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救世主サルベーション③

   ◆ ◆ ◆  また天気が荒れ出した。折角、風呂に入ったのに最悪だ。風呂の小屋と自室とは少々距離があり、外を歩かなければならない。風呂の小屋に戻ろうかとも考えたんだが、どちらに行っても同じようなもんだと思い、歩き続けることになった。  他の建物の微かな明かりしかなく、辺りは薄暗いを通り越して、真っ暗である。更に最悪なのは、ただの雨では足りなかったのか、雷様が姿を現したことだ。真っ暗というのは訂正しよう。雷の光で一瞬だけ辺りが、ハッキリ見える。本当に最悪だ。 「……っ!」  突然の寒気に、身震いをする。思わず、立ち止まってしまった俺だが、その時、気付いてしまった。ひとつ、足音がズレて聞こえたのだ。つまり、俺以外に誰かが歩いている……?  途端にとてつもない恐怖に襲われた。気付かなければ良かった。早く、自室に戻らなければ!  早歩きに切り替え、決まった道など無い帰路を急ぐ。謎の誰か、は俺の横を少し離れて歩いているようだ。木の向こう側、こちらが気付いたことを察知したのか、俺を追い越そうとしてるように感じられる。誰かに追われるなど経験したことが無い。いや、もう既に追われると言うより、前に……立って……いる。  立ち止まらざるを得なくなった瞬間、無意識に顔を下に向け、視界の中に奴の姿が入らないようにしてしまった所為で逆に怖い。恐怖だ。血液を全身に送っているポンプが壊れそうなほど、俺は恐怖を感じている。誰なのか分からないが、鷹宮さんでないことだけは分かる。このままでは埒があかない、と勇気を出して、恐る恐る人影を目視したからだ。シルエットが鷹宮さんでは無い。  身体の中から誰かが胸をノックしているような錯覚に陥る。次の落雷で前に立っている人物の顔が見えてしまう。はったりでも掛けてみるか。雷雨の日に見る殺人鬼の顔ほど怖いものは無い。 「……あんた、こんなところまで何しに来たんだ?」  誰かも分からない人間に問いかける。内心、どうしようもなく怯えている俺だが、不思議なことに冷静な声が出た。 「──お久しぶりですね、佐藤さん」  こんなことにジャストタイミングなんて言いたかないが、奴が話し始めるのと同時に雷のフラッシュが瞬いた。三千万の男……。俺を嵌めた男だ。奴の容姿は、あの日会った時と変わらない。こんな山にスーツで来る奴があるか?色んなことを巻き込んで、フツフツと怒りが込み上げてくる。 「あんた、よく俺の前にのこのことやって来られたな!」  正体が分かれば何ともない。恐怖は怒りに変わり、俺は大股で奴に近付いて行く。名前なんざ、今更、気にしたりしない。好きなように呼べば良い。 「おっと、コレが何だか分かりますか?」  これ以上近寄るな、というように奴が左手を伸ばし、俺を制止した。右手には何か小さなモノが見える。 「なんだ、そりゃ?」  目を細めたところで見えやしない。 「あー、こんな暗いところでは見えませんよね?失礼、これはあなたが撮った鮫島の証拠写真ですよ。いや、そのデータです」  あの日、俺が植木鉢に隠したデータのカードか?まさか、隠し場所がバレていたとは……。何故、俺は回収して来なかったのか。悔やみに悔やみきれない。 「今更、それを持って何しに来たんだ?ここに鮫島さんは居ないぞ?それに、何故、あんたはそれを悪用せずに、そのまま持っているんだ?」  奴の制止を振り切り、ジリジリと間合いを詰めて行く。 「悪用だなんて、人聞き悪いことを言わないでくださいよ。私はただ、あなたにまた仕事をお願いに来ただけです。ああ、違った。交渉でした」 「交渉……?」  手を伸ばせば、カードを奪い取れそうな距離まで来た。未だに雨は降り続け、雷も鳴り続けている。 「あなたも今をときめく人気俳優になったわけですから、何かしらのスキャンダルは耳にしたり、目にしたりするでしょう?その情報を私に渡してください。そうすれば、このカードはあなたにご返却致しましょう」  一瞬の光で見えた奴の表情が、剰りにも胡散臭い貼り付けたような笑顔で、ゾッとした。 「あんた、そんなもので俺が釣られるとでも思ってるのか?」  俺があの人を庇う理由など微塵も無い。もう、俺には関係の無いことだ。