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曖昧ワーク⑩
◆ ◆ ◆
「なんだ?」
鮫島がそう聞くのも無理は無い。ソファに仕事と呼ばれることをしながら座る奴の足元に腰を降ろし、俺が奴の顔をジッと見つめていたからだ。濡れた髪に一枚の真っ白なフェイスタオルをかけたまま。
「髪を拭いてくれ」
尚もジッと鮫島の顔を見つめる。
「甘えるな、自分で拭け」
馬鹿か、わざと甘えてるんだろうが。鮫島は一向に真っ白なノートから視線を離そうとしない。
「あんたが拭いてくれるまで、ずっとこのままだ」
軽く風呂から出た瞬間に自分でも拭いたが、毛先にはまだ水滴が滴っている。
「馬鹿なのか?風邪を引くぞ。ドライヤーを使え」
鮫島の指だけが風呂場へ通ずる道を指し示す。
「そうだ、風邪を引く。あんたは俺が風邪を引いても良いって言うのか?」
「だから、ドライヤーを使えと言っているだろう。どんな脅しだ?そんなこと、聞いたことも無いぞ?」
自分でも少々おかしなことを口走っていることには気付いていたが、今更引けない。取り敢えず、奴の懐に入り込むために押して押して押す作戦だ。まあ、成功するか分からないが。しかし、本来、甘えるという行為は俺の意に反する。作戦で無ければ、絶対に意志を曲げたくない。……ただし、稀に血迷う時もあるしかし、今は違う。
「こんなに頼んでるんだから、拭いてくれよ、鮫島さん」
現状は非常に屈辱的だ。呼びたくも無い名前を呼び、見たくも無い奴の顔をジッと見つめる。ただ一連の流れに身を任せるだけでは、上手く行かない。
「はぁ……、お前は何がしたいんだ?」
お、やっと奴がこっちを見たぞ?
「犬の職務を全うしてるんですけど、何か?」
おっと、しまった。思わず、甘えるのを忘れて嫌味ったらしく言ってしまった。
「……もっと、近くに寄れ」
諦めたのか、此方に左手を伸ばしてくる鮫島。そして、ジリジリと奴との距離を詰める俺。
「……っ」
自分で拭いてくれと頼んだわけだが、いざ、鮫島に触れられるとカラダが硬直する。
「なんだ、その顔は」
鮫島にそう言われ、「なんか違う」という顔で奴を見てしまっていたことに気付く。まあ、仕方が無いだろう、なんか違うんだから。もっと、こう、ワシャワシャとされるものだと思っていたのだ。鮫島は俺のことを犬と言うのだから、もっと乱暴に扱うのかと……。何故、あんたは、そんな風に俺に触れるのか。まるで、傷物に触れるみたいな、そんな触り方、するんじゃねぇよ。
「あんたは、そんなに優しく撫でるみたいな拭き方で、俺の髪が乾くとでも思うのか?」
そんな優しい手に、俺の心が揺らぐとでも?
残念ながら、俺の心は俺のモノだ。
拭いてくれと頼んでおいて、こんなことを言う俺を、あんたは笑うのか、それとも、怒るのか。
しかし、結果は、いつもと変わらない。
鮫島は真顔で、淡々と……
「本当にお前は、か……口の減らない奴だな」
淡々と今、何を言い掛けた?ただ、噛んだだけか?自分が、どんな顔で鮫島を見てしまっているのか、分からない。俺の中に存在している、この感情は何なのだろうか。あんたの所為で、俺の感情は迷子になっている。正直、いつも何とも思わないように押さえつけるので、精一杯。そんな感情、あんたなんかに見せてやるものか。俺の意に反して出てきてしまうような感情は、怒りだけで充分だ。
「俺は頭を拭いてくれって頼んだんだ。頭を撫でてくれなんて、頼んだ覚えはない」
奴のヒューマンエラーなんざ見なかった素振りで、強気な態度を取ってみせる。そんな俺の言葉に、黙りこくってスッと立ち上がる鮫島。そして、そのまま、奴は何処かに消えた。ずり落ちてきたタオルで視界を遮られ、奴の気配が動いたことだけしか分からない。
───なんだ、やっと怒ったのか。
きっと、俺は仕事の邪魔だと思われたに違いない。だから、鮫島は俺から逃げ……
「ぬぉっ!何すんだよ!」
タオルの上からドライヤーをかける奴があるか!
