「……っ」 　目を覚ますと、俺は同じ場所でうつ伏せに倒れていた。どれくらい意識を失っていたのか分からないが、誰かが来た様子もない。ならば、やはり城の殆どの人間がウェンゼルに向かったと考えるのが妥当だ。 　現状を理解するまでに数秒掛かったが、俺は思ったよりも元気だった。心も身体も意外と落ち着いていた。……いいや、そう思うようにした。無理にでも、感情を押さえつけた。今は気を落としている場合ではない。 　吐き気、頭痛、目眩は既に無くなっていた。一度眠れば、緩和されるものなのだ。ただ、これらは罰なのだろうか、とも思う。番を裏切った罰……。 　もしかすると、もう遅いかもしれない。そんなことを考えたくない俺は、直ぐに地下から脱出した。 　何処かで服を調達しなければならない。そう思っていると途中で数名の騎士が殺されているのを発見した。見慣れた顔ばかりだった。恐らく仲間割れをしたのだろう。 　死者には申し訳ないが、俺は一人の騎士の服を拝借することにした。人間の騎士の服を着るのが酷く懐かしく感じられた。この服でウェンゼルに入れば、きっと俺も敵と見なされるだろう。誰も俺のことなど覚えていないかもしれない。それでも、俺は行かなければならない。ラウルを助けに行かなければ。 「……嘘……だろ？」 　王の間を通り掛かり、俺は思わず唖然とし言葉を洩らしてしまった。豪勢な赤い床に、無残に転がるブルハを見つけてしまったのだ。近付いて確認してみると、呼吸も脈も止まっていた。 　グリスに殺られたか。ブルハがグリスを裏切ろうとしたのか、グリスがブルハを裏切ったのか、どちらにせよ、これは報いだ。 　ブルハが死んだことにより、俺に掛けられた魔法は解けなくなってしまった。魔法を解くには掛けた時に思ったことや言葉を知っていなければならない。ほぼ魔法を解くのは不可能だろう。 　一生、俺はこのままだ。自分じゃ死ねない。ずっと、オメガのまま。ラウルが居なくなったら、俺は一生、この魔法に苦しめられる。こんなことを思うなんざ、馬鹿みたいだが、総てお前が俺に植え付けた感情の所為だ、責任取れよ。 　こんな、言葉で表せないような感情が無けりゃ、俺はお前に会いたいとは思わない。顔が見たいと思わない。声が聞きたいとは思わない。 「……くそ、まだ居るのか」 　当然のことなのかもしれないだが、城の見張りだけは残っていて至る所をウロついていた。 　ただ一つ、俺は忘れていたことを思い出した。気を失って、また忘れていたのだ。自分が魔族だということに。 　わざわざ門から出て行ったり、塀を登ったりするのは馬鹿らしい。自分の魔法が何処まで通用するのか分からないが、最低でも壁に穴を開けることくらいは出来る。 　壁を通り抜ければウェンゼルの城に辿り着いていれば良いのにと、これほど願ったことはない。だが、そう簡単に行くわけもなく、崩れる様に壁に穴は空いたが、その先は裏の森だった。つまり、その先にリューシヴとウェンゼルの境界である山があり、そこを抜ければウェンゼルに入ることが出来る。 　塀を登れば見張りに見つかるが、壁に穴を空けて素早く外に出た俺には気付かなかったようだ。誰に追われるでもなく、デカイ熊を見掛けることもなかった。ウェンゼルに近付くにつれて、悲惨な状況が視界に入り込んでくる。 　視界を拡げるために薙ぎ倒された木々、逃げ場を無くすために燃やされた山小屋の数々、無意味に粉々にされたウェンゼルの町の看板。見知らぬ者たちで作られた騎士団は、金目当てでここまでするのか。 　いや、そうじゃねぇ。自国への恨みを他国にぶつけてやがるだけだ。不満不服をウェンゼルにぶつけているだけ。 「ひでぇな……」 　町の中を歩きながら、呟いた。殆どの家が燃やされていたのだ。綺麗に並んでいた踏み石は無残にも砕かれ、バラバラにされていた。 　ウェンゼルの町の皆は避難したのだろうか？壊されてしまって隠れるための場所はない。山に逃げても同じことだ。