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妄想リリィ③

   ◆ ◆ ◆  お前は鈍感だ、と言われることがある。何が鈍感なのか、分からない。鮫島が怒っているということは分かったのだから、鈍感では無い筈だ。だが、奴が怒っていようと俺は機嫌取りをするつもりは無い。鮫島の怒りの理由が分からないから、此方もイライラする。だから、こうやって一人、意味も無く、キッチンで大量の玉ねぎをみじん切りにしてしまっているのだ。今、気が付いた。  くそっ、涙が出る。まな板からボウルに移していたのに、切っている量に気付かないなんざ、馬鹿か、俺。こんな大量の玉ねぎ、どうすんだよ。認めたくはないが、多分、凄くぼーっとしていた。指を切らなかったのが不思議なくらいだ。危なかった、と深呼吸をする。みじん切りになった玉ねぎの山を見つめ、鮫島が居るであろう部屋の黒い扉を見つめ、最後に壁に掛かっている時計を見つめた。  午前、七時四十分。鮫島の家にはテレビというものが無い。ラジオも無い。あるのは、レコードとそれを再生する機械だけ。その所為で、広い部屋に響くのは微かな生活の音だけになる。声を発すれば、それも一つの音になるが、一人でぺちゃくちゃと喋っていたら変な奴になるだろう?  まだ始まったばかりだが、今日も静かに刻々と一日が終わっていくのだろうか。こんな平凡な日常に飽きてしまった、と言ったら、きっと鮫島は怒るだろうな。すでに機嫌が悪いのに、更に機嫌を悪くして、どうする?  どうしようもないが、非日常というか、そろそろ仕事をしようかと思ったのだ。鷹宮さんが言っていた。社長が事務所に戻って来て良いと。それは職と共に寮という住居も手に入れることを意味する。安定した職では無い。そんなこと、十分承知だ。それでも、自分はあの世界に戻りたいと思っている。しかし、鮫島には何て説明すれば良いのだろうか。 「もう自分の仕事に戻るから、さようなら」って?それとも「あんたとは暮らしていけないから、さようなら」って?  駄目だ、残酷な言葉しか見つからない。自分の頭の弱さと語彙の無さに嫌気がさしてくる。それが原因で泣いている訳では無いが、玉ねぎの所為で、そう見える。  この憎っくき玉ねぎめ!ドライカレーにしてやる!あと、ハンバーグ。  答えが出るまで、今日は静かにしていようと決めた。そう思った矢先、鮫島が部屋から出てきた。ノートを一冊だけ持ち、ソファに座る。相変わらず、ペンを持っていない。真っ白なページに視線を落としては、ジッと見つめている。  ずっと、鮫島は何をしているのかと考えていたが、最近、やっと謎が解けた気がする。気がする、というのも、すべて俺の憶測だからだ。奴は小説の話を考えているんだと思う。ノートに何も書かない理由までは分からないが。 「なんだ?」  こちらの視線に気付いたのか、ノートを見つめたままの鮫島が久しぶりに言葉を発した。 「別に、何も無い」  別にジッと見たくて、見ていた訳では無い。視界の端で動かれれば、何をしているのか、と無意識にそちらを見てしまうものだろう?人とは、そういう生き物だ。あんたも同じだろう?断じて、あんたに気付いて欲しかった訳では無い。断じて、あんたに何かを言ってもらいたかった訳でも無い。しかし、黙ってもいられなくなる。 「あんた……、辛いの食える人?」  鮫島の答えがイエスでもノーでも、うんと辛くしてやろうと思っていた。 「不味くなければ、なんでも」  また、曖昧な返事だ。それはイエスなのか、ノーなのか。機嫌は直ったのか? 「なんでもってのが、一番困る。あんたの好物って、なんなんだ?」  別に聞かなくても良い質問だった、と後悔した。 「お前に教える義理は無い。口では無く、手を動かせ」  奴の機嫌は悪化するばかり。 「動かしてるだろうが!俺はな、あんたとちゃんと話そうと思って……」 「何故、話す必要がある?俺に何か隠し事でもあるのか?あるのなら言ってみろ、聞いてやる。無いなら、黙ってお前の仕事をしろ」  普段、あまりベラベラと喋らない鮫島が息を吐く暇も無く喋り続けた。俺があんたに嘘を吐いているのは確かだが、剰りにも酷い言い分だ。 「あんたの怒ってる理由が、分かんねぇんだよ!帰ってきてから、ずっと、あんたのことばっか考えてんのに、全然分かんねぇんだよ!」  苛々に負けて、怒りに任せて言い放ったが、時間差で自分も発言の意味を理解した。慌てて、料理の方に顔を背ける。今更だが、俺は本当に馬鹿なのかもしれない。顔が熱くなる。これじゃあ、まるで……。 「お前、今、何て言ったんだ?」  姿を見ることが出来ず、声だけが聞こえる。嘘だろ?聞いてなかったなんて、言わないだろう? 「なんも言ってねぇよ!独り言だ!」  何も入っていないフライパンをガチャガチャとコンロの上で動かしながら言う。 「たとえ独り言だろうが、何かを言っただろう?」  気配で、鮫島が立ち上がったのが分かった。 「あんた、本当にふざけるな!」  他人の上げ足を取りながら、羞恥の渦に落とすのは辞めて欲しい。 「お前が、そんなことを言うなんて思わなかったんだよ」  やっぱり、分かってるんじゃねぇか。っというか、そんなこと、ってなんなんだよ。 「あんたに言ったんじゃない!絶対に!」  空のフライパンに視線を落としたまま、意地でも鮫島の方なんざ、見てやるものか、と思った。そうだ、料理をしよう。料理をして、全てを忘れよう。  慌てて、木ベラを手に取ったが、何を作ろうとしていたのか、混乱していて、分からなくなる。 「ずっと、俺のことを考えていたのか?」  薄れていた鮫島の存在が、瞬間移動したかのように俺の真横に現れた。 「うるせぇな、二回は言わねぇんだよ!」  勘違いをしている。俺もあんたも。 「馬鹿だな。それを肯定していると云うんだ」  ボソリと耳に吹き込まれた。言葉通り、俺を馬鹿にしているような声音だ。 「わ、悪いのかよ!別に俺が何を考えようが自由だろうが!これは想像の自由だ!」  小さく木ベラを上に挙げ、まるで自由の女神のように立ってみせる。ただ、一瞬しか見えなかっただろうな。下手すれば、一瞬も見えなかった。鮫島に木ベラを持った手を掴まれ、グッと強く引き寄せられたからだ。 「いっ、何すんだよ!」  カランカランと床に木ベラが落ちる。なんという怪力なのか。引き摺られるような形で、リビングのソファまで連れて行かれ、俺は力任せにうつ伏せになるように投げられた。  後ろを取られたら、終わりだ!  分かっては居た。だから、必死に起き上がったのだが、時は既に遅し。 「お前のは想像では無く、妄想だ」  気付いた時には、鮫島に耳元で囁かれ、後ろから羽交い締めにされていた。

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