鮫島は俺の前から消え、何処にいるのかも分からない。作家活動など、やっている筈が無い。 「おや、良いんですか?」 「どういう意味だ?」  胸倉を掴んで問い詰めてやろうと思ったが、俺が近寄る度に奴が後ろに下がり、それは叶わなかった。 「ああ、もしかして、知らないんですか?」  余裕綽々という風に三千万の男が笑っている。 「言うな。それ以上、何も言うな」  俺が知らなくとも良いことだろう?見える筈無いと思ったが、俺は奴を睨み付けていた。 「こんな山奥に居ては、知らないですよね?教えましょうか?」 「やめろ!それを持って、黙って帰れ!」  己の頭にも、考えるな、と訴える。だが、悔しいことに何となく分かってしまっていた。 「鮫島は活動を再開したんですよ。しかも、大きな賞を獲り、今一番売れている作家になったんです。知りませんでしたか?」  強く握った拳で奴の顔面をぶん殴ってやりたかったが、ふるふると震える右の拳を左手で押さえ、堪えた。奴は俺を煽っている。わざと殴られようとしている。それすらもスキャンダルにしようとしている。堪えろ、俺。 「関係無い。俺には関係無いことだ!」  完全にあの人との繋がりを切ってしまいたい。ただ、完全に忘れ去ることが出来ないのも真実。一層、どちらかが死んで消えてしまえば良かった、なんてのは、とんだ女々しい奴の考えだ。 「──その通りだ……」  この言葉は一人の男が発したものだった。三千万の男では無く、その背後に立った男。その声を聞くのは酷く久しぶりな気がした。 「鮫島さん……?」  カメラのフラッシュに似た雷光の下、自衛隊の服装に似た服を着た鮫島が立っていたのだ。一瞬だったため、そんな風に見えたのかもしれない。鮫島はスーツで来る馬鹿とは違う。山に登るための格好だ。 「そいつと俺は何も関係無い」  何故だ?チクチクと針で胸を刺される錯覚に陥る。 「関係無くとも良いんですよ、私のこの手には証拠が──」 「奇遇だな、俺の手にも証拠のデータがあるんだよ。お前がヘマした証拠を収めたデータがな」  そう言った鮫島の手札は一枚どころでは無いらしい。よく見えないが数枚あるのは分かった。 「そんなデマ、信じるわけ無いでしょう?笑わせてくれますね」  笑ってはいるが、男の先程までの余裕は確かに無くなっていた。 「お前、一生のうちに何人の人間に会った?」  鮫島が淡々と続ける。おかしな質問だと俺も思った。三千万の男も、まだそこまで歳は取っていないだろう。 「数え切れないほど、沢山ですよ」  自慢気に語る男。 「残念だったな、それは皆、お前の味方では無い。お前は抹消される」 「……なっ、んだって?」  嘘か真実か分からなくなってくる。 「早く逃げた方が賢明だと思うぞ?まあ、逃げ切れるとは思えんがな」  また鼻で笑っている。声音だけだと鮫島は楽しんでいるように聞こえた。 「……っ!!」  三千万の男は声にならない悲鳴をあげ、一目散に逃げ出した。暫く、雨音の間に騒がしい雑音が聞こえていたのは、奴が……言うのは止そう。 「鮫島さん!」  俺が叫んだのは、奴がまた、黙って俺の前から消えようとしていたからだ。恐らく、声を掛けなければ、そのまま闇の中に消えていただろう。 「そのまんまじゃ風邪引くだろ?飲み物とタオルくらい……」 「俺は奴を追ってきただけだ」  つまり、邪魔者を排除しに来ただけで、俺に会いに来たのではない、と言いたいのか?奴を追って来たら、偶々俺が居た、と?皮肉なもんだな。 「少しでも、申し訳ないっていう気持ちが俺に対してあるんなら、部屋に来てくれよ」  あんたも人間だ、そのくらいの気持ちはあるだろう?奴の腕を掴もうと手を伸ばす。逃げられるかもしれないと思ったが、拒否されること無く、腕を掴むことが出来た。少し、話をしたいだけだ。  いや、俺だって、あんたを思いっきり甚いた振って捨ててやる。俺があんたに捨てられて、どんな気持ちだったか、思い知らせてやる。内心、本当はそんなことばかり考えていた。俺はいつから、こんなにも性格が悪くなったのだろうか。元から、悪かったのかもしれない。我儘なエゴで固められた存在。  そんなこと、黙ったまま俺の部屋に連れ込まれたあんたは知りもしないだろう?憎しみは人を変える。

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