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第3話
「『天国への階段(ステアウェイ・トゥ・ヘブン)』、という単語に心当たりはあるか」
少し時間を置いたことで頭が冷えたのか、本題に入ったせいか、その口調は常と変わらず冷静である。ディンゴの先制攻撃で脱線しかけたが、この件は今や血筋(ブラッドタイプ)研究の第一人者であるシメオンが主導するよう兄たちに命じられた内容なのだ。
「ないな。安手のドラッグの名前のようだが」
一歩下がって見守っているジョシュアの存在が効いているのか、ディンゴも彼にしてはシンプルな回答を寄越した。シメオンもいちいち突っかからず、さっさと話を進める。
「そのとおりだ。貴様のインペリアル化実験を元にして、短時間だけインペリアルになれるという触れ込みで『天国への階段(ステアウェイ・トゥ・ヘブン)』、通称STHというドラッグが広がりつつある」
あらかじめ聞いていた話ではあるが、ワスレナはごくりと喉を鳴らす。
ホームと言えるアジトへ踏み込まれたことに続き、ディンゴがゴールデン・ルールに捕まったニュースが大々的に流されたことにより、サンスポットは完全に壊滅した。アンチゴールデン・ルールを標榜する最大の組織へと育っていた彼等の瓦解により、似たような他の組織まで連鎖的に勢いを失った。影武者の身でジョシュアに弓引いたディンゴの存在感は、それほど大きかったのだ。
だが、個々の構成員全てが死に絶えたわけではない。ジョシュアが総帥に戻ったことで、セブランは再びアンチゴールデン・ルール組織撲滅の実働隊リーダーとして動けるようになった。それまでリーダーを務めていたシメオンと改めて連携し、ここぞとばかりに残党を殲滅させようとしているが、その手を逃れて逃げ延びている者がいる。大抵は命があるだけの無力な状態であるが、起死回生を狙って蠢いている不届き者も確認されていた。
そんな彼等の次なる一手として名が挙がっているのが、STHというわけだ。
「今はまだ、ダウンタウンの一部で売買されているのみだ。薬効はないに等しい。ただのカプセルにその名をつけて売っているだけ、という物も多い。しかし、つい先日、後遺症と引き換えにしてだが、実際にインペリアルめいたオーラを出せるようになったとの報告があった」
コンセプションがフェロモンを発するように、インペリアルもオーラを放つことがある。ただし発情フェロモンのように時期が来れば自動的に漂い始めるものではなく、流行を経て定着しつつあるオリエンタルの言葉で言うところの「キ」のように、意図して強者の空気を醸すことによって周囲を威圧するのだ。ディンゴの挑発に乗ったシメオンが出したようなものである。
「なるほど。本来は長時間の手術によって付与せねばならぬインペリアル化促進物質を、経口摂取でも人体に影響を及ぼす濃度で売り捌いているわけか。後遺症も出るだろうな」
さもありなん、とうなずくディンゴの態度を観察しながら、シメオンは続けた。
「捕らえて以降の貴様の管理は徹底している。何度も調べたが、貴様から情報が流出した経緯は認められない。そもそも貴様は、誰彼構わずインペリアルにしようなどとは思っていないからな」
「当然だ。私レベルのノーマルであれば、天が誤って付与した血筋(ブラッドタイプ)を修正するのが義務と言えよう。その器がない愚物の血筋(ブラッドタイプ)だけを無理やり変えたところで意味がない」
シメオンが指摘したように、ディンゴが開発したインペリアル化手術は基本的にディンゴ自身が対象である。ヴェニスに異様な量の発情フェロモンを垂れ流させたりと、他にも様々な違法改造手術を開発していた形跡が見つかっているが、それらも副次的なものにすぎない。自分がジョシュアに、ゴールデン・ルールに成り代わることが目的なのだ。
「だが、貴様の部下はその高邁な思想を理解せず、金儲けの道具として妙な薬をバラまいている。インペリアル化手術についての情報を持っている部下は限られているだろう。教えてもらおうか」
ここが話の核だ。切り込んできたシメオンを見つめ、ディンゴは琥珀色の瞳を細めた。
「それはできん相談だな。部下たちは世間を混乱させ、貴様らの支配を揺るがせるためにやっているのかもしれん」
誰彼構わずインペリアル化の恩恵を与えるのは本意ではないが、それがゴールデン・ルールへのダメージとなるなら話は別だ。はぐらかすディンゴをシメオンは強く睨みつけた。
「必要な情報を寄越さないのなら、貴様の処遇もそれなりのものになるぞ」
「脅す気か? 私はお前の愛する飛行機を落としてやった時に殺されることも覚悟していた。今さらの話だ」
生き延びたのは、別にディンゴの希望ではない。シメオンはうそぶく彼の隣、分厚い防護壁で隔てられた独房に入れられているヴェニスを一瞥した。
浅黒い肌と陰鬱な銀髪が特徴的なコンセプションは、壁際に座ったまま置物のように身動きしない。大怪我から目覚めて後、側にディンゴがいないと知った彼は狂ったように暴れたが、「手間をかけさせるとディンゴを害する」と脅されて以降はずっとあの調子だ。
「お前が妙な真似をすれば、お前が庇ってやったヴェニスもただではすまんぞ」
「別に構わんが。アレが生き延びたのもまた、私の意思ではない」
