「妄想なんてするわけないだろうが！冷たい手で触んじゃねぇよ！離せ！」 　潜り込んできた鮫島の冷たい手がシャツの下を自由に動き回る。ちゃんとエプロンをしていれば良かったと思った。そうすれば、少しは奴の動きを遮ることが出来たのに。今日は、偶々ぼーっとしていた所為で、エプロンを忘れたのだ。それもこれも、全ては鮫島の所為。 　全部、あんたの所為だぞ？と、首を限界まで回して、鮫島を恨めしい目付きで睨みつけてやる。しかし、奴と目が合うことは無かった。 「っ……！それ、痛ぇからやめてくれって言っただろうが！」 　痛みに悶える。鮫島に変な噛みグセがついたらしい。人の肩を噛んで、何の得になるのか。 「言われたかもしれないが、頼まれた覚えはない。別に俺がお前に何をしようが、俺の勝手だろう？」 　なんつー屁理屈を言いやがるんだ？ 「ぬぉっ！」 　まさか、自分の体が浮くとは思わなかった。その怪力、卑怯だ。背中をソファに打ち付けたが、仰向けにされたまま、動けない。鮫島が俺の両足に乗っている所為もあるが、奴が俺の胸を右手で押さえつけている所為で身体を起こせないのである。 　俺は鮫島のことを猫みたいだと言ったが、とんだ勘違いだ。同じ猫科でも、この人は……百獣の王、いや、この俊敏さは、チーターか。どちらにせよ、肉食獣だ。このままだと昼夜問わず鮫島の食い物にされちまう。既に俺の右の耳朶は狙われている。 「……嫌だ、やめろ」 　身体は動かなかったが、ダメ元で言葉を使い、抵抗してみた。また、「嫌なら逃げ出せばいい」と言われると思ったのだが、俺の目がおかしくなければ、上から俺を見下ろしている鮫島は黙ったまま、グッと何かを我慢しているように見える。暫く黙っていた鮫島が、何かを言おうと口を開いた時だった。 「あらあらあら、また喧嘩してるの？本当に仲が良いのねぇ」 　姿は見えないが、多栄子さんの声が聞こえてきた。 「多栄子……、誰を連れてきたんだ？」 　俺の上で会話が成り立つ。いや、正直に言うと、成り立っていない。あんた、多栄子さんの後ろに幽霊でも見ちまったんじゃねぇのか？まあ、俺には、あんたしか見えていないが、それを誰の所為とは言わねぇよ、誰の所為とは。 「来る途中、道端で酔っ払いに絡まれてたから、助けて連れてきたのよ」 　なるほど、見た目より多栄子さんが強いということが分かった。本当に一体、誰を連れてきたのか。そもそも、女か、男か。 　くそっ、退けよ！鮫島さん！ 　ググッと無理矢理、身体を起こそうと試みたが鮫島の力の前では無意味だった。 「ほら、こっちに来て。大丈夫、あの人は鮫島くんって言って、ややこしいから説明しないけど、結論から言うと私の家族だから」 　多栄子さんの言葉を聞きながら、鮫島がずっと一点を見つめている。 「お名前は？」 　優しく問い掛ける多栄子さん。 「さ、サクノです」 　震える声が答えた。 　へぇ、サクノか。奇遇だな、俺の家族にも……。 「さ、サクノ！？」 　離してくれ、と必死に頼み、鮫島の下から抜け出す。 「こんな所で何してんだ？」 　慌てて、サクノに駆け寄った。 「お兄ちゃん！何って、こっちが聞きたいよ！すっごく、心配してたんだよ？」 　二重の大きな目が瞬きを繰り返す。目尻の長い睫毛が重たそうだ。 「え？スエキくん？」 　多栄子さんが、俺とサクノの顔を交互に見つめ、はてなマークを浮かべた。 「あ、多栄子さん、ありがとうございます。妹のサクノです」 「あ、妹さんなの！？モデルさんみたいで、可愛いわね」 　そう、サクノは本当に可愛い。兄馬鹿だと言われたり、シスコンだと言われることが度々あるが、サクノは可愛い。