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妄想リリィ⑧

   ◆ ◆ ◆  何も出来ないまま、一日が過ぎてしまった。当たり前のように朝が来て、また夜が来る。 「サクノ~」  風呂から出て寝室に入った瞬間にサクノに声を掛けた。 「なに?お兄ちゃん、ニヤニヤして、気持ち悪いよ?」  特に何も無かったのだが、サクノの言う通り、俺はニヤニヤしていた。鮫島は日に日に弱っていっているが、俺は日に日に元気になっている。何故なら、癒しのサクノがいるからだ。確かに、最初は「サクノに帰って欲しい」と思っていた俺だが、可愛い妹が居れば居たで救われた訳である。 「なんもねぇよ~」  口ではそんなことを言いながら、頬が緩むのを止められ無い。 「おやすみ、お兄ちゃん」  ベッドの上、俺に背を向けたサクノが言った。そして、直ぐに聞こえ始める小さな寝息。この寝付きの良さ、鮫島に分けてやりたいと思う。  さて、俺も寝よう、と部屋の電気を消した時だ。ふと、ガスの栓を閉め忘れたのを思い出し、ゴソゴソと布団から這い出した。静かに扉を開け、リビングに移動する。小さなオレンジ色の電気が点いていたが、鮫島の姿は無い。消し忘れたのか、後で来るのか、分からないからな、このままにしておくか。目的であるガスの元栓を閉め、寝室に戻ろうとしたのだが、チラッと視界にとあるものが入ってきてしまった。  一枚の千円札がリビングのソファの近くに落ちていたのだ。しかも皺一つ無い、綺麗なピン札が。第一に鮫島かサクノが落としたのだろうか、と考えた。しかし、鮫島が居るであろう部屋が近いことから、これは罠ではないか?と思う。恐らく、屈んで千円札に手を伸ばした瞬間に紐か何かで引っ張って動かしていく、という質の悪いアレだ。また、馬鹿にされている。俺が、そんな単純な罠に引っ掛かるとでも思ったのか?  そんなものに引っ掛かってやる程、俺は柔では無い。そろりとしゃがみ込み、千円札や周りをじっくりと観察した。どうやら、千円札に紐は付いていないらしい。俺が鮫島とサクノをこっそりと見ていた時のように扉が少し開いている、ということも無さそうだ。スッと立ち上がり、音を立てないように廊下を見に行ってみたが、人の気配は無い。おいおい、待てよ?ということは、本当に落としたのか?  サクノがこんなに綺麗なピン札を落とす筈が無い。何故なら、アイツはああ見えて意外とガサツだからな。以上の理由から落としたのは鮫島だ、と勝手に思うことにした。あんな人の千円札なら、別に貰っても良いだろう?鮫島にとって、こんな端金、無くなったって、どうってこと無い。どうってこと無い、筈だ……。  俺の中で感情が戦争を起こしている。分かりやすく言えば、悪い陣営と良い陣営の戦い。 「鮫島は金を落としたことに気付いていない、その千円札を貰ってしまえ!うぉー!!」という悪い叫びと「その千円札は何か大切な一枚なのかもしれない、鮫島に返すべきだ!うぉー!!」という良い叫び。結局、俺の中で戦って勝ったのは──。 「……鮫島さん」  ノックと共に絞り出した声は掠れていた。あんたに話し掛けるのは、酷く久しぶりな気がする。 「鮫島さん、落し物を拾ったんだけど?」  返事が無い。ついに、死んだか? 「これ、俺が貰っていいのか?」  そう言いながら、ノブに手を伸ばした。鍵が掛かっていない。手に力を入れると、いとも簡単に扉が此方に開いてきた。 「……お前は本当に、馬鹿正直な奴だな」  扉を開けた先には、弱った顔の鮫島が立っていた。久しく聞いていなかった奴の俺に向けられた声。低く掠れた声音。 「お、俺、これ、渡そうと思っただけだから」  ググッと千円札を持った手を鮫島の胸に押し付けた。  早く。早く受け取れよ。  願ったが、鮫島の腕は動こうとしない。腕を動かせないほど、そんなに弱ったのか? 「受け取らないなら、じゃあ、俺はこれで……」  時間の無駄だった。俺はあんたと話したかった訳じゃない。善良な人間として、正しいことをしたかっただけ。ノブを握った手に力を込める。鮫島は全く動かない……、筈だった。ゆっくりと伸びてきた鮫島の両手にそっと抱き寄せられたのだ。こんなこと、思いも寄らなかった。突然のことで動けない俺の肩に黙ったままの鮫島が顔を埋めてくる。本当に弱っているのか? 「あんた、何してんだ?」  意外にも俺の口からは冷たい言葉が出た。やっと絞り出した言葉がコレだ。鮫島も返答に困って顔を上げるだろう、という俺の予想は一瞬で覆された。何故なら、奴が 「……充電」  なんて、訳の分からん単語で返してきたからだ。カチャリと俺の後ろで扉が閉まった音がした。鮫島が長い腕を伸ばし、閉めたのだ。 「はあ?……って、おい!」  三日前までの怪力程では無いが、強い力で畳に押し倒され、危うく頭を打ちそうになった。  くそ、重てぇな。っつか、目を閉じるな!寝るな! 「おい、あんた。こんな所で寝たら風邪引くぞ?」  俺に抱き着いた状態で上に乗っている鮫島の肩を揺するが、目を開けそうにも無い。ただ、低い掠れた声が一言、俺の耳にとんでもない言葉を吹き込んだ。 「……起きたら、……お前を抱いてやる……」  ブワッと顔が一気に熱くなった。 「はあ!?ふざけんな!おい、起きろ!冗談じゃない!」  怒鳴り散らしながら、鮫島の下で暴れてみたが、ビクともしない。眠っている人間の力とは思えない。本当に冗談じゃない。嫌だ、と何度言えば分かるのか。どうして、あんたは俺を抱きたがる?ただの暇潰し?反応を見て楽しんでいるだけ?好きでも無いクセに。ムカつく。俺の心に土足で踏み込んで来るな。好きでも無いクセに。好きじゃねぇんだ、俺も。  多分。

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