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活字レプリカント③
◆ ◆ ◆
同日、夕方六時のことだった。
「おい、これに着替えろ」
完全に意気消沈していた俺に鮫島が差し出してきたのは、クリーニンング仕立ての黒に近いグレーのスーツだった。赤いネクタイも一緒に手渡される。
「出掛けんのか?」
嬉しいという感情は、これっぽっちも無く、俺は手渡されたスーツとネクタイをただ持ったまま、ボソリと尋ねた。
「散歩に行くんだよ、スエキチ」
既に黒のスーツに着替えた鮫島が言う。
「スエキチと呼ぶな。スーツで散歩なんて無いだろ?」
また、あんたは俺を犬扱いしやがって。
「スーツのサイズが合えば良いが……、まあ、俺が"昔"着てたものだからな、大丈夫だろう」
昔、という部分を強調する鮫島。つまり、俺の身長が自分より低いと言いたいんだろう。へいへい、どうせ俺はあんたより背が低いですよ。数センチだけな!
「なに見てんだよ?」
抵抗する気も無く、言われた通りにその場でスーツに着替え始めた俺。ジッと見つめる鮫島からの視線に耐えられず、思わずボヤいた。
「それ……、俺の下着じゃないのか?」
言われ、数秒固まり、俺はハッとした。
「いや、違っ……、違くは無いが、着替えが無くて……だな、仕方なく、あんたの寝室から勝手に……、拝借しました」
別に悪いことをしている覚えは無いが、何故だかテンパるし、顔も熱くなる。身一つで此処に来てしまったのだから、仕方ないだろう。そういうことを鮫島に相談する勇気も無かったし。
おかしい。何故だ、凄まじく恥ずかしい。人のモノを勝手に拝借してしまった罪悪感からか?顔が熱い。
「何故、もっと早く言わない?そういうことは直ぐに言うべきだろう?」
ごもっともだ。奴は間違ったことなど、一切言っていない。例え、ソファにどかっと足を組んで偉そうに座って居ようと、奴は正しいことを言っている。
「あんたに言ったら、俺に何か見返りを求めるだろう?」
言い訳したい症候群だ。どうしても、素直になれない。
「当たり前だろう?よく分かっているようだから聞くが、一体、お前は俺に何をしてくれるんだ?」
曲がった事なんざ、言わなければ良かったと思った。ちゃんと俺が素直に成れていれば、奴は何も言わなかった筈だ。
「今の俺じゃ、何も出来ねぇよ」
なんとかスーツに着替え終わり、反論にならない反論をしてみせる。だが、また敗北感を味わう羽目になった。自分が悪いのは分かっているし、自分が無力で能無しなのも分かっている。
「少し、遊び過ぎたな……」
ため息混じりの奴の声に、そりゃ、どういう意味なのか、と問い掛けたくなった。
それは俺のことを弄り過ぎたという意味か?
なんだ、ちょっとは良いところがあるんじゃねぇか、と思った俺が馬鹿だった。
「……お前の所為で時間が無くなった。弁償しろ」
やっぱり、俺の所為になるのかよ!
ソファから立ち上がった鮫島の声音は何だか機嫌が悪いようだった。それにしても、言い掛かりにも程がある。時間を弁償するというのは、現実的には無理だろう。
「どうやって、弁償するんだよ?」
立ち上がった奴の目の前に立ち塞がってみた。勝てる気はしなかったが、訳分からんことを言う奴に気持ち的に負けたくなかったのだ。
偉そうに言うんだから、答えられるんだろう?
だが、鮫島は「俺が知る訳無いだろう?それくらい自分で考えろ。それとも、頭が良すぎて考えられないのか?」と、俺のお頭が弱いことを知っていて、わざとそんなことを言いやがった。
くそ、上手く切り返せない。言葉が見つからない。下手に「そんなことは無い」と否定しても、なんだか凄く意地を張っているように見えるだろう?
そんなことを口にすれば、鮫島の思う壺だ。奴の思い通りになんざ成るものか。
「か……、考えてみる」
本当の気持ちを抑え付け、冷静を装う。一言しか口にしないのは我慢している証拠だ。
どうだ?鮫島。さぞかし面白くないだろう?
そう思って鮫島の顔を見た時、俺は少しだけ複雑な気持ちになった。奴が少しだけ、微笑んでいたように見えたからだ。
ただ、一瞬。ほんの一瞬だけ。俺の目の錯覚で無ければ、俺は何故、奴に笑われたのだろうか。今の俺の反応は奴の予想に反していて、何も面白く無かった筈だ。深く考えるほど、分からなくなる。
「手を貸せ」
「は?手?右か?左か?」
突然言われた所為で、混乱した。出した右手を引っ込めたり、また出したり、忙しなくなってしまう。
「どちらでも良いから、早くしろ」
また、そんな言い方をする。
「じゃあ、右で」
何をされるのかとビクビクしながら右手を出す。
「お前に一つ、アドバイスをしてやろう」
鮫島にそろりと出した右手を掴まれ、袖を軽く捲られた。一体、アドバイスとは何なのか。
「お前には考えられ無いだろうが、俺だったら、こうやって弁償する」
するりと俺の手首に何かが通された。よく見りゃ、それは……
「ズルいだろ?腕時計なんざ、俺は持ってない」
高そうな時計だった。奇跡的に俺の手首にフィットしている。
「だから、お前には考えられないと言ったんだ」
そう言って、鮫島はまた鼻で笑った。完全に馬鹿にされている。
「……お、俺だって、金があれば同じことをしていたかもしれないだろ?貴重な選択肢の一つを取るんじゃねぇよ」
口では強がってみたが、恐らく、一生掛かっても同じ選択肢に辿り着くことは無かったと思う。
「選択肢の一つね、どうだかな」
冷たい目で返された。先程見せた表情が嘘のようだ。感情を押し殺しているようには見えない。
どちらが、本当の鮫島なのか。考えている時間なんざ無かった。鮫島がリビングから外に通ずる扉を開き、さっさと階段を上がって行ってしまったのだ。
「おい、この時計どうするんだよ?」
腕に着けられた時計は六時三十分を指している。何をそんなに急いでいるのか。結局、鮫島からの返事は無かった。
階段を上がった先は大通りで、道の端に一台の高級そうな黒い車が停まっているが、まさか、それに乗るのか?
その、まさかだった。徐に高級車に近付いた鮫島が、コンコンっと助手席の方の窓をノックする。すると、運転席の方の扉が開き、とある人物が姿を現した。
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