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断罪エスケープ⑦

「……鮫島史子」  そう答えたのは、隣に立つ洋世では無かった。少しだけ、籠った声で聞きづらかったが、確かに聞き覚えがあった。 「史……、そのまま隠し通すのかと思ったのに」  その声に反応したかのようにヘルメットが外されていく。 「その名前で呼ぶな」  鮫島だ。顔色一つ変えず、あの人は其処に立っていた。 「どうして?自分が殺した母親を思い出すから?」  洋世は鮫島への怒りを隠せないようで、声を荒げている。 「待てよ、鮫島さんの母親はガンで亡くなったんだろう?」  どちらかの肩を持つ訳ではないが、鮫島が実の母親を殺したことなんざ、信じたくなかったのだ。 「隠蔽(いんぺい)したのよ!自分が組織から抜けるために母親を殺して、ガンで亡くなったことにしたの!」  洋世が一方的に叫ぶことになったのは、鮫島が黙ったまま、何も反論しないからだ。鮫島は冷たい眼差しで此方を見つめているだけ。 「鮫島さん、本当なのか?嘘だよな?あんたが、そんなことするわけないよな?」  洋世にググッと腕を掴まれていて鮫島の側に行くことが出来ない。何故、何も言わないのか。 「なんとか言いなさいよ!」 「……っ!」  怒鳴り散らす洋世に俺は吹っ飛ばされ、壇上から落ちた。一メートル半くらいの高さから落ちた所為で強い痛みを伴った。 「言わないなら、あんたの好きなコイツ、痛めつけてやるから!」  壇上の下に落ちた俺を追って洋世が降りてくる。ここまで来ると俺には恐怖しか無かった。 「ずっと黙ったまま其処に突っ立っているつもり?」  鮫島の顔をジッと見つめながら洋世が俺との距離を詰めてくる。床から腰を上げられないままで居る俺との距離は直ぐに縮まった。劇場とかホール特有のライトの光が眩しい。洋世の表情が余計に暗く見える。 「もう、どうなっても知らないから」  ぼそりと呟き、ゆっくりと拳が振り上げられた。いや、実際には、もっと素早い動きだったかもしれない。ゆっくりだと感じていながらも全く一ミリも動けない俺が反射的に目を瞑る刹那、やっと鮫島が口を開いた。ただ一言、「待て」と。恐る恐る目を開けてみると、降ってくると思っていた拳は俺の顔面の近くで止まっていた。 「確かに俺は母親を殺した」  静かなトーンで鮫島が続ける。人を殺した、と己の愛した人間が罪を認めた。そう思った。しかし、鮫島の次の言葉はそれを否定するようなものだった。 「……殺した、ことにした」  壇上をゆっくりと歩く音がする。鮫島だ。 「は?何が言いたいの?言い訳?」  目の前の洋世が理解していないのだから、俺にも理解することは出来ない。 「これ以上、話すつもりはない」  この後に及んで鮫島に選択肢などあったのか、と思う。 「おい、馬鹿犬。立て」  壇上の上から鮫島が真顔で俺の顔を覗き込んだ。正直言って、今、俺の中では複雑な気持ちが渦巻いている。 「いつも、いつも……」  ボソリ、ボソリと洋世が呟くのが聞こえた。 「そういう態度がムカつくのよ!」 「……っ」  これを怪力と呼ぶのでは無いだろうか。伸びた洋世の腕が壇上の縁に立っていた鮫島の衣服を掴み、客席の方に放り投げたのだ。衝撃的だった。まさか、鮫島が放り投げられるとは。 「ただ、言いたくないだけでしょ?分かってるんだから!」  客席の上に仰向けに倒れた鮫島の近くにツカツカと寄っていく洋世。その後が酷かった。何故、応戦しようとしないのか。一方的に、鮫島が洋世に殴られ続けている。顔面や腹など、容赦がない。 「言う必要はない」  幾ら殴られようと、鮫島の声音に変化はない。一方的に殴られている鮫島が嫌でも視界に入ってくる。何も出来ない。鮫島が、本当は優しい人間だと知っている筈なのに。体が動かねぇんだよ。俺は本当に、どうしようもねぇ人間だ。 「曖昧なこと言って、誤魔化そうとしてんじゃないわよ!」  遂に、鮫島は力無く床に転がった。いや、転がされた。表情が見えないが、額からは血が出ている。手を伸ばせば、ギリギリ俺に届く。届いてしまう。そう思った時だった。バキッという嫌な音がした。  おいおい、そんなに怪力を見せつけなくても良いだろう?床に溶接されていた客席を洋世が破壊したのだ。客席が一瞬で凶器に変わった。さすがの鮫島もそんなもので殴られてしまっては死んでしまう。なのに、馬鹿じゃねぇのか……。当の本人は俺の顔をツラそうに見つめながら、声にならない声で「巻き込んで、すまなかった」なんて言いやがったんだ。