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混沌クライシス⑥

   ◆ ◆ ◆  今日は珍しく、洋世の姿は無かった。徒歩で会場まで向かうらしい。鮫島の後ろを歩きながら、早く着かないのか、と俺は焦っていた。あまり時間を要さない車と徒歩の違い。まるで、焦らされているようだ。スーツの胸元にそっと手を当て、スマートなデジカメと結局使わなかった一万円札が、ちゃんと内ポケットにあるかを確認する。勿論、二つはそこに存在していた。 「なんで、今日は歩きなんだ?」  聞かずにはいられなかった。先程もだが、久しぶりの会話は、やはりギクシャクしている。 「洋輔は他の仕事で忙しいし、歩いて行ける場所だからだ。お前も来たことがあるだろう?」  遠くの高いビルを指差す鮫島。確かに俺も来たことがある。選りにも選って、何故、此処なのか。俺が一番最初に連れてこられた場所だ。 「覚えてないな」  嘘を吐いた。ずっと吐き続けてきた嘘だ。あの時、酔っ払いのフリなんざしなければ、俺は嘘を吐き続ける必要も無かった。あんたの、あんな表情も見ることは無かったんだよ。 「そうか」  会話は終了。ホテルの入り口に着いても、ロビーを進んでエレベーターに乗っても、俺と鮫島は口を開くことが無かった。 「これを着けておけ」  鮫島は何も言わずにゲスト用の名札を俺に渡してきたが、俺には幻聴が聞こえていた。 「あまり遠くに行くな」 「ああ、分かってる」  たった、それだけ。これが、俺と鮫島の最後の会話。鮫島は、また俺を独りにして、何処かに消えた。広い会場の中、居場所は分からない。あんたに同じ言葉を言っておけば良かった。もっと、──と言っておけば良かった。 「はぁ……、行くか」  さて、仕事を終わらせよう。前回、俺はパーティーに参加しなかったため、三千万の男が居たかは分からないが、恐らく、奴は今回、会場に居る筈だ。歩き回っていれば、奴の方から寄ってくるだろうか?そんなことを考えながら、会場内を歩き回ってみたが、女性も三千万の男も寄っては来なかった。  居ないのだろうか?  会場を抜け出し、ロビーに向かってみる。しかし、其処にも男の姿は無かった。さすがに、焦りを感じ始める。結局、迷い迷って俺が辿り着いたのは、何階だか忘れたが、部屋が、ずらりと並ぶ廊下だった。エレベーターから降りた瞬間、声が聞こえたのだ。電話をしている声。三千万の男は角を曲がった所に居る。 「先程、奴の飼い犬を見かけたので、そろそろ証拠を持ってくる頃でしょう。大スクープですよ。これで作家も鮫島も終わりです」  ドキリとした。鮫島が終わり?一体、どういうことだ?  デジカメを握り締めながら、慌ててエレベーターを呼び戻す。一旦、此処から離れて考えるべきだ。いや、考えるも何も無い。此処に入っているデータは全て抹消すべきだ。俺は、なんて馬鹿なことをしようとしていたのか。頭が悪いにも程がある。ちゃんと考えれば分かっただろう?自分が鮫島を売ろうとしていたことに。  いつの間にか、三千万の男の声が聞こえなくなっていた。間に合わない。データのカードだけをデジカメから抜き出し、近くにあった鉢植えに埋め込んだ。 「ああ、鈴木さん。こんな所にいらっしゃったんですか。探しましたよ」  とんだ嘘吐きだ。まあ、俺も同じようなもんだが。角を曲がってきた三千万の男に見つかった。 「俺は鈴木じゃない」  丁度、戻ってきたエレベーターが後ろで開いたが、俺はそれに乗らず、奴と向き合うことにした。 「なら、なんて……」 「単刀直入に言わせて貰うが、これは返す。鮫島さんの職は分からなかった。俺には無理だ」  奴の言葉を遮り、半ば押し付けるようにデジカメと一万円札を返す。男は真顔でそれを受け取った。これで白紙に戻……。 「それを何と言うか、知っていますか?」  デジカメと一万円札を懐に仕舞う男。 「は?」 「失敗と言うんですよ」 「だから、なんだ?」  人の失敗を笑いたいとでも言うのか? 「あれ?言ってませんでしたか?失敗したら、それに見合った金額を返して頂きますと」  惚けたような顔をする。 「おい!聞いてねぇぞ!」  怒りに任せ、男の胸倉を掴み、上から睨み付けた。なんて、奴だ。 「一千万、あなたに払えますか?」  顔色ひとつ変えず、奴が淡々と言う。まるで、隠したデータを出せと言われているようで、俺を悩ませる。 「俺が無職だってこと、知ってるよな?」  ここで弱気になっても仕方がない。強気で奴を只管、上から睨み付ける。 「知っていたから、仕事を持ち掛けたに決まっているでしょう?あなたが一千万を返せないことも知っています。だから、サポーターを呼んであります」 「サポーター?」  長々と喋る男にイライラしながら尋ねる。 「最後のチャンスをあなたに与えても良いんですが、再度、仕事をやる気は無いんですよね?」  背筋がゾクリとした。奴が俺を睨み返してきたのだ。今なら、まだ引き返せる。もう一度やらせてくれと懇願すれば、失敗を取り消すことが出来る。しかし、俺の中に「鮫島を売る」という選択肢は無かった。やっぱり、俺はあんたが傷付くところなんざ見たくない。 「俺には出来ない」  意思は固まった。俺の手が緩んだ隙に男が、俺から少し距離を取る。 「そうですか……、残念です」  そう言って、コンコンッと近くの部屋をノックする三千万の男。何が起こるのか、全く予想のつかない現状に俺は突っ立っていることしか出来なかった。次の瞬間、俺は息を呑んだ。 「……っ」  奴がノックした部屋の中から、屈強なスキンヘッドの男が二人、スッと姿を現したのである。サングラスの奥、一体、どんな顔をしているのか。 「この二人を満足させられたら、お金はチャラにしましょう」  すれ違いざま、三千万の男が俺の肩を叩きながら小さく呟いた。  そのまま、奴が去って行く。 「おい!ちょっと待てよ!そりゃ、どういう……」  どういう意味だ、と尋ねようと後ろを向いた瞬間、背後から両腕を掴まれ、無理矢理、部屋に引き摺り込まれた。 「くっそ!離せ!」  暴れてみるが、敵うわけも無い。間髪入れずにベッドの上に仰向けに転がされ、一人が俺の両腕を拘束し、一人が俺の服を乱暴に脱がせていく。両足の上に乗られている所為で、全く身動きが取れない。 「っ、やめろ!」  一言も言葉を発しないまま、唇が俺の身体の至る所を這っていく。今、俺の中には憎悪と嫌悪しか存在しない。首筋に付けられる、いくつかのキスマークも気持ちが悪くて仕方がなかった。 「そんなところ、触ってもなんともねぇよ」  そんな俺の言葉にピクリと反応した足元の男。そいつに胸の突起を舐められたが、本当に何とも思わなかった。ただ、気持ちが悪いだけ。不思議なのは、自分が意外と冷静だということ。怯えることも無く、ただ男からの行為を受けている。もう、俺の頭は諦めているのかもしれない。帰る場所も失うものも無い。今更、何を怖がるのか、と。 「……っ、人の身体に変なモノ塗るんじゃねぇよ!」  突然の冷たさに、ググッと腕を引っ張ったが全くの無意味だった。気付いた時には俺の服が全て床に転がっており、ヌルヌルするよく分からない液体を至る所に塗られ、俺はあられもない格好をさせられていた。そして、そのまま──。

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