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活字レプリカント①

  【近寄っていません、近寄らないでください】  あの大雪の日から、五日程が経った。特に大きな変化は無いが、俺の中の鮫島という男の捉え方に変化が現れた気がする。  吹雪いているにも関わらず、夜道を傘も差さずに歩き、灰原さん宅に来たり、双子に嫌われたくないからと、あんなにむさ苦しかった顔を何処かで整えてきたり。  鮫島の行動は予想が出来ない。あれは俺を迎えに来たのだろうか。いや、奴のことだ、夕飯を食いに来たついでだったのだ。  未だに大嫌いという壁は消えないが、あのむさ苦しい髪と髭が無くなった所為か、近寄り難いという壁は消えた気がした。近寄り難い壁は消えたんだが……。 「おい、寄るな。向こうに行け」 「寄ってない。あんたが、こっちに来たんだろうが。俺は最初から此処に座ってたんだよ」  酷い言い草だ。頭が悪いということは理解していたからな、俺は今朝からソファに座り、大人しく読書をしていた。そこに昼になって、ふらっと後からやって来て、最初に言うことがそれかよ。 「あんたな、俺は犬じゃねぇんだ。ちょっとは尊重してくれても良いんじゃねぇのか?」 「馬鹿か、お前は。犬に言葉で分かって貰えると思っているのか?おめでたい頭をしているんだな、本当に。一体、此処には何が入ってるんだ?」  つまり、言葉の分かる俺は犬では無いと?  俺に寄るなと言っておいて、鮫島は稀に俺に触れてくる。今だって、頭をポンポンっと……、ムカつく。 「俺もな、自分が頭悪いのは分かってんだよ!だから、こうやって本を読んでだな……」  あのデカイ本棚から適当に出してきた分厚い本をパラパラとめくってみせる。 「ほぉ、ついに犬も文字が読める時代がやってきたのか。世の中、凄いことになってきたものだな。それで?何が書いてある?」  やっぱり、俺を犬扱いしてるんじゃねえか! 「それは……だな……」  実のところ、集中力が続かず、まだ一ページも読めていない。  なんなんだ、この小さな字は!  前々からこうなのでは無い。前は文庫くらいなら読めていたのだ。ただ、いつからか俺は活字が読めなくなっていた。何故か、読めない。 「結局、読めないのか。初心者は絵本から始めた方が良い。読み続けることも大切だ」  そう言って、俺の手から分厚い本を奪い取っていく鮫島。 「うるせぇな、大きなお世話だよ。何が続けることが大切だ、だ!あんたこそ、趣味の絵はどうしたんだよ?結局、三日坊主どころか、一日坊主じゃねぇか!」  よし、言ってやったぞ。言ったからな、逃避しよう。  鮫島の顔が見れない。奴から少しでも距離を置こうと、立ち上がり、寝室への道を急ぐ。道と言ってもソファから数十歩も無い。早歩きで寝室への扉に辿り着き、ノブに手を掛けた時だった。 「……ッ!」  突然のドンっという凄まじい音に、俺は一瞬で固まった。直ぐ横の壁に飛んできた分厚い本が勢い良く当たったのだ。  大切な本じゃないのか?  唖然とした俺の動きを数秒止めておくには、それだけで十分だった。間髪入れずに俺の顔の横を二つの手が通り過ぎ、扉に張り付いた。手前に開いてくる筈の扉が完全に固定される。  とてもじゃないが、背後に立つ奴の方を見る気にはなれない。 「……一メートル以内に近付いちまってるんじゃねぇのか?」  あの大雪の日のことを思い出してしまった。忘れようと、出来るだけ考えないようにしていたのに。男が男にキスするなんざ、おかしな話だろう。意味が分からない。本当に大嫌いだ。頭がおかしい。  鮫島からの返事を待っているが、何を言われるのかと、心臓がバクバクしている。何故、こんなに至近距離に居て、何も言わないのか。  背中に視線だけを寄越すなんざ、卑怯だ。こちらが逃げられないのを知っていて、ズルいじゃねぇか。俺が黙っていられないことも知っているんだろう? 「な、何か言えよ」  沈黙が一番嫌いだ。独りでいるわけじゃないんだ。何か喋って欲しい。 「……お前、多栄子のところで何を学んできたんだ?」  低い声が耳に流れ込んでくる。近くで喋るな、囁くな。多栄子さんの名前を出しながら、そんな喋り方をするな。この一日坊主の卑怯者が。 「それは……、料理のことか?」 「それ以外に何がある?」  こ、答えられない。サボったワケでは無いが、双子と遊んで疲れて寝過ごしたなんて、口が裂けても言えない。料理教室には参加していないのだから、料理については学んだことなど無い。 「に、肉じゃが、だったかな?」  取り敢えず、その場しのぎで適当な料理名を口にしていた。これが、一体先程の話と何の関係があるのか。 「今から、作れ」 「はあ!?」  ボソリと耳元で言われ、俺は思わず耳を押さえながら振り返った。 「いや、無理だろう?そもそも、材料が無……」 「無いかどうかは自分の目で確かめてから判断しろ」  奴の顔を見ても、何も思わない。心臓のバクバクは、いつの間にか何処かに消えていた。いや、本が壁にぶつかって一時的に心臓が驚いていただけかもしれない。心臓が驚く、ってなんだ? 「出来たら俺を呼べ。分かったな?」  いや、分かりませんけど?と、言ってやりたかったが、言えず、やはり鮫島は俺の答えを聞く前に未知の部屋へと戻って行った。  肉じゃがには何が入るのか。大分大昔に食べた誰かの手料理を思い出し、必死に冷蔵庫の中身を探った。  料理は作らないクセにデカイ冷蔵庫には材料が溢れかえっている。ただ、そのまま食べられるものは無い。恐らく、多栄子さんが買ってくるのだろう。 「お、あった」  直ぐに肉を発見した。白滝もあった。しかし、重要なことに気が付いてしまう。  肉じゃがの「じゃが」がいない!  冷蔵庫の中にじゃがいもがいないのだ。いや、そもそも、じゃがいもは冷蔵庫に入れるものなのか?グルグルと部屋の中をワケもなく歩き回った。  それよりも、何故、鮫島は突然、俺に料理をしろと言ったのか。腹を立てたら腹が減ったからとか、そんな理由なら笑えるのかもしれないが、奴の頭の中は予測不可能だ。  同じ世界に居て、俺とは別の世界を見ているのかもしれない。きっと、同じ世界を見ることなど、一生有り得無いのだろう。  鮫島はどんな人間なのか。それが少しでも分かったら、似た世界を理解出来るようになりますか?

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