自分の置かれてる状況、理解してないのかよ。  俺に謝るなんざ、あんたらしくない。何故、応戦しない?あんたなら、洋世と同等に戦えるだろう?実の弟だからか?大切にしているからか?大切に……───、なんとなく、理解出来た気がした。 「おい、洋世」  声が出たのも、フラフラしながら立ち上がれたのも驚きだ。落とされた時に打った右肩が痛むが、俺は意外と強気だった。鮫島と洋世との間に立ち塞がり、また無意識に口が開いた。 「お前、少しは自分の兄貴のこと信じてやっても良いんじゃねぇのか?母親を殺したとか、殺さないとか、お前はその理由をちゃんと聞いたことがあんのかよ?鮫島さんの口から、ちゃんと」  何故、こんなことを言ってしまったのか、自分でもわからない。 「はっ、生意気ね。スエキのくせに!」  客席ごと投げられることは無かったが、破片が俺の頬を掠めて飛んで行った。手で触れてみると、指先に血がついた。 「鮫島さん、あんたも正直に話すべきなんじゃないのか?あんたの守っているもの」  それが、洋世を傷つけるものであっても。 「意味が分からない。仲良しごっこには付き合ってらんないわよ?」  ズルズルと客席を引き摺りながら、洋世が近づいて来る。何も知らない俺が、こんなにも強気なことを言えたのは、もう死んでも良いんじゃねぇのかな、と思ったからだ。あの時、鮫島に拾われていなければ、俺は道を誤って早くに死んでいたかもしれない。鮫島が居ても色々と道を誤ったりした訳だが、あんたが居たから、俺はここまで立ち直れたのかもしれない。あんたには感謝してる。 「退きなさいよ!」  カラカラ、と客席を引き摺っている手元から変な音がしている。 「退かねぇよ!」  俺だって男だ。あんたはいつも俺のことを馬鹿犬呼ばわりするが、今日は立派な番犬になってやるよ。 「じゃあ、死ね!そんなに望むんならね!」  覚悟していた所為か、今度は反射的に目を瞑ることは無かった。全て、見えていた。重量投げみたいに洋世が振り回した客席が、勢い良く此方に向かってきたが、次の瞬間、それは洋世の方に投げ飛ばされていた。俺の目の前に立った、鮫島に依って。  早送りにされた映像を見ているかのようだった。自分の方に飛んできた客席を避けるためにバランスを崩した洋世の胸倉を鮫島が掴み、床に投げ倒したのである。 「鮫島さん……?」  鮫島の剰りの変貌に、俺は驚愕した、それなのに、どうして、俺はあんたに近付こうと思ったのか。だが、鮫島は俺を手で制止した。まるで、来るな、と云うように。鮫島が洋世の隣に膝を着き、話し出す。 「洋輔、俺は母親を殺したことにした。だが、お前の母親は本当にガンだった。医者を丸め込んで俺が殺したことにさせたんだ、組織にはな」 「嘘よ!そんなの!」  床に仰向けに倒れた洋世が今度は鮫島の胸倉を掴んだ。 「お前のためだ」  鮫島がそう言った瞬間、洋世の平手が奴の頬を強く打った。見ているだけで痛々しい。 「なんなのよ!それ!」  洋世の声が震えている。 「お前が、組織内で大きな失敗を犯したからだ」  組織。それが何の組織なのか、俺には分かりゃしないが、任務というものが存在したのだろうか。 「家族の一人を殺せば、お前を見逃すと言われたんだよ。ガンで死にかけてる母親と大事に守ってきた弟、窮地に立たされた時、俺がどちらを選ぶか、お前にも分かるだろう?」  バタバタと暴れる洋世を上から抑えつけ、鮫島が言う。その声には既に、いつもの冷静さは存在していなかった。 「本当は、お前も分かっていたんじゃないのか?だから、そうやって別の人格を創り出したんじゃないのか?忘れたかったんじゃないのか?」  鮫島の言葉一つ一つが、銃弾のような力強さを持っていた。洋世にも、その弾は真っ直ぐ届いたに違いない。 「俺は、組織を抜けるために実の母親を殺したことにした訳じゃない。組織から追放されたんだ。洋輔、お前は組織から逃げるために、こんな事件を起こしたんだろう?」  洋世の啜り泣く声が聞こえてきた。  途中から声が小さくなった所為で、ここからは俺の想像になるが、恐らく、洋世は刑務所に入れば組織から逃げられると思ったんだろう。刑務所に入ってしまえば、組織の手は届かなくなる、と。だが、そんなことでは逃れられない、そう鮫島は思ったんだろう。だから、あんたは、俺の手足を縛って、洋世と一緒に俺の前から姿を消したんだろ────?

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