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葛藤コンフリクト④

   どうやら、その機械も泡立て器のようだ。迫力の違いに思わず自分の泡立て器とその泡立て器を交互に二度見する。 「すみません、それは何ですか?」 「スエキくん、これは電動泡立て器です」  まるで英会話のテキストのような会話になってしまった。  薫子さんのボウルの中で白い泡が順調に立っていく中、俺のボウルの中では全く泡が立たない。きっと、こちらも泡が立つ筈だと思い、必死に泡立て器で混ぜていると、不意に右隣から俺の腕を掴んで制止する人物がいた。  おかっぱマダムだ。口を噤つぐみ、ゆっくりと首を横に振る。何故だろうか、ボウルの中の黄身を救えなかった気持ちになった。 「もう充分だから」  俺の育てた黄身がボウルごと貰われて行く。 「出来ましたか?では、すり混ぜた卵黄の中に溶かしたチョコレートを加えて良く混ぜてください」  ここから、三人の共同作業が始まる。 「次にメレンゲを四回くらいに分けて加えて、泡をあまり潰さないようにサックリと混ぜてください」  ヘラに持ち替え、言われた通りに混ぜていく。 「スエキくん、上手いじゃないの」  おかっぱマダムに褒められた。 「そうですか?」  このチームじゃ嫌だなんて言って悪かった。この二人のお陰で、今はこの作業が楽しいと感じている自分がいる。 「はい、そしたら、このカップに半分くらいずつ流し入れて」  そう言って多栄子さんが手に持ったのは、マフィンでよく見るカップだった。 「さっき作ったガナッシュを真ん中に入れて、残りの生地を流し込みます」  説明を聞き終え、俺がいざやろうと思った時、左の薫子さんは既にその作業を終え、カップを乗せたまま鉄板を作業台の上に叩きつけていた。 「大丈夫、心配いらないわ。空気を抜いているだけだから」  だから、あんたは誰なんだ?とおかっぱマダムに問い掛けたくなる。 「最後に予熱したオーブンに入れて、一七〇度で十分焼けば完成です」  周りを見渡すと焼き上がりを目前に、皆の目はキラキラしているように見えた。フォンダンショコラが焼きあがるまでの時間、俺は器具を洗っていたのだが、やはり、奴は来た。 「スエキくーん、やっぱりうちに婿に来なさいよ」  おかっぱマダムだ。 「好子さんの家が嫌なら、うちでも良いですよ?」  スポーティーマダム、あんたもか!  二人に挟まれ、小さな鍋がとてつもなく洗い辛い。 「いや、あの……」  とてもじゃないが、現在無職だということを二人には言えない。 「俺……、婚約者がいるので……」  本日、またひとつ嘘を吐いてしまった。 「あらー、そうなの?残念だわー。ねえ?薫子さん」 「はい、私もそう思います」  どうやら信じてくれたようだ。いや、信じてくれてしまったようだ。 「ところで、好子さん」 「何かしら?薫子さん」  二人が何やら話をしている隙に俺は間からスッと抜け出し、多栄子さんに次回は何を作るのか、と尋ねに行こうとした時だった。 「あの……、お兄さん、お名前なんて言うんですか?私、マキって言います」  ショートカットの女子高生だ。そして、その隣から、「アヤです」「スミレです」と挨拶をされた。巻き髪の子がアヤちゃんで、高い位置でポニーテールにしているのがスミレちゃんだ。 「スエキです。宜しく」  可愛い子には優しくしなければ、と飛び切りの笑顔で答える。 「きゃーっ!」  久しぶりに自分に対しての黄色い声を聞いた。悪い気はしない。 「えー、彼女さんいるんですか?」  積極的なのはアヤちゃんだ。 「……います」  悪いとは分かっているが、嘘に嘘を重ねていく。可愛い子を前にして、嘘を吐くのはツライ。嘘を吐いているのは俺自身だが、恨むぞ、俺の架空彼女。 「すっごく、残念です」  巻き髪のアヤちゃんが残念がっているが、よく考えろ、下手すると犯罪になるぞ?俺。 「いやいや、俺、もうおじさんだからね?」 「え?いくつですか?」  スミレちゃんも結構積極的だ。 「に、二十九……」  恥ずかしいと思うのなら、言わなければ良いのだが、思わず素直に答えてしまった。「うそー、見えない!」と、三人とも同じようなことを言う。 「ありがとう」  猫を被っている訳では無いが、満面の笑みを連発する。 「きゃーっ!!」  悲鳴に近い黄色の声が部屋に響く。俺もまだイケるな、と思いながら、自慢したくなり、鮫島の方を見た。どうやら、多栄子さんが奴に話し掛けるところみたいだ。二人の会話に耳を傾けた。 「鮫島くん、ちゃんと仕事してるの?」  聞いている此方がドキッとする。すみません、働いていません。 「してる」  奴の肩を持つわけでは無いが、ちゃんと仕事はしているんだと思う。じゃなきゃ、あんな家には住んでいないだろう? 「ちょっと、もう帰るの?フォンダンショコラ食べていかないの?」  徐にノートを閉じ、鮫島が立ち上がった。 「仕事は終わった。それは、あいつが持って帰ってくるだろう?」  あいつ、とは俺のことか?  分かった瞬間、意地でも持って帰ってやるものか、と思った。俺みたいな奴を信じるのが悪い。  後の会話は存在しなかった。ただ、黙って鮫島が玄関から出て行っただけだ。 「スエキさん、聞いてます?」  ショートカットのマキちゃんが小首を傾げながら尋ねてくる。 「え、ああ、何だっけ?」  しまった、こんなに可愛い子を前に鮫島に気を取られるなんて。 「えっと、私たち、こう見えて美術系の高校に通ってるんです。今度、って言っても大分先なんですけど、展覧会があるので観に来ませんか?」  スミレちゃんが言う。 「会場は此処の直ぐ近くで、灰原先生も来てくれるって言ってました」と、マキちゃん。  多栄子さんが来るのなら、行っても良いと思うが、全く絵に興味が無い俺なんかが、そんな不純な理由で行くのは何だか申し訳ない。だが、率直に断るのも気が引けた。 「多栄子さ……、灰原先生と相談してみるよ」  そう言った瞬間、オーブンのタイマーが鳴り出した。どうやら、フォンダンショコラとやらが焼けたらしい。そのお陰で女子高生三人との会話が曖昧になり、俺は自分のチームに呼び戻された。 「スエキくーん、凄く上手く焼けたわよー。一人、三個かしらね?」  おかっぱマダムが何故か、分けてビニールの袋に詰めようとしている。 「あ、俺は袋に入れなくて大丈夫です。全部此処で食べて行くので」  そう言いながら、早速一個を口に運んだ。 「あらー、彼女さんに持って帰らなくて良いの?」 「良いんです」  おかっぱマダムの問いに即答する。持って帰らないと決めたのだ。俺の判断は間違っていない筈。そして、結局……

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