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混沌クライシス⑨
◆ ◆ ◆
「起きたのか?」
気配に気付いたのか、俺に背を向け、ベッドに腰掛けている鮫島が首だけを此方に向けて尋ねてきた。その背中に刻まれた引っ掻き傷と俺の腰の怠さが、行為の激しさを物語っている。今になって、羞恥が込み上げてきた。俺も鮫島に背を向けてやる。しかし、直ぐに引き返すことになった。
「おい、拝啓、鮭島様って、誰のことだ?」
「さけ……、はあ!?」
重い身体を動かして、鮫島の横まで這って行き、下から見上げると、奴の手にはあの手紙が握られていた。
「本当にお前は大馬鹿だな。今度、小学生用のドリルを買ってやろう」
上から本当に見下されている。なるほど、大事な場面で、俺は漢字を間違った訳だ。
「うっせぇな!大きなお世話だ!おいっ、こら!返せ!」
精一杯手を伸ばしたが、まったく届かず、余裕綽々な奴の右手に逆に頭をぽんぽんとされた。非常にムカつく。
「返す訳がないだろう?額縁に入れて飾ってやる」
真面目に言っているのか、飾るための壁をまじまじと見つめる鮫島。
「待て!やめろ!それだけは、絶対にやめろ!」
邪魔臭い奴の手を強く払い、身体を起こして本格的に鮫島から手紙を奪い返そうと試みる。自分でも少し乱暴だとは思ったが、体当たりをするように勢い良く、鮫島をベッドの上に押し倒した。どうだ、鮫島さん!あんたの意識がある時に俺もあんたを押し倒してやったぞ?鮫島の上に馬乗りになり、内心、そんなことを思った。しかし、無意識に口角が上がりそうになった瞬間、俺の表情筋は変に引き攣った。
「……あんた、どうして、そんな顔をしてるんだ?」
見ているこっちの心臓が、ギュッと絞られたようになる。
「そんな顔?俺は、一体どんな顔をしている?」
不思議そうに尋ねる鮫島。自分でも気付いて居ないのか?
「どんな、って……、ホッとしてるような、かと言って嬉しそうでも無く、悲しそうな……」
俺に説明させんなよ。初めて見たんだよ、あんたのそんな顔。それは弱っている表情だろう?
確かに、俺は一度、鮫島の弱った表情が見たいと思ったが、違う。俺が見たかったのは、今のあんたがしているような、そんな顔じゃない。
──苦しくなる。
「そうか」
鮫島の反応は意外とあっさりとしたものだった。軽く上半身だけを起こし、下から俺の顔を覗き込んでくる。既に普段の表情だ。
「正直に言うと、俺は錯乱をしていた」
鮫島が静かに続ける。
「え?」
俺は耳を疑った。何に対して錯乱したのか知らないが、そんな言葉が鮫島の口から出てくるとは思わなかったのだ。
「お前の所為だ」
変わらぬ声音が、理不尽なことを言う。要約すると、つまり、俺が居なくなって、心配して錯乱したと?
「……」
全く、返答のための言葉が口から出て来ない。もたもたしている間に伸びてきた左手が俺の頬に添えられた。
「ただ、お前が戻って来て、何よりだと思った」
直ぐに意味を理解出来ず、俺の心中はまごまごしていた。
「なんで、そんなことを言うんだ?」
いや、寧ろ、何故俺は鮫島に理由を問うている?奴が遠回しな言い方をするからか?
疑問の言葉を絞り出す瞬間に、俺は鮫島が「お前が戻って来て、良かった」と言ったのだと理解していた。問うた訳が、自分でも分からなくなる。
「お前、あの部屋を見ただろう?」
突然の話題変更にギクリとした。
「は?何のことだ?」
白を切ろうと思ったが、鮫島に特段、怒った様子は無い。そして、今日に限って、俺の感は冴え渡っていた。
「あんた、わざとだろう?わざと、あの部屋を開けておいたんだな?」
してやられた。ただ、もう一つだけ、言いたいことがある。勘が冴え渡っていたため、分かってしまったのだ。
「本当はあんた、俺に気付いて欲しかったんじゃないのか?だから、俺を連れ回して居たんだろう?」
優位な立場に立った感覚に陥り、珍しく俺はジッと鮫島の目を見ることが出来た。しかし、何も返事が返ってこない。
「ちゃんと答えねぇか!」
俺が酷い目に遭ったのは、金に目が眩んだ自分が悪かったのだと分かっている。だが、奴にも落ち度があると思い、黙ったままの鮫島に、まるで説教をするように言ってしまった。いや、逆に良かったのかもしれない。奴が重たい口を開いた。
「俺は……、お前も知っている通り、ゴーストライターだ。書いた作品は、俺の作品であって、俺の作品では無い。世に出る時は自分の作品では無くなる。その点、それは逆に気が楽だった」
俺の目を真っ直ぐに見つめたまま、淡々と鮫島が続ける。
「だが、最近になって、俺は文を書くこと自体が愉しいと感じるようになってしまった。作品を書いて、眠り、起きると、そのギャップに苦しくなるんだよ」
冴え渡っている俺の頭は次々と意見を出してくる。鮫島が得意としているのは、恋愛モノだったはずだ。ということは、作品の中では、可愛いらしい女性とか、大人っぽい魅力的な女性に出会えるが、書いて、寝て、目を覚ました時、自分の家の中には可愛くもなんともない男がいる、ということに気持ちが落ち込むということか?
「それは……、俺が悪いのか?」
恐る恐る、尋ねてみる。
「何故、お前の思考はそうなる?」
ほんの少しずつ、優位な立場を奪われつつある気がした。
「あんたの話を聞いていると、そんな感じがしたんだから、仕方がないだろう?違うのか?違うんだったら……」
「おい、人の話は最後まで聞け。誰が、お前が来てからだと言った?」
「は?」
頬から移動した手が俺の腕を掴み、ググッと強く引いてくる。
「お前が居るから、俺は耐えられているんだよ」
答えになっているようで、なっていない。そんな、珍しく素直な声が、鮫島の中から聞こえた。流れに身を任せていたら、見た目以上に厚い奴の胸板に耳を押し付ける形になってしまったのだから、仕方がない。
「俺は、近いうちにこの生活から脱する。作家たちにも話をつけようと、今まで祝宴に参加してきた」
心地良い声に、また眠気が襲ってくる。髪を梳く手は、俺を眠りの世界へ落とそうとしているに違いない。
「期限付きで良い」
賞味期限の話か?駄目だ、上手く考えられない。
「──お前には俺の傍に居て貰いたい」
なんの脈絡も無い、そんな突然の言葉。あんたの傍に?違う。
「……行きたくても、何処にも行けねぇよ」
ボソリと呟くのは、照れ隠しなんてものでは無い。眠気の所為で、俺はあまり意味を考えずに言葉を聞き、発言していた。今が朝なのか、昼なのか、夜なのか、全く分からない。
「お前って奴は本当に……」
「うるせぇよ……」
鮫島も"あの時"はこんな感じだったのだろうか?と思いながら、俺はうつらうつらと眠りの世界へと落ちて行ったのだった。
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