13 / 78

活字レプリカント⑤

   全く知らないババアだ。歩く度にドスン、ドスンと音がしそうな体型に、首と耳朶には、如何にもって感じの真珠のアクセサリー。薄々、鮫島が出てきそうな気がしていたが、全くの別人でホッとした。 「谷川先生、受賞おめでとうございます」 「ありがとうございます」  何でもない、よくある会話が繰り広げられている。 「今回、受賞された"紫陽花"という作品は谷川先生の青春時代を元に書かれた恋愛小説なんですよね?」  失礼だとは思うが、こんなババアにも青春時代があったのか?と思う。俺でさえ、学生時代が思い出せない程、青春時代が無かったと言うのに。  何故、鮫島は俺をこんな場所に連れて来たのか。当の本人は何処かに行ってしまったし、もうヤケクソだ。いや、ヤケ酒だ。  谷川先生の話なんざ、右から左に抜けていく。俺は片っ端から酒をウェイターから受け取り、飲み干した。だが、俺には欠点がある。いくら飲んでも酒に酔わないのだ。俺の先祖は絶対に日本人じゃ無かったんだと思う。  そして、今晩も酔えずに居た。身体だけがポカポカしている。人になら酔えそうだ。鮫島のことなんざ、知るか。  未だに酔えていないが、俺は外に出ることにした。会場の外では無く、建物自体から。  恐らく、鮫島は俺が消えたことに気付いていないだろう。そのまま、気付かなければ良い。あわよくば、暫く、このままにしておいて欲しい。  ホテルの入り口付近、外の風に当たりながら、酔っ払っているフリをする。誰かに絡む勇気は無く、酔っ払っている雰囲気だけだ。  酔っ払いに近付こうとする奴なんざ、居るわけも無く。俺は独り、フラフラと入り口付近を行ったり来たりしていた。  このまま鮫島の家に帰ってしまおうとも思ったが、俺は奴の家の場所を知らなかった。あの場所に辿り着いたのは初めてで、偶々だったからだ。  今思えば、俺は鮫島のことを何も知らない。知っているのは、家族構成が少し複雑だということだけ。正直、奴の名前が、灰原なのか、鮫島なのか、それ以外なのかも分からない。  今日会った彼女は鮫島のことを「灰原さん」と呼んでいた。奴が自分の前から居なくなった時には「史」と呼んでいた。彼女なら、奴のことを詳しく知っているのだろうか。 「史(ふびと)に近寄んないでくれる?あんたが必要以上に近付いたら、あたし、史のこと殺すから」  俺の脳裏を彼女の言葉が過ぎった。俺が鮫島に近付くことに依って、奴自身が傷付けられる。名前も知らぬ、嫌な女に。  どうかしてる。  心のほんの隅っこで、それが嫌だと思っている自分は、やはり酒に酔っているのかもしれない。  そうだ。酔っているんだろう? 「正気だったら、そんなこと思わねぇよ」  誰にも聞こえないように、ボソリと呟いた。遠くの道路の端に彼女の車が見えた気がする。似た車かもしれないが、そちらをジッと見ることは出来ず、視線を逸らした。その逸らした先、視界の端に鮫島の姿が小さく映り込む。丁度、入り口の扉から出てくるところだ。  気付くのが早ぇんだよ。  酔っ払いにしては軽やかな動きで、奴に気付かれないようにホテルから離れていく俺。途中からフラフラと歩き出し、完全に酔っ払いの皮を被った。  最初から、奴に気付かれたいとは思っていない。ただ、置いて帰るのだけは勘弁して欲しい。正気を保っているだけに、それは流石の俺も傷付く。だから、わざと奴に見える所をゆっくりと歩いたのだ。 「おい、何処に行く気だ?勝手に消えたら心配するだろう」  馬鹿だよ、あんた。安安と引っ掛かってんじゃねぇよ。  後ろから声を掛けられたが、俺は前を向いたまま演技を続けた。 「あんたが心配?笑わせんなよ。ははっ、この嘘吐きめ」  笑いと怒りを交互に含める。今の俺の発言に意味など無い。 「歩いて帰る気か?」 「そーですよー。俺、あんたんちの場所、分かんないけど。あんたは彼女の車に乗って帰れば良いだろ?」  ヒックと、それらしく吃逆をしてみせる。