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葛藤コンフリクト③
「はい、じゃあこれ」
プフッと笑いながら多栄子さんがエプロンをパッと広げて、手渡してきた。俺にこの黒のフリフリエプロンを着けろというのか。笑っているということは、わざとなんだな?
「あの……」
戸惑いながら、エプロンと多栄子さんの顔を交互に見る。
「着けるの手伝おうか?」
笑いを堪え切れなくて、ニヤニヤしてしまっているじゃないか。
「……お願いします」
頭の中で試合終了のゴングが鳴った。
「そういうことじゃないんです」と言えなかったのは、多栄子さんにはお世話になっているからだ。
だが、何故だ。何故……
「あらー、スエキくん、可愛い!」
知らんババアのチームに俺を入れたんだ?いや、ババアと言っては失礼か。仮にマダムとしよう。
「スエキくーん、こっち向いてぇ」
誰なんだ、この携帯構えた黒縁眼鏡のおかっぱマダムは。何故、俺の名前を知っている?
「撮影は事務所の許可を得てください、好子(よしこ)さん」
そして、誰なんだ?この隣に立って勝手に俺のマネージャーをしてくる長身長髪、昔スポーツしてましたみたいなマダムは。
俺は隣のピチピチ女子高生のチームに入りたかった!いや、入る筈だった!なんだ?人数が足りないって。誰だ、世の中に子供が少ないと言った奴は。
現状からして、マダムの方が少ないだろう?いや、マダムが少ないとしても、経験豊富なマダムは一人で三役こなせるんじゃないのか?いや、寧ろ足出ちゃってるだろ?
「薫子さん、あなた、スエキくんが可愛くないと仰るの?」
おかっぱマダムがスポーティーマダムに尋ねる。
「誰もそんなこと言ってないじゃ無いですか、好子さん」
そして、携帯のカメラでの撮影大会が始まった。ああ、もうフリフリのエプロンとか関係無ぇじゃねぇか。近ぇんだよ、二人とも。
「今日は、バレンタインデーに贈るフォンダンショコラを作ります。各台の上に材料があるか確認してください」
多栄子さんが、普段も料理しているであろうキッチンに立つ。
「材料?無塩バター、ビターチョコレート、生クリーム、グランマルニエ?グラニュー糖、卵、薄力粉、粉砂糖……って、あれ?」
材料はある。しかし、今更だが、俺、この教室受けても意味ねぇんじゃねぇか?と思う。菓子類なんて、絶対、後で作ったりしねぇからな。
「灰原先生、まだまだバレンタインデーは先です」
そう言ったのは女子高生の一人で、ショートカットの良く似合う美人さんだ。
「いいの、いいの。こういうのはね、予習が大事だから」
フレンチなどで使うような銀色の小さな鍋を多栄子さんがIHにセットした。
「じゃあ、始めますよ?まずは中に入れるガナッシュを作ります。皆さん、チョコを刻みましょう」
すみません、見ているだけで良いですか?と言えるタイミングは既に過ぎ去った。俺は何をすれば良いのだろうか。
「出来ました、先生」
俺がモタモタしている間に薫子さんが目にも止まらぬ早さでチョコを刻み終え、俺のチームは他のチームを待つことになった。
女子高生チームは、はしゃいでいて楽しそうだ。だが、良いか?まだチョコレートを刻んだだけだぞ?可愛い過ぎるだろう!
