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逆転アディクション②

   ◆ ◆ ◆ 「あらあら、スエキくん、いらっしゃい。残念ねぇ、洋双と栄双はパパと出掛けちゃってるのよ」  そんな無用心に大きく扉を開けなくとも良いだろうに、心優しき多栄子さんは快く俺を迎え入れてくれた。 「それは本当に残念ですね」  あの小さな怪獣たちなら、俺の相手をしてくれるだろうと思っていただけに、非常に残念だ。そう思った瞬間に 「……っ」  ドキリとして、俺は息を呑んだ。誰も居ないはずの灰原家、多栄子さんの後ろにある廊下の先を一瞬人影が通り過ぎたように見えたのだ。 「スエキくん、どうしたの?」  背後を見て固まる俺に多栄子さんが心配そうに声を掛けてきた。そして、徐に振り返る。勿論、誰も居ない。 「お、お客さんですか?」  言ってしまってから、聞かなければ良かったと思った。多栄子さんの顔が一気に険しくなる。まるで「スエキくん、何を言ってるの?」と云いたげな顔だ。今のは聞かなかったことに、と言おうとした瞬間、多栄子さんが口を開く。 「イヤだ!スエキくん!洋輔くんだよ」  笑いを堪え切れず、多栄子さんが楽しそうに笑った。 「洋す……、洋輔って、あの鮫島さんの弟の、ですか?」  不思議だと思ったのだ。いや、単に俺が思い込んでいただけかもしれないが、洋輔はこの家に来ないと思っていた。 「そうだよ。洋輔くんのこと、知ってるんだよね?」 「ああ、はい」  まあ、一応。 「じゃあ、話は早いかな。洋輔くーん、スエキくんと買い物行ってきてくれないかなー?」  大声で廊下の奥に声を掛ける多栄子さん。ちょ、待て待て、まだ洋輔と会う程の心の準備が出来ていない。一人、焦っている時だ、洋輔が奥から姿を現したのは。 「……その人、誰?」  これが奴の第一声だ。俺は普段の女の格好をした洋世をイメージしていたんだが、いざ俺の前に現れた洋輔という人間は、鮫島をもっと美青年にしたような若い男だった。 「え?洋輔くん、スエキくんと知り合いなんじゃないの?」  多栄子さんが、キョトンとした顔をする。恐らく、俺も同じような表情で固まっていた。 「知らない。だから、誰?」  一人、冷たい声音で洋輔が言う。鮫島に負けず劣らずの無表情で。声も洋世の時とは全くの別物だ。低くも高くもない。だが、確実に男の声をしている。 「あらー、そうなの?まあ、これから仲良くなれば良いのよ。お願いだから、一緒に買い物に行って来て」  洋輔の腕を掴み、此方へと引っ張ってくる多栄子さん。その手を振り払うことも無く、洋輔は言うことを聞いている。 「じゃあ、スエキくん、来たばかりで悪いのだけれど、宜しくね」  そう言って、多栄子さんが大袈裟に手を振る。俺は「え、あ、はい」なんて曖昧な返事しか出来ず、先に外に出た洋輔の跡を追った。 「洋輔!ちょっと待ってくれよ!」  前を歩く洋輔のスピードが速い。まるで、競歩をしているようだ。 「洋輔!」  再度、必死に呼び掛けるが、全く止まる気配が無い。前を歩くコイツは一体、何者なのだろうか。そんな疑問を頭に浮かべながら、俺は一つの策に出た。 「洋世!頼むから、待ってくれ!」  聞こえているはずだが、奴の足がピタリと止まることは無かった。ただ、少しずつ、ゆっくりとスピードを落とし始める。これなら追いつける!と思った俺は、一気に洋輔に駆け寄った。 「洋世、なんで俺のことを知らないなんて言ったんだ?」  確かに、俺の目の前にいる洋輔は俺の知っている洋世では無いが、奴は俺のことを知っているはずだ。そう思った矢先、洋輔の腕が物凄い早さで動くのが見えた。 「……ぐっ!……おい!何すんだ!」  気付けば、俺は華奢に見える腕に胸倉を掴まれていた。割と新しい住宅街のど真ん中、人が誰も居なかったから良いものの、他の人が見たら喧嘩だと思われて通報されるだろうな。 「その名前で呼ぶな」  洋輔のその剰りに冷たい声音に、目の前に居る人間が鮫島に見えてくる錯覚に陥る。 「じゃあ、洋す……」 「それも呼ぶな」  怖い表情から、凄まじい殺意を感じる。なんてことだ。奴の名前を呼ぶ術が無い。 「なら、何て呼べば良い?」  両手を挙げ、降参のポーズで尋ねた。 「呼ぶな。黙ってろ」 「はあ?」  鬼畜過ぎにも程がある。あの鮫島でさえ、こんなことは言わない。いや、言われたことはあるかもしれないが、名前を呼ぶなとは言われていない。 「何を言ってんだ?呼べなかったら不自由だろうが!」 「……っ」  結構な大声で文句を言う俺に洋輔が顔を顰めた。 「……る?」  顔を軽く伏せた洋輔が何かをボソッと呟いた。俺の胸倉を掴む手が軽く震えていたため、最初は笑いを堪えているのかと思ったが、それは、どうも違うらしい。 「は?今なんて?」  今度は俺が顔を顰める番だ。