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断罪エスケープ⑥

 ◆ ◆ ◆ 「……っ」  痛む頭を押さえ、顔を挙げる。眼に映る世界は気を失う前と然程さほど変わっていなかったが、俺は何か違和感を感じていた。便座に座ったまま、個室に独り。  洋輔は何処に行った?怒って何処かに行ってしまったのか?まさか、奴等に捕まったのか?凄く嫌な予感がした。この目の前にある鍵の掛かっていない扉を開けるか、開けまいか。悩みはしたが、俺は恐る恐る扉に手を伸ばした。 「洋輔?」  小声で、下手すると全く音にすらなっていない声で奴の名を呼んだ筈だった。 「ぬぉ!」  驚くべきことに、ほんの少し隙間をあけた瞬間に外側から扉を全開にされたのである。引っ張られたのか、ただバランスを崩しただけなのか分からないが、気付いた時には俺は必然的に個室の外に出ていた。伏せた視界の端に何者かの足が見える。……女? 「洋輔って呼ぶんじゃないわよ!」 「痛っ!……洋世?」  頭を叩かれ、正体が分かった。 「まったく……、驚いたような顔してんじゃないわよ。あんたが、あたしを呼んだんでしょ?」  顔を上げようと思った瞬間に顎クイをされ、まじまじと顔を見られた。変わらぬ化粧をした綺麗な顔、いつもよりストレートな黒い長い髪、それと、何処かで見たような未来っぽい服。「それ、トイレの近くにあったマネキンが着てた服だよな?」とは言えず、多分、そうだ、と思う。 「呼んだ、かもしれない」 「ほんっと、素直じゃないわね。まあ、そこが好きなんだけど」  洋世を呼ぶために自分が洋輔にしてしまったことを思い出し、曖昧な返事をした結果が、これだ。 「そんなん、どうだって良いだろう?お前なら、この現状をどうにか出来ると思ったんだよ」  洋世の手を払い退け、告げる。果たして、彼女は今の現状を理解しているのだろうか? 「なんで?」  分かっているのか? 「昨日、お前が黒服の奴等を……」 「だから?」 「は?」 「あたしが言いたいのは、どうして、現状をどうにかしたいと思ってるのかってこと」  まったく訳が分からない。 「何を仰ってるのか、よく分からな……」 「もう、どうだって良いじゃないって言ってるの。何もかも、どうだって」  いつから、洋世はこんなに自暴自棄になったのだろうか。自分が変に丁寧な言葉を使ってしまったことも良く分からないまま、俺は唖然とした。 「何か悩みでもあるのか?」  お悩み相談室なんざやっている場合では無いが、あまりの深刻な雰囲気に思わず尋ねてしまった。 「悩み?ただ、生きているのが嫌になっただけよ」  体の向きを変え、鏡に映る自分をジッと見つめる洋世。同時に、俺は個室の数の変化に気付いていた。いつの間に女子トイレに移動しやがったんだ? 「自分のしたいことも分からない。毎日、同じことの繰り返し。そんな人生、つまらないじゃない」  一体、何を言っているのか。本当に今日の洋世は様子がおかしい。 「何が言いたいんだ?」  普段感じることの無い異様な雰囲気。 「ねぇ、史は元気?」  自らの髪を手で梳きながら、洋世が淡々と言う。彼女にしては珍しく、鏡に映る表情は冷めていた。元気?体調のことだろうか?いつも寝不足で顔色が悪いのは知っているはず。何故、今更、そんなことを聞くのか。今朝見た鮫島は元気そうだったが……。俺はハッとした。 「お前、鮫島さんに何かしたのか?」  最近の鮫島は様子がおかしかった。家事を自分で熟したり、俺を無視したり、まるで、俺を引き離そうとしているかの様だった。 「してない。言っただけ」  振り向き、洗面台の淵に腰を下ろした洋世が俺の目の前でスッと脚を組んだ。 「何を言ったんだ?」 「良いじゃない。史と洋輔は兄弟なんだから」  洋世が首を左右に振る。まるで、やれやれと言っている様だ。まったく答えになっていない。 「鮫島さんに何を言ったんだ?」  もう一度、問う。あの人の異様な行動に理由があると言うのなら聞きたい。もし、冗談で何かを言ったのなら、撤回して貰いたい。それは冗談なのだと。 「……スエキに本当のことを話してやる、って」  少しだけ、洋世の表情に変化が現れた気がした。口角が上がった気がしたのだ。 「本当のこと?」 「そう。これを聞いて、あんたは史の側に居続けることが出来るのかしら?」  目の前の人間が悪女に変わっていく。これは現実なのか? 「ふざけるなよ?」  時分も場所も考えず、予想していなかったことを口にする洋世に苛立ちを感じ始める。 