だが、山にも町にも死体はなかった。ならば、逃げ場はウェンゼルの城しかない。 　一瞬、「全滅」という言葉が頭を過ぎったが、ラウルが敵を城に入れるはずがない。民を守って……、一人で戦っているかもしれない。あいつならやり兼ねない。いくら強くとも、いくら身体に痛みがなくとも、そんなことをしたら死んじまう！ 「ラウル……！」 　町から城への距離は、そんなにありはしない。目と鼻の先だというのに、至極遠く感じられた。焦る心と苛立ちがぶつかり合う。何がどうなっているのか、本当に分からない。頭が混乱している。これは感情がぶつかり合った所為ではない。 「殺すなと言ったでしょう！」 　破壊されかけた表門の前でグリスが怒鳴り散らしていたのだ。その後ろには一列に並んだ狼人の騎士団の姿が見える。反対側の地に転がるのは無数の人間の死体。狼人の死体は一つもない。 　残った人間は数えられるほどで、ただの民が訓練を積んだ狼人の騎士団に勝てるわけがなかったのだ。人間側は自分たちで戦力になる騎士たちを仲間割れで殺してしまったのだから。 　勝ち負けは決まったはずだ。しかし、何かがおかしい。戦いは終わったはずだ。これはその静けさか？何故、グリスは一人で怒鳴り散らしているのか。奴はウェンゼルを崩壊させ、ラウルの心を傷付けたかっただけだろう？ 　────奴は狼人側として怒っている？ 「まさか……っ」 　声が震える。残った人間の一人を退け、俺は狼人の騎士団の方へと駆け出した。 「そんな……、ラウル……、ラウル！」 　グリスの横を通り過ぎ、騎士たちを押し退けようとした。だが、人間の騎士服を着た俺はただの人間としか見られていないらしく、狼人の騎士たちは俺を通そうとしなかった。 「退けよ！俺だ！レオだ！」 　叫びながら、騎士たちの間から手を伸ばす。直ぐそこにラウルは倒れていた。伸ばした手が届きそうで届かない。何故、一人だけ、そんなにも負傷しているのか。ラウルの身体には矢が何本も刺さり、血が大量に流れ出していた。 「通してやれ」 　聞き覚えのある声が静かな空間に響いた。コンラッドだ。一体、今まで何をしていたのか、奴は門の中から出てきた。 「ふざけんなよ！お前ら、王を置いて、何やってたんだよ！」 　コンラッドを見て、俺は理解した。恐らく、この狼人の騎士たちもここに来たのは数分前なのだ。 　それまでラウルは一人で……。 　ラウルの傍に跪き、俺はそっと奴の頬に手を伸ばした。まだ温かい。 「民を裏の森に避難させていた。それが王の命令だ」 　コンラッドが冷静な口調で答えた。本当は分かっていた、ラウルなら民を第一に考えるだろうってことくらい。身体が全快してなくとも、病み上がりでも、負傷していても、ラウルは一人で戦うってことぐらい。 「それでも、なんで……、なんで一人で……っ」 　今まで我慢してきたんだよ、我慢して、我慢して、我慢して、涙なんざ忘れてたんだよ。ふざげんな、俺を泣かせんじゃねぇよ。 　込み上げる感情を止めることが出来ない。止め方なんざ忘れちまった。知らねぇよ、こんな感情。 「……っ、グリス！このくそったれ！ぶっ殺してやる！」 　俺はまだ近くでブツブツと文句を言っていたグリスに掴み掛かった。何もかもこいつから始まったんだ。総て、このくそったれの所為だ。殺してやろうと思ったが、死は逃げ道でしかないことを俺は知っている。 「覚悟しろよ？お前に俺と同じ苦しみを与えてやる」 　お前がラウルに与えたように、お前も俺から苦しみを与えられれば良い。怒りは、ひとの力を強くする。孤独は、ひとの感覚を鋭くする。気付けば涙は止まっていた。 　────こいつに同じ痛みを。 　俺が手を翳すと、グリスの額で緑の魔法陣が弾け飛んだ。魔法陣が先に消えたのか、グリスが先に消えたのか分からない。数なんざ数える暇もないくらいの一瞬だったのだ。 　グリスは誰も居ない世界に消えた。俺の創造した世界で俺と同じ罰を受けて、生き続ける。奴がこれから抱えていくものは孤独とヒートだ。