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曖昧ワーク⑦
◆ ◆ ◆
ホテルの廊下、鮫島の後につき、黙々と歩く。結局、ネクタイは交換ということになってしまった。何も言わねぇんだ、この人が。まあ、元はどちらも鮫島のモノ、色も同じ紺で似ているが、いつの間にか交換されているということに奴も気付いている筈だ。しかし、実は、あれから奴とは会話をしていない。
そして、エレベーターを待っている間に小さな事件が起きる。通路を曲がってきた一人の人物。其奴がこちらにゆっくりと歩みを進めて来る。俺には見覚えがあった。そう、奴に仮に名前をつけるとしたら、「三千万の男」だ。茶髪に昨日着ていたスーツ。奴も此処に泊まっていたということか。
徐々に近付いてくる男。果たして、鮫島は奴のことを知っているのか。知っているとすれば、今、奴と接触するのは、非常にマズイ。冷や汗が出てきた。男との距離、約二メートル。
周囲に自分の心臓の音が聞こえてしまうのでは無いかと思う。そのくらい、今、俺は緊張している。この一瞬のためだけに、何故、俺の手の毛細血管は収縮するのか。お陰様で、俺の両手は至極、冷たくなっている。
鮫島はエレベーターのボタンの前に立ち、真っ直ぐ前を向いたまま、男には見向きもしない。俺が後ろの壁に寄っ掛かっていたため、三千万の男は、俺と鮫島の間を抜けて行くことになった。ただ、何も発せず、通り過ぎたのである。
気になる点は一つ。何故、奴は身体と身体が触れそうな程、俺のギリギリ近くを通ったのか。俺が鮫島の職業を暴くというミッションを絶対に成功させるように圧力を掛けようとしたとも見受けられる。だが、頭の悪い俺には何の影響力も無い。俺は本番に強いタイプだ。どうにかなるだろう。まあ、行き当たりばったりで生活してきた結果が今の俺だ。
「なあ?……俺、あんたの機嫌を損ねるようなことしたか?
そう俺が呟いたのは、エレベーターに乗り込んだ瞬間だ。奥に入り込む俺と入り口に立つ鮫島。表情には出ていないが、奴の背中からは如何にも「今は機嫌が悪いです。近寄らないで下さい」というオーラが出ていて、狭い箱の中、その雰囲気に俺が耐えられなくなったのだ。尋ねて数分経っても返事が返ってこない。突然、どうしたというのか。
「おい、無視すんなよ」
近寄るなと訴えている奴の背に手を伸ばした。人は「するな」と言われる程「したくなる」生き物だ。
「……っ」
───何故、こうなったのか。
気付けば、俺はエレベーターの壁に背中から押し付けられていた。黙ったままの鮫島が俊敏な動きで俺の身動きを一瞬で奪ったのだ。しかし、これを自業自得というのだろう。いつ、どの階で扉が開くか分からないエレベーターの箱の中、鮫島が狂気をはらんだ雰囲気を纏っている。
鮫島との距離は無いに等しい。壁に押し付けられているため、逃げ場もなく、奴の顔は容赦無く俺に近付き、今にも、唇と唇が触れ合いそうだ。だが、ここで負ける訳には行かない。俺にもプライドというものがある。
「なんだよ?文句があるなら、口で言えよ」
何とも思っていない、という雰囲気で奴を睨み付けてやった。鮫島は時折、野獣のような威圧感を放ってくるが、俺も同じ男として、それに押されるつもりは無い。まあ、稀に例外もあるかもしれないが……。
ただ、それが今じゃないということだけは分かる。俺が年下だからナメられているのか。それとも、居候だからナメられているのか。どちらにせよ、俺は奴に完全にナメられている。パーソナルスペースにズカズカと入り込みやがって、許さねぇ。
「自分だけ黙りこくるなんざ、卑怯だぞ?ナメんな」
幸いにも、まだ口だけは自由だ。今までの行動からすると、鮫島は俺を受身側だと思っているに違いない。だが、それは違うということを教えてやらなければならない。何か、何か、上手い言葉で奴に。
「……いつか……いつかなあ!あんたのこと、押し倒して、メチャクチャに泣かしてやるからな!」
そして、出てきた言葉がこれだ。いい加減、頭の中で纏めてから発言する癖をつけようと思って居たんだが、それは無理だった。難易度が高過ぎる。何を言っているのか、自分でも分からない。自分で強気なことを言ったにも関わらず、奴の目を見ることすら、上手く出来ない。鮫島はそんな俺のことを鼻で嘲笑い、自分の額を俺の額につけてきた。
然(さ)りげ無く、熱測ってんじゃねぇよ。
今の俺をひと言で言い表すならば、「馬鹿たれ」だ。口を開いた奴の方が負ける、っていうのを聞いたことがあるか?残念ながら、俺は無い。しかし、実際、奴の沈黙に俺の言葉は勝てなかった。まあ、よく考えれば、自爆な訳だが、認めたくは無い。なんて遅いエレベーターなのか。鮫島から勝利を奪うことは無理だと判断した俺は、結局、諦めて折れた。
「……頼むから、離れてくれ」
チラッと二、三度鮫島に視線を向け、懇願する。とてもじゃないが、奴の目を凝視は出来ない。
「──離れてください、お願いします、だろう?もっと可愛いらしく言えないのか?」
鮫島が、相変わらずの真顔で言い放つ。
「言う訳無いだろ?俺に可愛さを求めるんじゃねぇよ」
やっと、会話が成り立つと思えば、このザマだ。ググッと鮫島の身体を押してみると、意外とあっさり奴は離れて行った。離すんなら、もっと早く離せよ、と思う。それにしても、まさか、奴の口から「可愛い」なんて単語が出てくるとは思わなかった
もしかすると、鮫島は可愛い奴が好みなのかもしれない。勝手にそう考え、ホッとする。俺にとって、可愛さと素直さは無縁の存在だ。別に奴に好かれたいと思っている訳では無いし、寧ろ、もっと嫌われても良いと思う。適度な距離に居られれば良い。
危うく、目的を忘れ掛けていたが、俺には重要な仕事がある。早く奴の職業を暴かねばならない。そう思った瞬間、地下一階でノロマなエレベーターの扉が開いた。
「ちょっとぉ!灰原さん、遅いんですけどー!」
地下駐車場の片隅で、鮫島専属ドライバーが車の側でギャーギャーと騒いでいる。
「おい、洋輔。ギャーギャー言っていないで早く車のエンジンを掛けろ」
その姿さえ、愛おしく思えるのは、やはりこれが恋だか……、洋輔?
「うるさいわよ!こちとら、無駄な排気ガス出さないように心掛けてんのよ!あたしはね、真心でやってんの!」
そう言いながら、運転席側の扉を開く彼女。名前については何も言わないのか?鮫島が単に言い間違ったのか?
「洋輔、お前に真心なんてあったのか?初耳だ」
鮫島が後部座席の扉を開け、彼女の名前をわざとらしく強調する。真心が無いのは、あんただろうが!
「はあ?あるんですけどー。まあ、言ってなかったけど。ってか、その名前で呼ばないでくれる?腹立つから」
助手席の扉を開けようとして、俺は危うく吹き出しそうになった。
「洋す、……っ」
珍しく鮫島が人に叩かれている場面に遭遇したのだ。洋輔という彼女は一体、何者なのか。
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