ヴェニス本人の意思には触れず、ディンゴは堂々と言い切る。ロールアウト式典での事件の際、射殺されかけていたヴェニスをディンゴが庇ったのは事実だ。しかし、その先の生殺与奪権を握っているのはそっちだろう、と言いたげである。シメオンの放つ空気が氷点下まで下がった。
いけない。このまま話を進めるのは誰にとってもよくない、と判断したワスレナは意を決して二人の会話に割り込んだ。
「手術の内容を知っているのは、ダードリー兄弟ですか、ディンゴ様」
「……ワスレナ、貴様」
虚を衝かれたディンゴが短くつぶやく。それはワスレナの指摘が的を射ていることの表れだった。
「僕もあなたの部下でしたから。組織の重要事項を教えてもらえるような立場ではありませんでしたが、長く生活を共にしていれば、おおよその見当はつきます。あなたの手術の執刀医は、彼等だったんでしょう? ……本当は、あなたの口からお聞きしたかったのですが」
そうしてもらえれば、ディンゴも、そしてヴェニスの境遇も多少は改善されただろうに。語尾を濁すワスレナに、セブランが食いついてきた。
「へー、あいつらか。兄貴のほうはすでに収監してたな。そいじゃ兄貴に聞けば、弟のほうの居場所も分かる?」
STHの薬効解析などについてはシメオンの管轄だが、生産者や売人を締め上げるのはセブランの仕事だ。目を輝かせる彼に、情報を提供しておいてなんだが、ワスレナは難しい顔をした。
「どうでしょうね……兄弟とはいえ、あまり仲がよくはなかったので。むしろ、処罰を軽くすることを見返りにして、弟捜しに協力させたほうが効率がいいかもしれません」
「そうだな。二人で一緒にやりたがったのは、私の手術とお前を抱く時だけだった。キョーダイドン、いやサオキョーダイだったか? せっかく二人も兄弟のいる男の片翼(ベターハーフ)になったのだから、同じプレイで楽しませてやればどうだ」
記憶に上らせまいとしていた景色をディンゴの声が掘り起こす。ぐっと拳を握るワスレナの横で、シメオンも同じことをしていた。そんな二人を見やり、ディンゴは冷ややかに質問を投げかける。
「残念だ、ワスレナ。お前は本当に、ゴールデン・ルールの人間に成り下がってしまったようだな。自分さえよければ、虐げられているコンセプションたちなど、どうなってもいいのか?」
「……僕は……!」
堪りかねて反論しようとしたワスレナをシメオンが背に庇った。白い壁のように立ち塞がる彼の体と熱いインペリアルオーラに阻まれて、ディンゴの気配が意識から消える。
「貴様も知ってのとおり、現在のゴールデン・ルールはコンセプション差別の解消を目指している。従ってゴールデン・ルールに協力し、コンセプションとして能力を発揮することは他のコンセプションにとっても利益になる」
ジョシュアが周囲の反対を押し切って決めた方針だ。彼の最愛、エリンのためだと揶揄されても「そうです」と平然と答えてきた。ディンゴのためでは、なく。仮にインペリアルになっても、ジョシュアの片翼(ベターハーフ)にはなれない彼のためではなく。
「貴様一人が王となるために、俺の片翼(ベターハーフ)を傷つけてきた野郎が知ったような口を利くんじゃねえ」
荒い語調でシメオンが結ぶと同時に、ラボの中はしんと静まり返った。シメオン以外の誰もが次の言葉を探す気まずい空気が流れること十秒、ディンゴの唇が動く。
「ハルバート」
「え?」
「ハルバートを忘れたか、ワスレナ」
「え、いえ、覚えていますが……」
ダードリー兄弟はディンゴの側近としてアンチゴールデン・ルール活動の作戦を立てることが多かったが、ハルバートは彼等の命令を受けて動くヒットマンだ。ただし腕に覚えのある彼は、現場のことは現場に任せろという考えの持ち主で、しばしば命令を無視して行動するため煙たがられることも多かった。
「ダードリー兄弟よりも、ハルバートを追ったほうがいいかもしれんぞ。あいつは研究に関しては素人だが、やたらに顔が広い上、私を追い落とそうと目論んでいる向きがあった。手に入れた情報を自分が扱えないからと、流した可能性もある」
すらすらと言われ、しばし呆然としていたワスレナはやっとのことで彼を呼ぶ。
「……ディンゴ様。ありがとうございます」
「気が削がれたわ、下らん。ダードリー兄弟はまだしも、ハルバートのやつがおかしな薬をバラまいているとすれば、私にとっても不利益になる恐れが高いしな。さっきも言ったが、金さえ払えば誰でもインペリアルになれるような世界を私は目指していない」
帝王然とした物言いは、およそゴールデン・ルールの根城に監禁されているとは思えない。その上で彼はぬけぬけと要求した。
「さあ、有益な情報を与えてやったのだ。手足の拘束ぐらい解いてくれるな?」
「ああ、夕飯はステーキにしてやるよ」
セブランが茶化し、シメオンとジョシュアにウインクを飛ばした。
「やったな、これで足がかりができた。お前とワスレナちゃんのおかげだぜ、シメオン」
褒められても、当のシメオンはムスッとしている。
「よくない。ワスレナが傷ついたし、兄貴たちにも無礼な発言があった」
「うん、まあ、そうなんだけど……そういうところは片翼(ベターハーフ)を得ても変わっていないね、シメオン……」
融通の利かない性格の弟にセブランとジョシュアは苦笑いするが、場の空気は和やかなものになりつつあった。そこへ、場違いに元気な声が割り込んできた。
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