道を歩けば、一日に何度もスカウトマンにつかまり大変危険だ。低い位置で二つ結びにした髪の先はクルッとカールしている。原宿系ファッションと呼ばれる奇抜な格好をしているが、将来医者になる大学生だ。つまり、医大生？ 「いくつなの？」 「二十一です」 「あらー、若いのねー！それに、ほんと可愛い！」 　ニッコリと無邪気な笑顔を向けるサクノに、多栄子さんもメロメロだ。鮫島の方に近付き、バンバンと奴の背中を叩いている。頻りに「可愛いわよね？羨ましい」と言いながら。 「サクノ、話が逸れたが、何で此処に居るんだ？」 　俺が此処に居ることを知っているのは一人だけ。いや、まさか？ 「た、鷹宮さんが、此処の近くでお兄ちゃんを見かけたって言うから、迎えに来ちゃった。……って、言いたいとこなんだけど、ほんとは家出してきちゃった」 　やっぱり！あの人、空気読めない上に口が軽かった。愕然として、開いた口が塞がらない。いや、言わないでくれ、とは言っていないがな。何故、俺の家族と交流がある？ 「学校は？」 「休み」 「泊まる場所は？」 「ないよ」 　ないよ、じゃねぇよ。 「どうして、そうやってノープランで飛び出すんだよ？」 「お兄ちゃんに言われたくないよ！私が家飛び出したのは、お兄ちゃんの所為なんだからね！」 　今、凄く傷付いた。久しぶりに見た口を尖らせる姿は昔と変わらないが、前はもっと、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と、慕ってくれていた筈。 「は？どういうことだよ？」 「お母さんとお父さんが、お兄ちゃんのことで喧嘩ばっかりしてるんだもん！」 　何だろうか、響きから、嫌な予感がする。 「分かった。サクノ、それは二人の時に話そう。ほら、今は多栄子さんと鮫島さんが居るか……」 「お母さんがお兄ちゃんのこと子役の道に引き入れたのがいけなかったって、お父さんがお母さんのこと責めるの！その所為で、未だにお兄ちゃんは売れない芸能人してて、仕事はないし、事務所恋愛禁止で恋愛もしたことないって、アイドルじゃないんだから！それに、ほんとに恋愛禁止守ってるの、お兄ちゃんくらいだよ？」 　やめろ、俺の恥ずかしい過去を公にするのは、止してくれ！ 　後ろで鮫島が「ああ、道理で……」と言ったのが聞こえた。なにが、道理で、なんだ？何か言ってやりたかったが、サクノが話を続けたため、無理だった。 「三十にもなって、恋愛禁止なんて守ってるから、未だに独りでプラプラしてるんだって、お父さん、カンカンなんだからね？」 「おい、待て。まだギリギリ三十じゃない」 「最近になって、完全に仕事辞めちゃったって、鷹宮さんに聞いたし」 　おい、無視か？ 「だから！私は、お兄ちゃんの所為で家に帰れないの！」 　いや、今の説明じゃ全く分からなかった。 「別に放っておけば良いだろう？俺とあの二人は、もう赤の他人だ」 　俺と両親は頗(すこぶ)る仲が悪い。二十歳を過ぎた辺りから急に仲が悪くなった。二十一の時には既に家を出て、小さな仕事をしながら生きてきたのだ。もう、一生、仲が戻ることは無いだろう。 「お兄ちゃんも、毎日あの二人の喧嘩見てれば、私のツラさ分かると思うよ？」 　サクノの目線の先には重たそうなピンクのキャリーケース。 「ツライのは分かった。でもな、俺の所に来ても何もしてやれないぞ？」 　無職、所持金ゼロ、居候、そして、その他諸々。 「気分転換しに来ただけだもん」 　そう言って頬を膨らませたサクノだったが、突然、おかしな行動に出る。俺の横を通り過ぎて？ 「鮫島さん、一目惚れしたので、側に置いてください」 　鮫島の前に立ち、堂々と言い放ったのだ。