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曖昧ワーク⑨

 なるほど、車で帰ってくると置いて行かれるのか。一つ無意味なことを学習した俺は、あの立て付けの悪い裏の戸を開け、我が物顔で階段を降りて行った。  どうやら、鮫島は風呂に入っているらしい。今のうちに奴の職業を暴く、何かを見つけられないだろうか。あの未知の部屋に入るには、まだ難易度が高過ぎる。まずは、あのデカイ本棚に秘密が無いか探ってみようじゃねぇか。  悪い事をしている感覚は無いが、そろりと忍び足で風呂場の横を通り過ぎ、広い場所に出た。壁一面が本棚で、三六〇度移動する長い梯子は安全なのか、見ていて不安になる。まあ、上に行く程、日本語で書かれている本は少なくなっている様だから、梯子を登る必要は無さそうだ。そして、同時に俺は鮫島の職業が分かってしまった。こんなにも沢山の外国語の本があれば分かる。  恐らく、奴の職業は翻訳家だ。  ただ、気になるのが、この一角だ。本棚の下の方、日本人作家が集まっている。しかし、何かがおかしい。この谷川という作家のパーティーには行った事がある。ファンなのだろうか?彼女の新作である「紫陽花」という本も棚に見つけた。他にも計七人の作者の著書が置いてあるようだ。だが、その本たちは作者毎に並んでいるわけでは無い。この並び方に何の意味があるのか知らないが、全て、題名もシリーズも作者も出版社までもがバラバラで並んでいる。  七人の本が何かの法則に従って並んでいるのだ。その謎を俺の頭が解ける筈も無かったが、鮫島の職業は大体分かった。後は証拠の写真を撮れば終わる。スーツの胸ポケットに入っているスマートなデジカメを確かめ、俺は三千万の使い道を考えていた。きっと三千万なんて直ぐに無くなる。真面目に貯めておくか、それとも……。 「……おい、そこで何をしている?」  後ろから、突発的に声を掛けられ、ほぼ無意識に首元を手で隠しながら俺は振り向いた。 「別に──。あんたが風呂から出てくんのを待ってたんだよ」  俺も風呂に入る為だ、ということを付け足せば良かったが、言う間もなく、俺は鮫島に右腕を掴まれていた。 「な、なんだよ?」  また、何かをされるのかと、ビクビクしてしまう。こういう時に鮫島のコミュニケーション能力の欠損を諸に見る事が出来る。嬉しくは無いがな。黙ったままの鮫島に何処かへ引っ張られて行く俺。そして、気付いた時には 「一体、何なんだよ……」  俺はスーツのまま風呂場に立っていた。しかも、独りで。  正確に言うと、鮫島に押し込まれたのだ。奴の行動を理解するまでに、俺の頭の周りを何度も「考え中」という黄色い文字がぐるぐると回り、それが消えるまでに数分を要した。恐らく、「風呂、空いたんで、どうぞ」という意味なんだろうが、そのくらい、ちゃんと口で言わねぇか。いや、言う訳ないか。  少しだけ、ほんの少しだけだが、俺の思考を鮫島が察してくれたことに、嬉しく思ったり、思わなかったりする。俺が強く押せば、意外と奴は心を開いてくれるかもしれない。いいや、別に心を開いて欲しい訳じゃない。俺の未来への道が開ければ、それで万事オーケーだ。そう思い、ニヤリと笑った俺だったが、この後、順序の矛盾から風呂に入るのに手間取ったということは言うまでも無いだろう。

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