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第4章 魔法の記憶⑦
◆ ◆ ◆
脚を伝う生暖かさに寒気がした。天井から伸びる鎖に腕拘束され、自分ではどうすることも出来ない。俺の中に残されたグリスの精液を掻き出すことは不可能。
酷い吐き気がする。無理矢理であっても、身体が番以外の者との性行為に拒否反応を起こしているのだ。頭痛、吐き気……、悪いことをしたと分かっているのなら、グリスの精液も拒否しろよ!俺の身体!
あんな奴の子など産みたくはない。死んだほうがマシだ。
「……くそっ!」
両腕を強く引っ張ったところで、頭上の鎖がガシャガシャと騒いだだけだった。檻の外には薬の入った瓶が置いたままにされている。徹底的に俺の心を潰す気なのだろう。
目には見えているが手を伸ばしても届かない。そもそも、腕を拘束されていて、手を伸ばせない。
意識も朦朧とする。とても気分が悪い。総てを諦めてしまいたくなる。何故、こんなことになってしまったのか。誰を恨めば良いのか。誰を恨めば、俺は救われるのだろうか。
こんな時は、人生で一番ツラい時を思い出せば良い。自分が一番無様で、一番苦しかった時のことを思い出せば良い。思い出せば良い。思い出すだけで良い。思い出せれば……良いのに……。
人生で一番ツラい時は、今この時だ。残念ながら、今に上書きされてしまった。これほど無様な時はない。総て俺が悪かったのかもしれない。産まれてこなければ良かったんだよ。
「……っ」
意識を手放しそうになり、必死に堪える。あまりの頭痛に幻覚が見え始めた。いや、幻覚か白昼夢か。意識を失った記憶は無いが、俺は、またあの夢を見ていた。母親が死ぬ夢を。
「レオ……、優しい人になりなさい……」
幼い俺の手を握り、母親が消え入りそうな声で言った。俺は少し離れた場所から、それを見ていたが、どうしても黙っていることが出来なかった。
「ふざけんな!どうやって、優しくなれって言うんだ?優しくなんてなれねぇよ!俺は優しい人間なんかじゃねぇ!」
意外にも素直に声が出て、自分でも驚いた。きっと、夢の母親にこの声が届くことはない。これは夢だ。母親は死んだ。どう足掻いても、その真実は変わらない。
「母さんが居ないと俺は生きていけないよ……」
突然、幼い俺が口を開いた。終わる筈の会話、死ぬ筈の母親、覚める筈の夢。総てがまやかしだった。この夢には……、俺の記憶には続きがあったのだ。
「レオ……、じゃあ、思い出して。本当にツラくなったら思い出して。あなたは……」
ただ、忘れていただけ。
「俺は……」
忘れさせられていただけ。
「あなたは……」
悲しみを少しでも減らすために。
「俺は……」
世界から疎外されないために。
「あなたは人間じゃない。あなたは……」
「俺は……」
生きていくために。
「「魔族」」
俺と母親の声が重なった瞬間、目の前に緑色の閃光が走った。チリチリと両目を焼かれる感覚に襲われる。だが、痛みはない。人間としての俺は、もうこの世界から消えてしまった。それと同時に夢も覚め、「レオ……、あなたを愛してる」という言葉だけが、俺の頭の中に響いた。
一瞬で目の前に、先ほどの情景が戻ってくる。忌々しい檻の中が。
頭の痛みや吐き気は変わらない。目眩もするが、俺はここから出なければならない。俺は鳥籠の中の鳥になるつもりはないのだから。
魔法の使い方など教わったことはない。母親は魔法を掛け、俺を普通の人間として育てた。魔族は餓鬼の間に誘拐されることが多かったからだと思うが、他に理由があるとしたら、殺されないためだと思う。
魔族は人間から毛嫌いされていた。一対一で戦えば、人間は魔族に勝てないからだろう。俺は城に居て知らなかったが、何年か前には魔女狩りなんてものもあったらしい。その後、ほとんどの魔族は何処かに姿を眩ませた。
あとの残った魔族は人間に協力する者だけだ。ブルハの様に……、いいや、あいつも本当は人間を恨んでいたのだろう。復讐を果たした、と言っても過言ではない。ウェンゼルを襲うのは、グリスと交換条件でも交わしたのだろう。
「……っ、切れろ!」
魔力の使い方が、本当に分からない。鎖が切れることをイメージしても、魔法は発動しなかった。一体、何をどうすれば良いのか。
目の前は霞むし、上手く頭も働かねぇ。瞼が重い、目を閉じれば意識を失ってしまいそうだ。もういっそ、目を閉じて、星でも思い浮かべてみるか。ブルハやルイスが作り出していた五芒星を。
集中しろ、意識を手放すな。大丈夫、目の前は完全なる闇だ。緑色の星は見える、それを囲む円も見える。
────俺を縛る鎖は水と一緒だ。
「っ、冷て!」
一気に目が覚めた。頭上から本当に水が降ってきたのだ。しかも、冷水が。お陰で鎖は消えたが、もう一つ、崩さなければならない物を見つけてしまった。檻だ。柵を壊すか、鍵を壊すか。将又、どちらも消し去るか。
もう目を閉じることはしない。昔から、俺は総てを一度で覚えるようにしてきた。理由は教える人間に二度同じことを聞くのが嫌だったからだ。昔の癖は、ずっと抜けない。
「はぁ……」
頭の中で魔法陣を創造し、俺は溜息を吐いた。どうやら、俺は水系の魔法が得意らしい。ビシャンッ!という音と共に檻も鍵ごと水になり、床を流れて行ったからだ。くそ、足が濡れた。そう思いながらも、俺は檻の外にあったテーブルに近付き、小さな瓶を一つ手に取った。
「……ぐっ…」
吐き気が酷い。もう間に合わないだろうか?
『避妊薬だ。飲めば確実に避妊が出来る。だが、次のヒートで反動が来る』
反動……。
コンラッドの言葉が頭を過ぎったが、そんなことを考えている暇などない。瓶から青い薬を取り出し、俺はそれを口に入れて飲み下した。水など無くとも飲むしかなかった。喉に引っ掛かりながら、ゆっくりと薬が下がっていくのが分かった。
薬がまだ効けば良いが、どうにかして効果を上げたい。仕方ない、やるしかないな。
「……っ、く……」
この行為だけは避けたかったが、俺は己の後咥に手を伸ばし、指でグリスのモノを掻き出した。憎悪で満ち溢れた感覚に歯をくいしばる。こんなものに情など存在しない。
────消えてしまえ。
「……い……っ、ぁ……」
後先など考えない。ただ、グリスの子を産みたくはないという気持ちだけが俺を動かしていた。だから、俺は下からも薬を飲み込んだのだ。
────消えてしまえ。
たとえ、これで一生子が産めなくなってしまったとしても、俺に後悔はない。
……ラウルは、悲しむだろうか。
そうだ、ラウルを助けに行かなければ。今頃、ブルハとグリスがリューシヴの騎士を連れてウェンゼルニ向かっているはずだ。
俺が戻れば……、いや、ラウルは俺のことなんざ気にしていないだろう。俺が居なくとも、ちゃんと王として皆を率いて戦うはずだ。俺には見せねぇ優しさが難点だがな。
やはり、あいつの元へ戻らなければ。
「ラウル、今行…………」
本当は、知っていた。吐き気、頭痛、目眩、もう自分の身体が限界だと言うことに。床に崩れ落ち、俺は指一本動かせなくなった。ただ、心の中で「すまない……」と呟くだけで精一杯。離れていく意識を繋ぎ止めることは出来なかった────。
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