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混沌クライシス⑩
◆ ◆ ◆
「あのオムライス……」
リビングのソファに座り、思い出したかのようにボソリと鮫島が呟いた。
「え?は?」
丁度、覚束ない手付きでジャガイモの芽を取っていた時だ。オムライスのことなど忘れていた俺は、突然のことで動揺し、握っていた包丁を落としそうになった。
「お前が作ったオムライス……」
なにやら、難しそうな顔をしている。あのオムライスに何か気に入らないところがあったのだろうか?いや、思い出した。
「あれは、だな!なんかのマークとかじゃ無くて、たまたまクマみたいな形にケチャップがかかった、というか」
包丁を握り直し、作業に集中しようと試みる。なんのために描いたか忘れたが、ケチャップをハート型にしたんだったな、そういえば。
「クマ?俺はてっきり……」
脳内で必死に形を思い出そうとしているのか、鮫島が何処か遠くを見ている。
「てっきり?」
まさか、ハートマークだとか、言うんじゃねぇよな?まあ、気付いたのなら、それはそれで良いのかもしれないが。
「──キツネだと思っていた」
シンクに手に持っていたジャガイモが転がる。カチンときた。
「あ、あんたなぁ!」
まな板の上に包丁を置き、適当に手を洗って、ツカツカと鮫島のもとまで出向いた。
「なんだ?」
俺を見上げる顔は、相変わらず冷静そのものだ。
「ちょっとくらい、気付けよ!」
ハートマークだと気付かれたらマズイのは俺の方なんだが、頭に血が上っている所為か、少々発言が血迷った。
「なんのことだ?」
本当に分からない、みたいな言い方をするから、尚更ムカつく。
「……っ!あんたのことなんか、大嫌いだ!」
勢い任せに奴の胸倉を掴んだ。
「嫌いで結構。俺もお前が嫌いだ」
対抗してか、鮫島も俺の胸倉を掴んできた。変わらない無頓着な表情でな。
「クソッ!覚えとけよ?俺の気が変わることなんざ、一生ねぇんだからな!」
つまり、あんたに惚れることは一生無いってことだ。
「ほう、そうか」
また、鼻で笑いやがって、ムカつく!
「何しやがんだよ、引っ張るな!」
俺は鮫島の胸倉を掴んでいるだけだが、奴は俺の胸倉を掴んで、更に力強く引っ張ってくる。
「お前の気が変わるところを間近で見ようと思ったんだよ」
くそ、趣味の悪いやつめ。俺の気持ちをいつでも変えられるというわけか?どっから、来てんだよ?その自信は!
「あらあら、喧嘩?」
突然、玄関の扉が開き、多栄子さんが入ってきた。
「いや、あの、これは……」
慌てて、俺は鮫島の胸倉からパッと手を離した。あんたも離せよ、と鋭い視線を鮫島にも向けるが、奴の手が緩む気配は無い。
「そうよねぇ、まあ、たまには打ぶちたくもなるわよねぇ。そんな無表情を毎日見せられてたら」
満面の笑みで多栄子さんが言い放った。
打ち……。
思わず笑いそうになった。
「スエキくん、うちに泊まりに来れば良いのよ。洋双も栄双も喜ぶと思うし、私も」
「駄目だ」
俺の胸倉を掴んだまま、鮫島がボソリと言った。
「あらまあ、珍しい!昔は自分のペットを私に押し付けて来たのに」
そう言って、口を尖らせる姿はとても魅力的だが
「ペ、ペット……」
笑えない。
「あ、ごめんなさいね」
俺に気付いたのか、にこやかに謝る多栄子さん。
「いくら多栄子でも、許せんな」
いや、あんたに謝ってんじゃねぇだろうよ?
やっと、胸倉を解放され、ホッとしながら首元をさすっていると、鮫島にグイッとその腕を掴まれ、多栄子さんのもとへと連れて行かれた。
「コイツはペットじゃない」
驚いた。珍しく、鮫島が真面なことを言った。同じことを目の前の多栄子さんも思った筈だ。そんな表情をしている。
「コイツは俺の下僕だ」
んだよ!前より扱いが悪化してるじゃねぇか!
