうだよな。俺が付いて行ったら二人は遊び始めるに決まっている。 「スエキくんは、そこに座ってカレーを食べていてくれれば良いから」  玄関から見える昼間プリンを食べたバーみたいなテーブルを指差し、灰原さんが言う。 「はい」  特に何も言わずに従ったが、何だろうか、この無力感。  俺が返事をした途端、灰原さんは双子を連れて二階へと消えた。これからしばらく、彼女は二人と闘うのだろうか。苦戦する母親の姿が目に浮かぶ。  これ以上手の掛かる人間を増やしてはいけない、と俺は黙ってカレーを盛り、席に着く。だが、そうそう簡単に夕飯にありつけるものでは無かった。 「……スプーンは、何処だ?」  皿は用意されていたが、スプーンが無かった。生憎、マイスプーンというものは持ち歩いていない。一度は席に着いたが、キッチンまで戻る羽目になった。  人に食事を与えて貰って文句なんざ言ってはいけないんだが、流石にこれは……。  仕方なく、キッチンの引き出しを勝手にゴソゴソと探ってみたが、見つからない。 「スプーンをお探しかな?」 「ああ、はい」  後ろから聞こえた声に反射的に返事をしてしまった。知らない男の声だ。 「君の目の前に刺さってる」  俺が振り向く前に後ろから伸びてきた手が目の前を指差した。確かに、スプーンはフォークと纏めて、鉛筆立てみたいなケースに刺さっている。 「ありがとうございます。あの……」  スプーンを手に振り向くと、やはり其処には知らない男が立っていた。 「こんばんは、初めまして。灰原洋平(はいばらようへい)です。我が家へようこそ、スエキくん」  灰原……、この人が灰原さんの旦那さんか!  握手を求めてくる笑顔の男性。恐らく、灰原さんより大分年上だ。五十代くらいのダンディな雰囲気のする旦那さんだと思う。髪が真っ黒な所為か、老けているという印象は持てない。  いつ玄関から入ってきたのか、スプーン探しに夢中になっていた俺は気付かなかった。なんて間抜けなことか。 「あ、西海史スエキです。初めまして、ってあの、何処かでお会いしたことありますか?」  何故、俺の名前を知っているのか。握手を交わしながら尋ねてみる。 「なんか、口説き文句みたいだね。照れるなー。ははっ、なんて冗談。多栄子から聞いたんだよ」  灰原さんから聞いた旦那さん像からは懸け離れている。無口だと聞いていたんだが、そりゃ、嘘だ。騙された。 「まあ、ゆっくりして。うちの家はオープンだから。──ん?洋双と栄双は寝てしまったのかな?」  閉ざされるどころか、洋平さんの口は動く動く。灰原さん、いや、多栄子さんと同じ気さくな人なんだと思う。 「僕は二人の寝顔見てくるから、君はそこでカレーを食べてて」  例の席を指差し、足早にリビングから出て行く洋平さん。一瞬の流れについて行けず、魂が抜けたように俺は一人、カレーの前に座ったのだった。  ん?誰だ?  音が聞こえたのだ。玄関の扉が開く音で、鍵を開ける音は聞こえなかった。洋平さんが鍵を掛け忘れたのだろうか。その所為で、泥棒でも入ってきてしまったのだろうか。  世話になっている以上、家族を守らなければならない。そう思ったにも関わらず、馬鹿な俺は手ぶらで玄関に向かった。  明るい廊下の向こう側、玄関に人が立っているのが見える。少し生やしたヒゲと短い茶色の髪にやけに整った顔。道を歩けば、誰もが振り向くような……、だが、しかし、見たことがない人間だ。 「……誰だ?」  掠れた声で、恐る恐る近付いて行く。 「久しぶりだな……、親父」  そう呟いたのは、玄関に立った見知らぬ男だった。  親父!?  最初はそれが俺に向けられた言葉だと思って、混乱したが、それは違った。階段の上から此方を覗く人物が居たのだ。 「史(ふびと)、お前生きてたのか?ははははっ、まじか!」 「生きてる。勝手に殺さないでくれ」  大声で笑う洋平さんと、……誰だ?洋平さんの息子?  バタバタと小さな足音がする。双子がまた起き出してきたらしい。洋平さんが二人を起こしてしまったのでは無いだろうか。 「にーにだ!にーに!」  洋双が俺の横を走り抜け、見知らぬ男に飛びついた。 「やっと、分かったのか。いくら俺でも、さっきのは少し傷付いたぞ?」  洋双を抱き上げ、男が苦笑いを浮かべながら言う。全く何を言っているのか分からない。さっきとは何だ?あんたを見たのは初めてなんだが? 「あら、スッキリしたわねぇ。やっと、本当の鮫島くんって感じ」  鮫島という名前を聞き、ギョッとして後ろを振り返ると多栄子さんが立っていた。洋平さんも隣にいる。忍び足で階段を降りてきたのかというほど、気配が無かった。 「さ、鮫島さん!?」  あり得ない。全くの別人だ。整形並みの大変身。信じられない。信じたくない。  だが、あの時、俺の整った顔に全く動じなかった理由が分かった。奴自身が俺よりもっと整った顔をしていたからだ。正直、この混乱した気持ちを何処にやれば良いのか分からない。  洋平さんは鮫島の父親?ということは、多栄子さんは鮫島の母親で?洋双と栄双は鮫島の兄弟? 「スエキくん、どうしたの?街路樹みたいになってるよ?」  廊下の端っこでピンッと突っ立っていたからだろうか、多栄子さんに尋ねられ、俺は混乱した頭で思わず叫んだ。 「皆さんは、どういう御関係なんですか!?」と……。

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