どうしても、そちらに視線が行ってしまう。そんな女子高生チームの向こう側にもう一つチームがある。二組の親子が合体したチームだ。若いママ友と娘たちは幼稚園の友達か。贅沢は言わない。あそこのチームのサポートでも良かった。なのに、現実では
「スエキくん、うちに婿に来ない?」
おかっぱマダムの押しが強い。
「いや、それはちょっと……」
営業スマイルでなんとか対応するが、正直ツラい。
「はい、次行きます。刻んだチョコレートと生クリームを一緒に鍋に入れて弱火にかけます」
多栄子さんのその声に隣のおかっぱマダムが反応した。
「先生、湯煎じゃなくて良いのかしら?」
まるで、嘘発見器のようだ。
「液体が一緒に入っているので大丈夫です。でも、絶対にお水は入れないでくださいね。チョコレートとお水は頗すこぶる仲が悪いので、チョコレートがただのボソボソになります」
人差し指を立てる様は、教壇に立つ学校の先生に見える。一方、俺の右隣では、おかっぱマダムが何やら手帳にメモをしていたので、チラ見を試みた。見たことを後悔する。手帳には単語帳のように「ただのボソボソ」とだけ書かれていた。
もう、やめてくれ。ただのボソボソって、なんだ?どうして、そうなるのか、理由も書かなければ意味が無いだろう?
左隣では、スポーティーマダムが着々と作業を進めている。やはり、俺は不要だった。いや、このチーム、下手するとスポーティーマダムだけで成り立っている。
「うまく溶けましたか?溶けたらボウルに移して、グランマルニエというオレンジのお酒を加えます。軽く混ぜて、ボウルのまま氷水にあてていきますよ」
多栄子さんの手元を見て感心していると、何故か、例のボウルが俺の前にやってきた。混ぜれば良いのか?そんで、冷やせば良いのか?
凄く甘い匂いがする。中に入った茶色の液体が氷水にあてることで固くなってきた。
「スプーンで丸く形を整えて、ラップを敷いたお皿に乗せて、冷蔵庫で冷やせばガナッシュは完成です。簡単でしょう?」
ニッコリと笑う顔が剰りにも輝いていたもんだから、やっぱり、俺は多栄子さんが一番好きだと思った。
「あ、俺、不器用なんで、これは出来ないです」
スプーンで形を整えるなんて難易度の高い作業は出来ない。おかっぱマダムに任せることにした。
「任せておいて。私、いつもちょっと器用だって言われるの」
ちょっと器用って。まあ、出来上がっていくガナッシュとやらを見る限り、確かに器用ではあった。
「凄く器用なんですね」
嘘をついた。素直に白状すると、実は出来上がったガナッシュの形なんざ見ていなかった。丁度、おかっぱマダムが作業をしている間、隣のチームの女子高生の一人が此方に手を振ってきたのだ。俺か?と一応、背後を確認し、髪を巻いたその女子高生に反応を返している間に作業は終わっていて、気付けば、ガナッシュは冷蔵庫の中に……。
「褒めたって、何も出ないんだからね?」
はい、おかっぱマダムのツンデレ頂きました。ありがとうございます。申し訳ないが、苦笑いで流しておいた。
「ここからは一人一人作業に分かれて頑張って貰いたいと思います。薄力粉を振るう人、さっきと同じようにチョコレートと生クリームを鍋で溶かす人、卵を卵黄と卵白に分ける人」
指を折りながら、多栄子さんが説明をしてくれる。絶対に卵は俺にやらせない方が良いと思う。無残な姿を見せることになるだろうからな。
「私、卵やります」
この中で一番器用だと思われる薫子さんが卵担当になって、俺は本当にホッとした。おかっぱマダムが黙って鍋を選んだため、必然的に俺が粉を振るう係りになる。
なんて地味な作業なのだろうか。飽きてしまったと言ったら、多栄子さんは怒るのだろうか?そう考えると、なんとか堪えられた。
「今、粉を振るった人は卵をやった人から卵黄だけを貰って、グラニュー糖を加えて泡立て器で白っぽくなるまで、すり混ぜてください」
スポーティーマダムが泡立て器を手渡してくれた。これなら、俺にも出来そうだ。「卵をやっていた人は卵白を泡立ててメレンゲにしてください」と多栄子さんが言った瞬間、左隣でビックリする程の機械音が聞こえ始めた。
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