下を向いていた所為で、鮫島がドライヤーをセットして、背後に立っていたことに気付かなかった。今更、気配消すスペック使ってんじゃねぇよ。
「……の方が……」
「はあ?」
俺の耳元でドライヤーがゴーゴーと唸りを上げているため、鮫島が何を言っているのか、全く分からない。
「……の方が……って……だ」
「だから、何だよ!」
何故、俺だけが声を張り上げているのか。あんたが小声で喋ることにメリットはあるのか?
「もう一回、言ってくれ!」
大声で、そう言った時には、ついに何も聞こえなくなった。ハラリと床に落下するタオル。俺の両耳を塞ぐ温かい二つの大きな手。ソファに座り直した鮫島が、改めて言葉を発する。
「何度も言わせるな。こっちの方が早く乾くと言ったんだ」
手で塞いだだけでは鮫島は俺の聴覚を完全に奪うことは出来ず、俺にはハッキリと、そう聞こえていた。単なる日常の言葉。されど、今の俺には何もかもが……。
――うるせぇな、俺の心臓。
いや、違う。奴が耳を塞いでいるから、耳の血流の音が聞こえているだけだ。いつかのテレビでやっていた。それにしても、頭を固定するのは卑怯だぞ?
「そんな目で見んなよ」
逸らしたら負けな気がしたが、逸らしても視界の端に嫌でも奴の顔が入ってくる。
「一体、どんな目だ?」
また墓穴を掘った。
「……あー、俺、飯作ろうかな」
綺麗な目だとか、吸い込まれそうな目だとか、表現の仕方は数あれど、素直に言えるわけが無い。上手く言い表せないが、大凡おおよそ上手く言い表せば「嫌いになれない目」だ。
「答えてみろ、どんな目だ?」
たじろぐ俺に鮫島は容赦無い。
「は?何も聞こえない」
口の動きを見て分かるだの何だのと言われたくない。俺は目を固く閉じ、鮫島から逃げ出した。近ぇんだよ、あんた。これで聞こえもしないし、見えもしない。嘘を吐いた。聞こえては居る。俺に話を聞いて欲しいのなら、その手を離せば良い。
「……この馬鹿犬」
「なっ、おい!」
怒りに任せて奴の手を引き剥がそうと、目を開けた瞬間、先程よりも近くに鮫島の顔があった。それこそ、いつでも唇を奪われそうな程に……。いや、俺が奪ってやっても良い。
「聞こえないんじゃなかったのか?」
首を傾げ、冷たい瞳が囁いた。
「……っ」
思わず言葉を失った。心の中では強気だが、外側の俺は小型犬並みの反応しか出来ない。一度くらい此方から攻めてしまえば、奴は少し俺と距離を置くようになるんじゃないのか?
───やってしまえば良いのに、この小心者め!
最近増えた自問自答に、まさか、そう罵られるとは思わなかった。結局、俺もあんたも理由が無けりゃ、動けない。お前が行動に出ないから、俺が出た、みたいな態度で鮫島が動き出す。
「ちょ、何す……」
まんまと先手を越された。
「……んん!……っ」
キスの合間に上手く呼吸が出来ないのは、俺がキスに慣れていない所為と剰りにも荒々しく鮫島が俺の口を塞いでくる所為だ。酸素を求めて開いた口にざらっとした舌を捻じ込まれ、更に苦しくなる。
「ン、ぅ……っ、んんっ」
その舌がまるで、弱い部分を探るかのように俺の口腔の中を動き回る。右側から舌の先端を舐められるとゾクゾクした。自分でも知ることのなかった自らの弱い部分に気付かされる。このままだと、羞恥と窒息で死にそうだ。俺も大概馬鹿である。どうして、嫌だと言わないのか。目的があるから……、そうだろう?そう思いながら、俺は只管、奴からの攻撃に耐えるしか無かった。
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