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葛藤コンフリクト②

「多栄子さん……」  小声で名前を呼び、視線をチラッと鮫島の方に向けた。俺的には「あれって、鮫島さんですよね?」という問いの意味を含めたチラ見だったわけだが、何を勘違いしたのか、察したように多栄子さんが口を開いた。 「鮫島くん、私、今日使う材料で買い忘れた物があるから、ちょっと出てくるね。スエキくんと洋双と栄双の面倒見ててくれる?」  言葉の区切り方の違いから、まるで俺の面倒まで見るようにと言っているように聞こえる。 「ちょっ、多栄子さん」 「大丈夫、大丈夫」  何が大丈夫なものか。あなたが居なくなったら、俺はこの気まずい空間で、どうやって過ごせば良いんだ? 「ほら、鮫島くんも任せとけって言ってるから」  確かに多栄子さんの示す方向で鮫島は軽く手を挙げ、それらしい返事をしていたが、そうじゃないんだ。そう思ったが、反論出来ず、「じゃあ、頼んだわねー」と、多栄子さんはヒラヒラと手を振って玄関から風のように去って行った。  突然、やけに静かになる灰原家。 「にーに、なにしてるのー?」  栄双が鮫島の隣に座り、奴の顔を覗き込んでいるのが見えた。怒られるぞ?やめておいた方が良いんじゃないか?とヒヤヒヤする。「喧しい、彼方に行ってろ」とか言われるぞ? 「んー?ああ、仕事。……あれ?お前、どっちだ?」  鮫島の口から放たれたのは、俺の予想していた攻撃的な言葉とは懸け離れたものだった。奴の横顔が見える。俺に見せたことの無いような表情、少し間の抜けた返事、同一人物とは思えない。 「えーじー」 「そうか。ごめんな、構ってやれなくて」  栄双の頭をポンポンとしながら、苦笑いを浮かべる鮫島。自分の義弟を見分けられ無いとは……、珍しく、奴の欠点がひとつ見つかった。 「いーよー。ようじとあそんでくる」  駆け出す栄双の姿を追って、鮫島の視線が此方に向きそうになり、俺は急いで視線を逸らした。早く自分自身も奴の視界から外れなければ。 「おい、栄双。洋双、何処行った?」  今、鮫島と話していたのだから、栄双も知らないだろうと分かっては居たが、ただ何かを言わなければと思ったのだ。 「うーん、こっち?」  もう良いさ。どうせなら、このままかくれんぼをして時間が過ぎてしまえば良い。本当は気付いていた。後ろを向いた俺の背に鮫島の視線が刺さっていたことを。  面と向かって話している時は俺の顔なんざ見ようともしないクセに、俺が気付いていないとでも思ったのか?あんた、俺が見てない時に俺のことを見ているだろう?  認めたくは無いが、俺も一緒だから分かるんだよ。別に顔が見たくて見ている訳じゃない。鮫島という人間のことが良く分からないから、見てしまうのだ。きっと、奴も同じ理由だろう。無意識に目で追っている、のかもしれない。 「すえきー、プリン食べよー」  何処からとも無く現れた洋双が栄双の隣に並んで言う。 「いや、俺の独断じゃ決められな……って、全然話聞いてねぇし」  一人の人間が影分身したみたいな二人の動きを両方いっぺんに追えるほど、俺の目は発達していない。 「にーに、プリン取ってー」  小動物のような素早さで冷蔵庫の前まで移動し、どうやら、栄双が今度は鮫島に頼みごとをしているらしい。もうそろそろ十時だとか何とか、鮫島がぶつぶつ言っているのが聞こえた。そして、徐に冷蔵庫から三連になっているプリンを取り出し、スプーンと共に栄双に手渡す鮫島。  おいおい、勝手に与えると多栄子さんに怒られるぞ?  元の位置に戻った鮫島の隣に一つ席を空け、双子がバーカウンターのようなテーブルに着く。 「すえきー、ここー」  洋双がテーブルを叩きながら言う。嫌な予感はしていたが、何故今日は二人して並んで座っているんだ?この前は俺を間に入れてくれただろう?こりゃ、強制的に俺が鮫島の隣に座ることになるじゃねぇか。わざとか?いや、こんな幼い二人にそんな企みが出来るわけが無い。偶然と気分か。  行きたくないと思ったが、二人が俺が来るまでプリンを我慢するつもりだということが分かり、観念した。消せる筈もない存在感を出来る限り薄めながら、鮫島の隣に腰を下ろす。  右からプリンが回ってきた。その流れで、チラッとテーブルの左に視線を送ると、そこには真っ白なノートがあった。  仕事をしていると言っていた鮫島だが、目線の先には何も書いていないノートの一ページがあり、手元にはペンなど、字が書けるものが一切無い。なんだ、結局は何もしていないのか。 「ただいまー」  多栄子さんが帰ってきた。この辺の土地勘が無いため分からないが、恐らく近くにスーパーがあるのだろう。 「あらあら、皆、おやつ食べてるの?」  皆、とは俺も含まれているのだろうか。 「もう十時だものねぇ、なんて言っている場合じゃ無かったわ!今日、いつもより早く生徒さん達が来るんだった!」  慌てたように部屋の壁を弄り始める多栄子さん。 「今日、何かあるんですか?」  彼女の動きを見ながら、リビングの壁が外れることを初めて知った。 「今、学生さんたちが冬休みだから、生徒さんが増えるのよ。だから、暫く料理教室は午前と午後に分けてやるようにしてるの」 「あー、なるほど」  大変だな、と思っていたが、どうやら他人事では済まないらしい。 「スエキくんも参加するでしょう?」 「ああ、はい」  壁の向こう側に気を取られ、返事をしてしまっていた。等間隔に並んだ三つのシンクとIHの台。今になって、料理教室を開いているのは本当だったのかと思う。 「今日はね……、あ」  ピンポーンと一度だけインターホンが鳴らされ、多栄子さんが話の途中で離脱した。まるで存在が無いような隣の鮫島。俺の存在まで無くなったみたいだ。極め付けは双子で、 プリンを食べ終え、俺と鮫島が居ないかのように二人だけで楽しそうに話しながら二階に行ってしまった。  ずっと何も言わねぇつもりかよ?  ムスッとしながら、俺はずっと前を向いていた。 「はい、いらっしゃーい。好きな所に移動してね」  多栄子さんの声に反応して後ろを向くと、そこには女子高生らしき三人組の姿があった。真面目な子というより、ちょっとやんちゃな感じの三人。出来れば、俺も仲間に入れて貰いたいと思う。何故なら、可愛い子ばかりだからだ。 「スエキくん、エプロンいるでしょ?」  多栄子さんが近付いて来た。 「いります!」  テンションが上がり、急にやる気を出した俺だったが、元気よく返事をしなければ良かったと思うことになる。

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