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曖昧ワーク⑧
「ねぇ、灰原さん。あたしの名前、なんだっけ?」
扉を開けたまま、イライラした口調で彼女が言う。どうなるのか、先行きが気になり、俺も助手席に入れないでいる。
「よ……、洋世(ひろせ)」
威圧的な視線に鮫島が負けた。やはり、奴の言い間違いか。しかし、何か弱味でも握られているかのようにも思える。だが、既に勝敗は見えた。もう見ている必要は無い。満足した俺は静かに助手席に乗り込み、奴等が動くのを待った。
「まったく……、灰原さんが下の名前で呼んで欲しく無いっていうから、あたしはちゃんと上の名前で呼んでるのに、どうして、あたしの呼んで欲しく無いっていう申し出は聞き入れて貰えないのかしら?」
彼女が何やらブツブツ言いながら、運転席に乗り込んできた。
「何、見てんのよ?」
チラッと一瞬でも俺が洋世と呼ばれた人間の方に視線を向けたのが悪かった。奴はその一瞬を見事に逃さず、此方を凝視してきた。
「いや、見てねぇし。あんた、何見てんだよ?」
丁度、鮫島が後部座席へ乗り込んできたため、奴に責任転嫁をする。
「……」
流れを断ち切る真顔キング。
「洋世、何故、俺を灰原と呼ぶ必要がある?」
そして、話題はループする。あんたは、まだ、その話をしていたのか!意味が分からない。それはさっき話をし終わったんじゃないのか?
「あたしも"鮫島"だからに決まってるでしょ?同じだから、"鮫島さん"なんて呼びたくないのよ」
やっと車のエンジンが掛かったが、彼女の言っていることが益々俺を混乱させる。
「そういうことじゃない。兄として呼べば良い、と言っているんだ」
ん?ちょっと、待て。
「嫌よ。あんたと兄妹だと思われるじゃない」
なんだよ、違うのか。
車が突然バックしたかと思うと急発進する。慌てて、俺は忘れていたシートベルトを着用した。
「何を今更言っている?お前が俺の弟だという真実は変えられないだろう?」
やっぱり、弟なのか!
ルームミラー越しに鮫島が見えるが、やはり、何とも思っていないみたいな顔で言っている。
「ちょっと、やめて!」
小さく、「……隣に居るんだから」と聞こえた。
「ってか、コイツ、あたしに頂戴!」
コイツ?と思って洋世の方にゆっくりと視線を向けると、奴は左手でハンドルを握り、右手で此方を指差していた。人を指差すんじゃねぇよ。いや、そうじゃない。そもそも、どんな話の流れだ、そりゃ。
今、俺の遅過ぎる初恋は終焉を迎えた。彼女、いや、彼が鮫島の弟で無かった数十分前ならば、俺は彼女の言葉を聞いて喜んでいたかもしれない。だが、まさか、彼女が男だったとは……。通りで、男の鮫島に嫉妬するわけだ。
「……」
黙り込む鮫島。何を悩んでいる?俺はあんたの所有物じゃないが、この運転手には渡さないだろう?
「──好きにすれば良い。俺には関係の無いことだ」
「おい、ふざけんな。俺は物じゃねぇぞ?」
悩んだ結果がそれじゃあ、納得出来ない。
「一度拾ったんだから、責任持てよ」
ルームミラー越しでは無く、直接奴の方を見て言ってやる。意地でも洋世のところには行きたく無い。
「まさか、お前の口からその言葉が出てくるとは思わなかった」
さも、驚いています、みたいな口調だが、表情は全く変わらない。
「なんだ?その言葉って。責任の話か?俺だって、持つときはあるんだよ」
まったく失礼な奴だ。何を言ってんだよ?確かに、俺は極稀に餓鬼っぽいところがあるかもしれないが、もう三十路になる大人だ。
「不正解だ」
「は?」
真正面を向いた鮫島と視線が全く合わない。
「お前に拾われた自覚があるということに驚いたんだよ」
「なっ!あんたなぁ……」
続く上手い言葉が見つからない。
「まあ、精々責任を持って?犬の責務を全うしろ」
嫌味ったらしく言われたが、頭の固い俺では素早く切り返せず、洋世に割り込みされることになる。
「ねぇ、イチャイチャしないでよ!あたし、完全に蚊帳の外なんですけど!」
話を曖昧にされ、さぞ、イライラしたことだろう
「ねぇ、なんで無視すんの!」
反応を示さない俺と鮫島にイラついた洋世が意味も無くクラクションを鳴らす。何故、わざわざ住宅街の狭い道を通るのか。クラクションなんて鳴らしたら近所迷惑じゃねぇか。
「話は終わった。お前は黙って運転をしろ」
とんだご都合主義だ。どれだけ優位な立場に立てば気が済むのか。まあ、俺にそれを指摘する権限は無いがな。
「もう、何なのよ!」
再びクラクションが鳴らされる。昼間だから、まだマシだが、これが夜中だったら、何処かの暴走族も顔負けだ。そのクラクションの後、直ぐに車内は静かになった。しかし、空気が重い。俺も静かな空間は嫌いじゃ無いが、まさか、この重苦しい空間が鮫島宅まで続くとは思いもしなかった。