「まあ、その様子じゃ、史はどちらにしてもあんたを遠ざける方を選んだみたいだけど」  俺の言葉など全く聞こえていないかのような言動だ。 「それで、お前は満足したのか?」  苛立ちを募らせ尋ねる。こんな状況でなければ、もっと大きな声を出していたに違いない。何故、今なのか。 「満足?するわけないじゃない。史に逃げ道なんて無い。アイツに絶望を与えなきゃ」  感じるのは狂気。嘘であって欲しいと思う。こんな状況、受け入れられない。 「こんな時に言わなくても良いだろう?」  ただ、先に延ばしにしたいが為の言い分だ。鮫島が俺を嫌いになったわけでは無いということが分かったのは正直嬉しかった。だが、これから洋世の口から語られるだろう真実を聞いて、俺はあんたの側に居続けられるだろうか? 「じゃあ、良いわよ?史の前で話してあげる。史のことだから、此処に来てるでしょうし、他のお客は皆避難したみたいだし」  鮫島が此処に?そんな筈は無い。多栄子さんが鮫島からの電話を受けたばかりだ。 「さあ、来て」  此処に連れ込まれた時のように腕を掴まれ、そのまま引かれていく。強盗だか何だか分からないが、そんな奴等が彷徨いているであろう場所に、何故、そんなにも簡単に出ていけるのか。洋世、まさか。 「お前、アイツ等の仲間なのか?」 「ヤダ、ばれちゃった?」  ふざけているようには見えない。声音も変に落ち着いている。 「あたしは、奴等を裏口から入れる係」  鍵を開けておく役目を担っていたわけか。誰に会うこともなく、俺は広い劇場のような空間に連れて来られた。スピーチやら何やらを発表する場だったのだろう。人の気配は無い。 「お金になりそうな展示物だけ探して」  無線でも付けているのだろう。洋世が俺では無い誰かに話し掛ける。舞台と呼ばれるであろう壇上の中央に立たされる俺。右腕は隣に立つ洋世に握られたままだ。 「人質を取るなんざ聞いてねぇぞ?」  声で分かった。Cだ。下手から覆面をしたCとヘルメットを被ったもう一人の男が現れた。ヘルメットの奴がリーダーか? 「おい!Z!」  Zとは洋世のことだろう。答えようとしない洋世に痺れを切らして、Cが大股で肩を揺らしながら近付いて来た。見るからにチンピラといった感じだ。 「触らないで」  伸びてきたCの手を俊敏な動きで叩き落とす洋世。 「人質を取った方が逃げやすいでしょ?もっと頭使いなさいよ」  次いでCの頭を叩く。 「てめぇ!ふざけんなよ!」  まあ、そうなるだろうな、と思いながら自分でも驚くほど冷静な気持ちで見ていた俺だが、Cが懐から銃を取り出した時には身が固まった。 「撃てるものなら撃ってみたら?」  挑発を続ける洋世だが、俺の腕を掴んだまま言うのは勘弁して貰いたい。 「ほら、撃ってみなさいよ。なんなら、憂さ晴らしにこいつを撃ってみたら良いじゃない」  冗談だと思いたいが、彼女は手をピストルのような形にして俺のこめかみに突き付けてきた。 「や、やめろ」  掠れた声が口から洩れた。絞り出したと言った方が正しい。 「……っ」  息を呑んだCの手が銃を握ったままカタカタと震えている。 「出来ないんなら、あたしに貸しなさいよ」 「あ……」  その一連の流れは目にも留まらぬ早さだった。洋世はCの手から銃を奪い、俺の頭に向けて引き金を引いたのだ。銃はカチリとしか鳴らなかった。一瞬止まった心臓がバクバクと煩く暴れ始める。 「あんたなんかにAが弾の入った銃を渡すわけが無いでしょ?」 「そんな……」  リーダーに信用されていないことが、剰りにもショックだったのか、Cは壇上に膝をついた。 「ほんと、使えないわね!」  勢い良く銃を持った手を振り下ろす洋世。 「……ぐぁっ!」  グリップ部分で強く殴られたCは壇上に転がった。仲間を気絶させるなんざ、正気の沙汰とは思えない。ヘルメットを被った男は人形のようにピクリとも動かない。この状況を見て、何とも思わないのか? 「お前、最低だな」  自分でも、こんなことを言えたことに驚いている。 「最低なのは史の方よ」  銃を仕舞いながら洋世が言い放つ。兄弟喧嘩に他人を巻き込まなくても良いだろうに。 「アイツは人殺しなのよ」 「……は?」  耳を疑う。洋世の顔が見られない。 「鮫島史は五年前に人を一人殺したの」  聞きたくないことが聞こえてしまった。鮫島の前で話す、と言っていたくせにサラッと喋りやがった所為だ。 「嘘だろ……?」  鮫島が人殺し? 「史が人殺しだと知っても、あんたはアイツと一緒に居られる?」 「一体、誰を?」  嘘かもしれない。洋世を信じるのは、まだ早い。

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