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断罪エスケープ②

   ◆ ◆ ◆  屋上から降り、鮫島宅に入る時分、鉢合わせするであろう人物とは会わなかった。どうやら、洋世の目的地は此処では無かったようだ。家が近いだけなのかもしれない。いや、近いんだろうな。じゃなきゃ、鮫島専門のドライバーなんてしないだろう? 「あそこで、一体何をしてたんだ……?」  俺の独り言だ。本棚を見上げ、独りで呟いた筈だった。背後に人の気配を感じ、振り返ってみると鮫島が立っていた。まあ、奴以外この家に居るわけが無いのだが、その顔ときたら……ムカつく。怪訝そうな顔で、俺が見ていた場所を見つめ、何か言いたげなことだけは分かった。 「なんだよ?」  男は喧嘩をする生き物らしいが、別に年中無休で喧嘩をしたい訳では無い。しかし、どうしても鮫島に対しては喧嘩腰になってしまう。況ましてや、昨日の今日だ。尚更、俺の機嫌も悪くなる。 「いや、俺には見えない何かが、お前には見えているのかと思ってな」  如何にも真面目そうに言うもんだから、一瞬で怒りなんざ何処かに行ってしまった。寧ろ、呆気に取られて、上手い返答の言葉さえも見つからない。 「あんた、それ本気で言ってんのか?」  出てきたのは、驚き呆れた疑問の言葉だけ。同じ方向を見つめながら、見えもしないモノを鮫島と探す様は、端から見たら異様な者にしか見えないだろう。 「冗談に決まっているだろう?お前の馬鹿な遊びに付き合ってやっただけだ。それで?何のことを言っていたんだ?」  くそ、出やがったよ。この俺様やろうがっ!何も聞いていませんでした、みたいな顔で、ちゃっかり何でも聞いてやがる。 「き、近所の猫のことだ!悪いか?」  何故だか、真実を偽ってしまった。洋世のことを。隠す必要性は無い気もするが、見てはいけないものを見てしまったとも思う。 「ああ……、お前の友人のことか」  ニヤリと意地悪く笑う事もなく、いつもと変わらず真顔でサラッと鮫島が言ってのけた。極め付けは、鼻で笑われるという屈辱的な仕打ち。 「あんたなぁ!いつまで俺を犬扱いすりゃ、気が済むんだよ!」  いつも噛み付かれているのは俺の方だが、今回だけは鮫島に噛み付きたくなった。殺意をたっぷりと込めて。 「誰がお前を犬扱いしたんだ?言ってみろ、この馬鹿犬……おっと」  白々しいにも程がある。 「あんた、言ってんじゃねぇか!」  ツカツカと鮫島に近付いて行くが、それに比例して奴が後ろに下がり、一向に近付かない。広い部屋というのは、それが永遠に繰り広げられるから好きになれない。 「逃げんなよ!卑怯だ!」  このままでは埒が明かない、と部屋の真ん中で立ち止まり、精一杯に吠える。 「ほう、卑怯という言葉を覚えたのか。犬もやれば出来るんだな。ところで、ちゃんと意味は理解しているのか?」  珍しく、よく喋るじゃねぇか!疲れてんのか?眠いのか? 「卑怯ってのはな!卑怯ってのは……くそっ!」  運良く手に持っていた分厚い辞書を急いでパラパラと捲り、卑怯という単語を探す。ニュアンスで、それっぽく覚えていたために、いざ言葉で説明してくださいと言われると非常に困った。 「カンニング禁止だぞ?」 「か、カンニングじゃねぇよ。単純な予習だ」  俺の苦しい返答に対して、また鮫島が鼻で笑う。反応を見て楽しんでやがるんだ。 「大苦戦だな。まあ……、精々諦めないことだ」  まるで、構っていられないみたいな言い方だ。 「あんたが話し掛けるから、見つからないんだよ。もう話し掛けんな」  たまには鮫島の所為にもしたくなる。そんな俺を横目に奴が本棚の梯子を上っていく。どうやら、資料を探しに来ただけだったようだ。俺なんざ、放っておけば良いものを。突き離したり、話し掛けたり、その行動は理解し難い。理解不能だ。俺に構いたく無いのなら、話し掛けなければ良い。  