本物のな。 「おい！！生き残った人間共！！よく聞け！！」 　俺は両眼をかっ開き、人間側に叫んだ。戦いでやられた心に俺の声は届くだろうか。 「前王であるリューシヴとその息子であるアスルは死んだ！この世界で王の血を引く者は俺だけだ！今日から、この俺がリューシヴの王となる！嫌な奴は国から出て行け！だが、残った者には平等の富をくれてやる！国に戻って皆に伝えろ！」 　俺がグリスに魔法を掛けたからだろうか、人間共は怯え、逃げるように散っていった。これからどうなるか分からないが、俺は国を立て直したい。 「お前……、人間の王の息子だったのか……」 　狼人の騎士たちが騒つく。コンラッドも少し驚いた表情をしていた。そりゃそうだ、言ってねぇからな。 「そんなこと気にしてる場合じゃねぇだろ？これからリューシヴとウェンゼルは一つの国になる」 「何を人間如きが偉そうに」 　そんな言葉が聞こえた。狼人たちの言いたいことも分かる。だが…… 「ラウルはまだ死んでねぇ。瀕死の状態だが、ちゃんと生きてる。俺が……どうにかする」 　再びラウルの横に膝をつき、その頬に手を伸ばした。大丈夫、ラウルは生きている。 「お前は俺より強いんだ。強くて優しい。だから、死ぬな……、俺はまだ何も言ってない……」 　誰かを救いたいと思うのならば、心を強く持て、魂を強く持て、そして、強く願え。 「アルマ……エスペランサ……」 　そんな言葉が無意識に出ていた。何の言葉か分からないが、俺の中に自然と植え付けられていた言葉だ。母親の言葉かもしれない。 「アルマ エスペランサ……！」 　母親が俺にくれた魔法の言葉。魔法陣がなくとも、呪文で魔法は掛けられる。 「ラウル、起きろよ。目を覚ませ」 　あまり動かしてはいけない。分かっていても、俺はラウルに目を開けて欲しくて、奴の肩を揺すった。 「ラウル……」 　俺が呼び掛けようとラウルは目を開けなかった。本当に、ただ眠っているみてぇな顔だ。一人だけ幸せそうな顔しやがって……。残された俺の気持ちも考えろよ。死んでねぇのは分かってるんだぞ？ 　まだ温かい、まだ息をしてる、まだ音が聞こえる。 「っ、起きろよ！」 　周囲が騒つくのも分かる。俺が拳でラウルの胸を強く叩いたからだ。 「一人で死ぬなんざ許さねぇぞ！」 　もう一度、強く叩く。痛みのないラウルには無意味かもしれない。俺が与える痛みなんざ、奴には届かないかもしれない。 　それでも、俺は諦めねぇぞ？ 「諦めんな！この大馬鹿野郎！」 「……ぃ……」 　もう一度、胸を打つために腕を振り上げた瞬間だった。何かが聞こえた気がした。 「……ラウル？」 　奴が何かを言ったのか、他の誰かが言ったのか分からない。俺はラウルの口元に耳を寄せた。 「痛い」 　そうハッキリと聞こえた。今度は、ちゃんと音になって俺に届いた。 「……っ、ラウル……、このくそったれ……」 　俺は強い、俺だって強い、それでも隠し切れない感情はある。俺だって、自分の心には逆らえねぇよ。 「……綺麗な瞳だ。……どんな宝石よりも美しい……」 　薄眼を開けたラウルが、ふっと微笑んだ気がした。 「……うるせぇよ……っ」 「……懐かしい匂いがする。……やはり、貴様の母親だったか……」 　消え入りそうな声が手を伸ばし、俺を静かに引き寄せた。ラウルの言葉にハッとし、俺の中で線が一本に繋がる。 　幼い頃に総ての痛みを魔法で封じたラウル。そのラウルに魔法を掛けた貧しい身重の魔女。懐かしい……、魔女と同じ匂いを持つ俺。 　ラウルに魔法を掛けたのは俺の母親だった。そして、今、俺は母親がラウルに掛けた魔法を解いたのだ。 「……貴様が……愛しい」 　感情を伝える言葉、心の篭った言葉、俺に向けられた言葉、ただその言葉に強さはなかった。力無く、ラウルの手が俺から離れていく。落ちるように、崩れるように。 「ラウル？……おい！ラウル！」 　静まり返った城の前、そこに俺の声だけが虚しく響いた。