洋輔が何を言ったのか、何を考えているのか、全く分からない。そして、ゆっくりと奴が顔を上げていく。 「……何を悩む必要がある?」  その表情は顔を伏せる前と何ら変わりは無かった。 「何だって?」  意味が分からない。 「灰原さん、と呼べば良いだろう?初対面で気安く名前を呼ぶな」  こういうところ、益々鮫島にそっくりだ。あんた等は、何回俺の頭の中で名義変更すりゃ気がすむんだよ?そもそも、初対面ってなんだ?初対面じゃないだろう?まさか…… 「二重人格なのか?」 「は?僕が?」 「他に誰が居るんだよ?」 「僕は違う」  洋輔がググッと手に力を入れて否定する。まあ、そうだろうな。二重人格の人間に「あなたは二重人格ですか?」と尋ねても、きっと認識していないから、意味が無い。厄介だな。 「分かった。俺が悪かった。悪かったから、その手を離して、俺と仲良くして下さい」  しまった。何か良く分からないことを口走ってしまった。どんな顔をすれば良いのか分からず、微笑みに近い苦笑いを顔に貼り付ける。その瞬間、洋輔と目が合った。冷たい瞳がジッと俺の目を見つめている。その気になれば、いつでも目を逸らせる筈だった。だが、俺は洋輔の顔から視線を逸らせないでいた。  鮫島とは違う、漆黒の短い癖っ毛の髪と眉、そして、長い睫毛。それと、黒に近い濃い茶色の瞳。目鼻立ちがハッキリしているのは変わらないが、目元が違う。二重がくっきりしているからかもしれない。俺は完全に洋輔の顔に釘付けになっていた。 「あんたとは絶対に仲良くなれない」  その冷え切った言葉に俺は我に返った。絶対、という部分を強調し、洋輔がパッと手を離した。その時の表情といったら……、完全に俺を嫌っている顔だった。まるで、心の底から嫌っています、と言っているようで、俺の中で何かが傷付いた。冗談でも言ってみようか?誰のために?俺のために。 「……洋輔、好きなんだけど」  と俺が言った瞬間に時が止まった。勿論、冗談だ。しかし、また言葉の選択をミスったか?おちゃらけて訂正するならば、早い方が良い。 「あー、今の冗だ……」 「ふざけるな!今度、変なこと言ったら、ぶっ殺すぞ?」  大激怒です。いや、これは彼なりに照れているのかもしれません。ですが、大激怒です。 「悪かったから、そんな怖い顔するなよ」  洋輔は、今にも殺してくれそうな程の形相で俺を睨みつけている。 「そんなこと微塵も思っていないクセに、悪かったなんて口にするな」  ちっ、と舌打ちをされ、更に強くど突かれた。灰原洋輔という奴の人間像が、ようやく見えてくる。鮫島の弟ということだけあって、喋り方や性格が似ている気がするが、恐らく洋輔の方が何倍も悪い。荒れている。直ぐに手が出る。感情と神経が直結型。目に見えないツンデレタイプ。そして、恐らく……、二重人格。 「なあ、どうしたら許してくれるんだ?」  全く歩みが進まない。小学生の頃の成績表の名前が「歩み」だったが、その中身が1ばっかりだったのと同じだ。成長出来ない。 「許すもなにも、僕はあんたが大嫌いなんだよ。初対面なのに、自己紹介もしない。あんたは、一体、誰なんだ?僕の何を知ってる?多栄子さんの何なんだ?」  はい、出ました、大嫌い宣言。言われる度に、ちょっと傷付いてんだよな。皆の大嫌いを集めてコレクションができる。質問責めも得意じゃ無い。面接に行ったら真っ先に落とされるタイプだ。 「……西海史スエキだ、よろしく」  今更ながら自分の名前を言い、右手を洋輔の方に伸ばすが、それに奴が応じるわけもなく、俺は静かに手を引っ込めた。 「質問の一つしか答えてない。僕は三つ聞いたんだ。もしかして、覚えてないとか?スエキは頭が弱いのか?」  人を馬鹿にした顔というのは、こういう表情のことを言うのだろう。言葉では言い表せないが、非常にイラっとした。まあ、お頭が弱いのは確かだが……。 「スエキって呼ぶなよ。お前が俺をスエキって呼ぶなら、俺もお前のこと洋輔って呼ぶぞ?」  さいかいし、という長い名前を好き好んで呼ぶ奴は、まず居ない。つまり、必然的に「なら、あんたの名前は呼ばない」と、なるわけだ。これで、俺の名前が無くなった。「構ってられない」とボソリと呟いた洋輔がスタスタと歩き出す。  急いで後を追うが、やはり、追い付けない。その強靭な脚は、普段、ヒールで鍛えているからなのか?そうなのか?そう問いたくなる。  灰原家から一番近いスーパーに向かっている筈だが、洋輔は故意に遠回りをしているように見えた。何がしたいのか、まったく分からない。行き先を聞こうにも背中からの「話し掛けるな」というオーラが凄まじい。どう考えても、コイツとは仲良くなれないと思う。そんな時だ。どうしようもないな、と感じた瞬間、前から見知った顔が近付いてきた。

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