「とっとと降りてよ!」
鮫島宅近くの道路で追い出すようなことを口にする洋世だが、「もう乗せない」だとか言わないあたり、鮫島のドライバーをすることは満更でもないらしい。
「どうして、降りないの?」
鮫島が後部座席から居なくなり、おとなしくなる洋世。今回は上手くシートベルトが外れたが、俺は車から降りなかった。後ろから鮫島が居なくなるのを待っていたのだ。
「聞きたいことがあるんだ」
ジッと洋世の目を見つめ、俺がそう言うと、彼は照れた様に「何を?」と言ってきた。あんたが鮫島さんの弟なら、知っているだろう?上手く聞き出せそうな気がする。
「鮫島さんの仕事って、何だ?前、悪いことしてるって言ってたよな?」
スパイ、西海史スエキ、始動。
知らなければ、知らない。知っているのなら、その単語を教えるか、教えないか。俺は短い答えが返ってくるものだと思っていた。また、怒ったりしてな?しかし、洋世の答えは全く違うものだった。
「……昔からさ、史は悪い仕事ばかりしてるんだよ。でも、それは仲の悪かった両親が育児放棄したのが原因。アイツはさ、あたしを育てるために頑張ってくれたんだよね。それ考えると、良い兄貴だなって思う。だから、今してる仕事は知らないし、詮索もして無い。でも、多分、職は違えど、まだ史は悪い仕事から抜け出せて無いんだと思う」
最初は何気無く話を聞いていた俺だったが、徐々に胸の辺りをグッと掴まれる感覚に陥った。だから、父親を毛嫌いし、母親の名が入った自分の名前を嫌っているのか?
「なんか、悪かったな。話してくれて、ありがとう」
久しぶりに謝罪の言葉と礼の言葉を口にした気がした。内心、聞かなければ良かったと後悔している。聞いてしまったから、尚更、鮫島の職を暴き辛くなってしまった。
「──ねぇ、何で史なの?」
「は?」
ツツっと喉元から下に指でなぞられ、ゾクッとする。普通に見れば、やはり洋世は美人だ。好きじゃ無くなったことをその顔が俺に忘れさせようとしてくる。
「だって、そのキスマーク、史がつけたんでしょう?」
何故、そんなに悲しそうな表情で見つめてくるのか。
「いや、知らない。朝起きたら、ついてたんだ」
彼の視線を追って、慌ててキスマークがついているであろう首元を手で覆った。
「何、それ。一緒の部屋に泊まってたんでしょ?」
「違う。それは俺が自分の部屋から締め出されたからであって、別に……」
自分から行こうと思ったわけでは無い。
「馬鹿じゃないの?結局は同じ部屋に居たんでしょう?」
鮫島と同じことを言われた。そんなに馬鹿馬鹿と言わ無くても良いだろう?
「……ねぇ?アタシじゃダメ?」
俺が黙っていると洋世が助手席側に身を乗り出して来た。一々動きが、いやらしい。どうすれば良い?やはり、この顔、凄くタイプだ。
「上書き、して良い?」
ゆっくりと奴の左手が俺の後ろにある窓に付けられ、まるで壁ドンをされているような状況になる。そして、右手が同じスピードで俺の手を首元から外していく。不覚にも心臓が破裂しそうだ。
もう後は分かるだろう?気付いた時には既に、鮫島のつけたキスマークに洋世がキスマークを上書きしていたわけだ。まあ、こんなもの、鮫島は何とも思わないだろうし、恐らく、気付きもしない。
「史も好きにして良いって言ってたし、あんた、今日からアタシの物だから」
嬉しそうなところ申し訳ないが、言わせて貰おう。
「残念だが、俺は物じゃない。洋世の物にもなれない」
俺は覚えたての名前を呼び、奴に言い聞かせたつもりだった。
「じゃあ、付き合って!」
全然引かねぇな、コイツ。
「付き合えない」
「なんでよ?」
首を傾げる姿に俺の意思が傾きそうになったが、なんとか危機を脱しようと俺は取り返しのつかない嘘を吐いてしまう。
「俺は、鮫島さんに片思いをしてるから」
「嘘!絶対に嘘!」
信じようとしない洋世。
「嘘じゃない。さっき、鮫島さんの職業を洋世に聞いたのも、あの人の全部が知りたいからだし、キスマークのことも嘘を吐いた。俺がつけてくれと頼んだ」
これだけ言えば、奴も信じるだろう。全くの嘘だが、罪悪感しかない。これで、俺の吐いた嘘はいくつになっただろうか。ただ、洋世に嘘を吐いたとしても、恐らく、その事実が鮫島に届くことは無い。二人が電話で情報のやり取りをしているところなんざ、見たことが無いからな。
「じゃあ、そういうことだから」
運転手に止められる前に、車から降りようとする俺。しかし、心配は要らなかった。洋世は固まったまま動かず、俺は難なく車外に出ることが出来た。予想以上に外は冷えている。だが、そこに鮫島の姿は無く、俺は置いて行かれたのだと気付いた。
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