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混沌クライシス①
【拝啓、鮫島史様 短い間でしたが、お世話になりました】
とある日の朝、目を覚ました時、何故だか俺は、涙を流していた。ひとつ幸いだったのは、その場に鮫島が居なかったこと。別に何かの角に足の小指をぶつけた訳では無い。人は見た夢を直ぐに忘れてしまうと誰かが言っていたが、やはり、今朝の俺もどんな夢を見ていたのか覚えていなかった。俺を泣かした趣味の悪い夢のことなんざ、一生思い出すことは無いだろう。餓鬼の頃に泣いた、あの夢のように。
それが悪夢で無かったとするならば、もしかすると、俺は嬉し泣きをしていたのかもしれない。鮫島の職を暴こうと四苦八苦し、何の成果も得られないまま、一週間が経ち、ついに依頼人と会ってしまうであろう日が来てしまった。しかし、幸いにも鮫島がボロを出し、俺は奴の職業を暴くことに成功する。それが三日前のことだ───。
三日前、俺は鮫島のことを朝から晩まで避けていた。そういう作戦だ。その名も、押してダメなら引いてみろ作戦。その日の朝、俺がいつも通り鮫島のベッドで目を覚ますと、相も変わらず、奴の姿は無かった。此処で奴が寝ている姿など、見たことが無い。未知の部屋に引き籠っているということだけは、何となく気配で分かる。気分がノッていたので、朝からオムライスを作った。自分の分と鮫島の分だ。割りかし、上手く出来た気がする。
自分の分を黙って黙々と食べ進めていると、突然、黒い扉の向こう側で物音がした。
奴が、出てくる……!
いつ身に付けたか分からない感知能力を駆使した俺は食べかけのオムライスにラップを掛け、冷蔵庫に滑り込ませるとリビングを後にした。本来ならば、本日初、鮫島と顔を合わせる瞬間だったが、今日は意地でも会わないつもりだ。そして、俺はいつの間にか日課になった風呂掃除に精を出す。今頃、鮫島はオムライスを発見して、俺に話し掛けたいと思っている筈だ。何故なら……奴のオムライスにケチャップでデカくハートマークを描いてやったからだ。
しかも、縁取りだけじゃ無い。塗り潰しだ。不器用な俺が、縁から、はみ出さずに塗り潰せたと思うなよ?盛大に、はみ出してやった。鮫島の性格からすると、絶対に俺に面と向かって、何かしらの文句を言いたくなるに違いない。だが、今日は断じて会ってやるものか。奴の気配を読み取って、部屋を移動しなければ、と思いつつ、只管に風呂を洗う俺。鮫島が此方に来る気配は無い。しかし、嫌な予感がする。
気配は無くとも、鮫島が来そうな予感がしたのだ。忘れていたが、奴には自らの気配を消す厄介なスペックがある。いや、単純に俺が鈍感なだけなのかもしれないが、それだけは認めたくない。今しがた、風呂場の外でピロピロと洗濯機が鳴いている。ちょうど良い、洗濯物を干しに屋上へ逃げることにしよう。そう思った俺は、脱衣所にある小荷物専用昇降機(人が乗れない小さなエレベーター)に洗濯カゴを乗せ、屋上へのボタンを押した。
毎日が暇過ぎて、暇潰しのために家事を覚えた俺だが、この変な建造物である鮫島宅に屋上があると知ったのは、つい先日のことだ。つまり、洗濯を覚えたのも最近だということになる。鮫島が家事なんざ、教えてくれるわけが無いだろう。勿論、俺に洗濯を教えてくれたのは多栄子さんだ。しかし、俺も洗濯途中、多栄子さんが外に出始めた時には驚いた。この建物には外階段があったのだ。
正面玄関と裏の玄関がある面とは別の面である。まあ、そんなに細かい話をしなくとも、屋上への行き方は分かっただろう。屋根が無いからな、雨の日に上がるのは大変だが、そもそも、雨の日に上がる必要は無い。
「あぶねぇ……」
鮫島から逃げるゲームが作れそうな程、奴の動きが活発になってきた。裏口から出る瞬間、奴が風呂場の戸を開けている音が聞こえたのだ。仕事はどうした、と言いたくもなるが、俺が言えた義理では無い。なんたって、俺は無職だからな。
屋上に上がり、洗濯物を干しながら考えるのは、何故、俺は「鮫島を引っ張ってみろ作戦」をしてしまっているのか、ということだ。俺は、押してダメなら引いてみろ作戦をしていた筈。そうか、俺が無意味にケチャップでオムライスをデザインしてしまったのがいけなかったのか。否、そんなことは無い。あんなヘッタクソなハートマークに引っ掛かる鮫島が悪い。いや、ありゃ、ハートマークじゃねぇ。耳が生えた丸……、そうだ、クマだ。ありゃ、クマだ。クマの何が悪い?どうしても、クマに対して文句が言いたいってんなら、まあ、仕方が無いが……。
洗濯物を干し終わり、外階段を降りながら、ふと思う。奴はオムライスを食ったのか?と。別に食っていなくとも良い。もしかすると、いつも以上に不味く出来ていたかもしれないし。感想が聞きたい訳じゃない。ただ、少し、気になるだけだ。気にはなるが、後になれば分かるだろう。食いたくなければ食わねぇだろうし、不味ければ食わねぇだろうし、どちらにせよ、食ってない方に俺は賭ける、一人でな。そう思った時には、既に十二時を過ぎていた。家事をしていると、意外と早く時間が過ぎるものだ。この家は広いからな、尚更掃除には時間が掛かる。
一通り掃除を終え、俺が掃除機の散歩から帰ってきたのは午後三時頃だった。リビングの一角、シンクに置かれた空の皿を見て、一瞬だけニヤけた顔。それを抓って止めるのは、一人の賭けに負けた俺だ。無意識のうちに皿を洗い始める俺の手と、無意識のうちに視線を一点に送る俺の目。
何故、鮫島は自分の寝室で眠らないのか。まあ、その理由は知っているも同然だ。俺が使っているからでは無い。彼処まで、奴は辿り着けないのだ。だから、奴は俺が皿を片付けている片隅で、リビングのソファにうつ伏せで倒れているのである。
皿を水切りかごに置き、昨日掃除したばかりの床暖房に腰を下ろす。丁度、鮫島が眠っているソファの下だ。此方を向いて眠っている奴の顔は非常に疲れているように見える。一体、屋内でどんな仕事をすれば、こうなるのか、皆目見当もつかない。
「はぁ……」
奴の顔を見ながら、溜息を吐く。鮫島の意識が無いのなら、これは顔を合わせたとは言わないだろう?
「黙っていれば、か……」
呟いたが、途中でハッとして、口を閉じた。
───今、俺は何を言おうとした?
モヤモヤする。気に食わない。言おうとしたことも、無意識に鮫島の顔に見入ってしまっていたことも、全て忘れてしまいたい。この世界から脱却したい。
転がっていた黒いクッションを抱き抱え、今度は俺が丸くなって床に転がった。目を閉じ、その他全てをシャットアウトし、自分だけの世界に入り込む。そのうちに、うつらうつらと眠気に誘われ……。
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