そうやって、あんたが無自覚に話し掛けるから、俺は苦しいんだよ。突き離したのは?からかっているだけなのか、それとも他に何か理由があるのか。俺は部屋にただ置いてある観葉植物じゃない。感情もあれば願望もある。しかし、鮫島の欠けたコミュニケーション力が回復する日は来るのだろうか? 「話し掛けて欲しい、の間違いじゃないのか?」  資料となるべき本を一冊も持たず、鮫島が上から降りてきた。 「誰が、そんなこと言うかよ」  つい、ムッとした表情で言ってしまう。 「そんな顔をしていたから、話し掛けたんだ」  それは、話し掛けて欲しそうな顔をしていたということか?それとも、ムスッとした顔のことか?ほら、また言葉が足りない。今度は俺が逃げる番なのだろうか?  速やかに鮫島が近付いてくる。だが、重りがついているみたいに俺の脚は動かない。ただ、小さな抵抗をするかのように口だけは流暢に動いた。 「あんたが毎日話し掛けたってな、俺は成長したりしないし、あんたに何かを返したりも出来ねぇんだよ」  俺は一体、何を言っているのだろうか。きっと、頭のおかしな奴だと思われただろう。手を伸ばせば触れられる距離。また、鼻で笑ったり、何を言っているんだ、と冷酷な口調で言われると思った。あんたの得意な…… 「何してんだよ……?」  至近距離に近付いた鮫島の顔が俺の顔の横を下がって行った。また、首を噛まれるのではないかと身体が硬直する。だが、奴は俺の肩に自らの額をつけたまま動かなくなった。そんな鮫島と突っ立ったままの俺。まさか?まさかとは思うが、立ったまま寝た訳じゃないよな? 「あの……、鮫島さん?」  語尾に続くのは「起きていますか?」というクダらない質問になる筈だった。 「……なんだ?」 「俺の少ない体力を奪っていくのをやめてもらえませんか?」  しかし、気付いてしまったのだ。これが鮫島の言う「充電」という行為だということに。 「……断る」  ボソッと呟く誘拐犯。目に見えない何かを鮫島に誘拐され続けている。俺は、あんたに何かを与えられているか?  ──答えが欲しい。 「あんた、俺が居なくなっても生きていけるか?」  そう静かに尋ねた。表向きは興味本位だった、ということにしておこう。 「ああ……、生きていける」  消え入りそうな静かな声が返ってきた。 「そうだよな……」  今まで一人で生きて来たんだから、突然生きていけなくなる訳が無い。人は意外と強い生き物だ。あんたが居なくて生きづらくなるのは俺だけ。 「今のは、聞かなかったことに……」 「……ただ、死んだように……」  鮫島の声が俺の声に重なり、非常に聞き取りづらかったが、微かに聞こえた。 「馬鹿じゃねぇのか?脅してるだろ、それ」  何を言っているのか、と此方が言いたくなる。死んだように生きる、とは、どんな感じなのだろうか。何処を見ていれば良いのか、俺の視線が彷徨う。鮫島からの返事は無い。ただ、「もう少しだけ、このままで……」と言われているような気がして、微動だに出来なくなる。  黙っているのは苦手だ。鮫島は俺が堪えられずに変なことを口走ってしまうのを待っているのだろうか?例えば、あんたに対して好意を示すような、そんな言葉。それとも、慰めの言葉? 「あんた、何か、あったのか……?」  ボソッと尋ねてみる。幽かな音さえ無いこの空間では、それで十分だった。尋ねた理由は、鮫島の様子が何となく変だったからだ。普段、あまり感情に変調の無い鮫島が、イラついたり、よく喋ったり、今は俺の見る限り弱っている。凄く、弱っているように見える。  何も無ければ別に良い。何かしらの返答があれば俺も安心出来たのだが、鮫島は黙ったまま、スッと俺から離れて部屋から出て行ってしまった。部屋に残るのは変な静けさと膨大な本の数々だけ。  そして、この日から、鮫島は俺を避けるようになった……。

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