ショックの剰り、開いた口が塞がらない。
「まあ、間違ってはいないのかもしれないけれど、可哀想だから、もっと可愛い言い方をしてあげたら?」
意外な発言をする多栄子さん。
「例えば、召使いさん、とか?」
良い案思いついちゃったみたいな顔で多栄子さんが言うが、その意見に対して鮫島は「いや、下僕で充分だ」と冷たい口調で言い放った。そして、また奴は逃げるように例の部屋へと姿を消した。
「スエキくん、冗談だからね?鮫島くんがあんな風に言うの珍しいから、ついつい、からかいたくなっちゃって」
いや、始終からかわれてたんは、俺だけですけど?まあ、この二へッと笑った顔に罪はないか……。
「別に気にしてませんよ。あ、多栄子さん、丁度良かったです。ジャガイモの芽が上手く取れなくて……」
別に趣味では無いが、料理は出来て損は無いらしいからな。やり始めたからには頑張ろうと思ったのだ。
「あー、これはね。ピーラーの横に付いてる、此処を使ったら簡単に取れるよ。無理して包丁を使わなくても良いの」
キッチンに移動し、多栄子さんが引き出しからピーラーを取り出す。
「これは、簡単ですね。ありがとうございます」
着実に料理の腕を上げられている錯覚に陥る。
「ねぇ、スエキくん」
「はい、なんでしょう?」
黙々と芽を取る剰り、普段使わないような口調になってしまった。
「だいぶ先の話なんだけど、今度うちの生徒さんたちの展覧会に一緒に行って貰えないかな?」
後ろの冷蔵庫を開けながら、多栄子さんが言う。
「あ、その話、俺も聞こうと思ってたんですよ」
しれっと答えているが、内心、「しまった、忘れていた」と思っていたのは、内緒だ。
「それは、イエスってこと?」
なんなんだ、その可愛い言い方は!
「まあ……、そうなりますね」
馬鹿な俺は、告白された後のような気持ちになった。
「ありがとう!そうだ、冷蔵庫にチーズケーキ入れといたから、あとで食べて?ちゃんと、鮫島くんにもあげてね?」
「あ……」
思わず、間抜けな声が洩れた。多栄子さんは、鮫島さんにも俺にも同じことを言っている。やはり、ペットとして認識されていたわけでは無かったのか。
「どうしたの?」
「い、いえ、なんでもないです。分かりました、あとで鮫島さんの口にも放り込んでおきます」
多栄子さんに顔を覗き込まれ、狼狽えたが、持ち前の柔軟さで切り返した。いや、嘘だ。今日は、たまたま良い切り返しが出来ただけ。
「任せたぞ!スエキ隊員!」
「ら、ラジャー!」
合っているのか、合っていないのか分からないが、去っていく彼女の背中に元気良く返事を返しておいた。去る、と行っても多栄子さんは玄関の扉の前で一度ピタリと動きを止めた。
「あ、そうだ。忘れてたけど、鮫島くんが……だって……らしいよ」
「え?」
何故、小声で話すのか。大事な部分が全く聞こえない。なんたって、この部屋はただッ広いからな。
「今、そっちに行きます」
こっちに来ようとしていた多栄子さんを止め、仕方なく、俺が移動する。
「ふふふ、鮫島くんがね、スエキくんのオムライスが美味しかったって言ってたらしいよ?」
「なっ!え?それ、誰から聞いたんですか?」
驚いて大声を上げそうになったが、多栄子さんに合わせて、俺も小声になった。
「洋輔くんなんだけど、知ってる?」
「マジですか……」
まさか、洋世と鮫島がそんな話をするとは……、意外だ。多栄子さんが洋世と繋がっていたことも意外だった。いや、義理の親子なのだから、普通なのか?
「来週の料理教室もおいでね?待ってるから」
「あ、はい」
始終ニコニコしたままで、多栄子さんは鮫島宅から自宅へと帰って行った。今更だが、多栄子さんといつもと変わらずに喋ることが出来て良かったと思う。どんな顔をして会おうかと思っていたのだ。様々な理由があれど、鮫島に俺が、だ、抱かれたという真実は変えようのないものだし、多栄子さんは一応、鮫島の義母なわけだからだな……。
取り敢えず、ホッとした。にしても、あの人は何故、面と向かって感想を言わんのか!いや、しかし、面と向かって「美味かった」と言われたとして、俺はどんな反応を返せば良いんだ?
コンロの前に立ち、暫く考えたが、上手い答えが見つからず、丁度鍋の湯が沸騰したため、考えるのを止めた。無意味だ。ただ、その代わりに一瞬、俺の脳裏に昨夜の鮫島の姿が浮かんで来た。
行為の最中に何の恥ずかしげもなく、あんな言葉やこんな言葉を俺の耳に低い声で吹き込み、挙句の果てには俺の意識が無くなるまで獣のように俺をメチャクチャに……、思い出すだけで何だか落ち着かなくなる。まあ、確かに、お陰でスキンヘッドにヤられたという感覚は薄れたわけだが。何故だか、モヤモヤする。
「んなあ!ムカつく!」
そして、今日も独り、キッチンで暴れる俺であった……。
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