これも演技、俺の発言に意味など無いのだ。奴のポーカーフェイスが気に食わない。少し、困らせてやりたいと思った。  奴がついて来ていることを気配で感じながら、俺は歩みを進めて行く。本当になったことは無いが、自分でも見事な千鳥足だと思う。だから、奴が俺に手を貸したくなる気持ちも分かる。 「大丈夫か?」  だが、少しやり過ぎたと思った。 「触んなよ!あんた、俺に近寄んなって言っただろうが!それに……」  腕を強く振り払い、フラフラと鮫島から離れた。本音と建前が交錯する。近寄ってはいけない。きっと、彼女が近くに……。 「……お前、あいつに何か言われたのか?」  そう言われ、鮫島の中で彼女の印象がどうなっても良い、全てを話してしまえと思った。 「言われてたら、悪いかよ?」 「言われたんだな?」  また俺を馬鹿にしているに違いない。 「俺が!……俺が、あんたに近付いたら、あんたのこと殺すって」  ホテルから少し離れた、自販機の立ち並ぶ、細く薄暗い道路。俺と鮫島しか居ない空間に狂気の言葉が響く。 「お前、本当に馬鹿だな」  突然、フラフラと歩き続ける俺の目の前に奴が立ち塞がって来た。また、説教か。  溜息を吐きたい気持ちになり、顔を上げ、驚く。微かな夜の光の中で、鮫島は確かに笑っていたのだ。それが、今までに見たことの無い明るい表情で、俺の心臓が小さく跳ねたのが分かった。  奴がこんな表情をするのなら、酔っ払いのフリなんざ、止せば良かった。 「何、笑ってんだよ!ふざけんな!」  それでも、俺は酔っ払いのフリを続ける。普段ポーカーフェイスの鮫島が、今、俺に隙を見せたのは、恐らく、俺が泥酔していると思っているからだ。 「お前は勘違いをしてる。あいつが嫉妬しているのは、俺に対してだ」  どうしたら良い?酔っ払っていようが、酔っ払っていまいが、頭の悪い俺には今の発言の意味が理解出来ない。彼女があんたに嫉妬しているのは正しいんじゃないのか? 「お前があいつに気に入られたんだよ」  そう言う鮫島の顔さえも見れなくなった。言葉の意味を理解したからだ。顔が熱くなる。違う、多分これは酒の所為だ。 「……っ」  彼女が俺のことを好きで?鮫島のことが邪魔だと言っているんだよな?なのに、俺は一人で勘違いして、心配しなくても良いことを心配して、俺の所為で鮫島が傷付くとか、そんなことを考えて、逆にそれじゃあ、まるで俺が……。 「……お前も、あいつに嫉妬してたんじゃないのか?」  冷静な口調で言われた。 「……知らねぇよ、黙れ」  知らない。煩い。分かっていることを言われるのが、一番嫌いだ。 「違うのか?」 「違ぇよ!あんたこそ、ヤキモチ妬いてたんじゃねぇのか!?……ヒックっ」  俺に嫉妬してたんじゃねぇのか?俺に彼女を取られて、さぞ悲しかっただろう。一瞬、そう思ったが、もう一度吃逆をした途端、呼吸や心臓までもが止まるかと思った。 「そうだ……、お前の言う通りだよ。俺はあいつに嫉妬してた」  俺の言う通り?違う。鮫島の言葉に内心驚愕していたが、酔っ払っていないことを奴に悟られないように、俺は眠気眼を擦りながら聞き流そうとした。だが、奴は俺のことなど、逃す気は無いらしい。 「俺が、お前に近寄るなと言ったのは、俺がこういうことをしたくなるからだ」  前から近付いてきた鮫島に、そっと抱き締められた。安心なんざ、するものか。その腕を振り解かなかったのは、少しだけ酔いが冷めて、寒いと感じていたからだ。ただ、それだけ。他に意味など無い。 「……馬鹿じゃねぇのか」 「……ああ、そうかもな」  耳元で軽く笑う声さえも、こそばゆく感じた。ムカつく。鮫島がこんな風に喋るのなら、酔っ払っているフリなんざ、本当に止せば良かった。  明日、昨夜の記憶が無いフリをしなければならない。自分で記憶を削がなければならない。それでも俺は、降り出した雪を鮫島の肩越しに見つめながら、酔っ払いのフリを続けたのだった……。

ともだちにシェアしよう!