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第1話

「櫂(たく)……。いつまで寝てるの」  身体を揺すられ、新川櫂は顔を顰めた。 「もうお昼になるわよ。いい加減、起きなさい」  母の声に引き戻されるように、意識が覚醒していく。 「ん……」  先ほどまで全身を苛んでいた息苦しさは、きれいさっぱり消え去っていた。 「かぁ……さん?」  櫂は気怠さの残る身体で寝返りを打つと、ベッドの横に立って心配そうな顔をする母を見上げた。 「すごくうなされてたけど、また……あの夢?」 「……うん」  頷くと、母の眉間の皺がいっそう深くなる。 「大丈夫? ここ最近、毎晩じゃないの。顔色も悪いし、食事だって……」 「心配いらないよ。昨日忙しかったせいで疲れてるだけだから」  櫂はむくりと起き上がって母の言葉を遮り、薄く微笑んでみせた。 「それならいいけど、こんなに毎日蛇の夢を見るなんて、何かよくないことが起こるんじゃないかしら……」 「ただの夢だよ、母さん」  少し語気を強めて再び遮ると、母は何か言いたげな表情をしつつも押し黙った。 「だいたい白い蛇は神様だから縁起がいいって、函館のじいちゃんが言ってたって教えてくれたのは母さんだろう?」  もう何年も会っていない祖父の穏やかな笑顔が脳裏に浮かぶ。  母方の実家が都内にあったこと、父が転勤の多いビジネスホテルチェーンの社員だったこともあって、北海道に暮らす父方の祖父母とは疎遠がちだった。  ――元気かな、函館のじいちゃん。  十数年前に祖母に先立たれて以来、祖父は一人で暮らしている。  櫂はベッドから抜け出して淡いブルーのパジャマの上にカーディガンを羽織ると、自分より頭一つ分小さな母を見下ろした。 「そうは言うけど……。こう毎日じゃ心配にもなるでしょ?」 「大丈夫だって。それに、じいちゃんの言ってたとおり、いいことの前触れかもしれないだろう?」  まだ何か言いたそうな母を促し、一緒に一階のリビングへ向かった。  ――昔は蛇の夢を見ても、こんなふうにうなされたりしなかったんだけどな……。  櫂はいつのころからか、白い蛇の夢をよく見るようになった。  はじめて白い蛇が夢に出たときのことは覚えていないが、当時の話は何度も両親から聞かされてきたから、今では自分の記憶のように感じている。  当初、櫂は今と同じように連夜、蛇の夢を見たらしい。  幼い息子からそのことを聞いた両親は不安に思い、父方の祖父母に相談したという。何故なら、父方の実家のある地域に、白い大蛇にまつわる言い伝えが残っていたからだ。 『ああ、もしかしたら櫂は、蛇憑きなのかもしれんな』  祖父から返ってきた答えに、両親は戦慄した。蛇憑き――などというおどろおどろしい言葉が我が子に向かって放たれれば、どんな親でもショックを受けて当然だ。  しかし祖父はすぐ「怖がることはない」と、宥めるように土地に伝わる白蛇の話を聞かせてくれたらしい。  その話によると、随分と昔から白い蛇は水神の化身とされ、有り難い存在とされていたのだという。言い伝えの中には、蛇の夢を見た子どもは水神の依り代としてとても大切にされ、日照りの際には雨乞いをして土地を潤したという話もあるらしかった。 『生贄にされたとか悪い言い伝えは残っていないし、気にすることはない』  両親は祖父の言葉を訝っていたが、櫂は夢の内容が恐ろしいものではなかったこともあってか、ほとんど気にすることなく成長した。やがて大きくなるにつれて白い蛇の夢を見る回数も減っていき、大学を卒業するころには年に数えるほどしか見なくなっていたのだ。  しかし――。  三カ月ほど前から、櫂の夢に再び、白い蛇が現れるようになった。  そして、毎晩、悪夢にうなされ、金縛りに遭い続けている。 「お昼、今日は少し冷えるから、鍋焼きうどんにしようと思うんだけど、食べるでしょ?」  階段を下りたところで、母が振り返って訊ねる。その表情からは、息子を必要以上に心配している様子が窺えた。 「うん。とりあえず、顔、洗ってくる」  櫂は作り笑いを浮かべて頷くと、母の視線から逃げるように洗面所へ向かった。  母の気遣いが、櫂には心苦しくて仕方がない。  白い蛇の夢以外に、母が間もなく三十歳になろうという息子に過剰なまでに気を向ける理由がほかにもあるからだ。  洗面所で鏡に映った自分を見つめ、櫂は重い溜息を吐いた。  もとから色白でほっそりとした顔立ちだが、今は顔色も悪くげっそりとして、目の下にはクマができている。母親似の丸い目も、瞼が垂れて一気に老けたような印象だ。癖のない黒髪はパサついていて、いっそう疲労感を際立たせている。  疲弊してやつれた自分の顔に、思わず苦笑いが浮かんだ。 「まだ、引き摺ってるのかな……」  櫂は今、麻布にあるカフェの店長を務めている。お洒落でインスタ映えするメニューが多いと評判のカフェで、雑誌やインターネットで紹介されることもしばしばだ。また、櫂のほっそりとして穏やかな面立ちが女性客に受け、イケメン店長としていくつかの媒体に顔写真を掲載されたこともある。  ゲイであることに引け目を感じている櫂は、もともと人前に出るのは得意ではなかった。本音を言えば、取材も苦手だ。  だが、バリスタの仕事に従事しているときだけは、性癖のことを気にせずにいられた。客が自分の淹れたコーヒーを飲んで幸せそうにしているのを見ると、存在を認められたみたいで嬉しかった。  学生時代にバイトとしてたまたま選んだバリスタの仕事を、櫂は天職だと思っている。  しかし三カ月ほど前、些細なことがきっかけで、店にいづらくなるような出来事が起こった。  もともと櫂は性癖がバレることを恐れるあまり、ゲイの友人は一人しかいない。学生時代、偶然同じゼミで知り合った彼は、当時すでにカミングアウトしていて、櫂にとって唯一悩みを打ち明けられる存在だった。 『恋がしたいなら、出会いのチャンスは自分から掴みにいかないと駄目だよ』  友人にそう言われ、櫂は一世一代の勇気を振り絞り、昨年のクリスマスの夜、ゲイバーのクリスマスイベントに参加したのだ。  あらゆるゲイコミュニティと距離をとってきた櫂は、その日、はじめてゲイバーに足を踏み入れた。  はたして、そこは櫂にとって夢のような空間だった。  この場にいるのが、皆、自分と同じ仲間だと思うと、不思議な昂揚感に包まれた。自分を偽らなくてもいいという解放感に、ふだんほとんど飲まない酒を飲み過ぎた櫂を、いったい誰が責められるだろう。  酔いもあって警戒心が薄れた櫂は、イベントで盛り上がる中、その場のノリで誰が写しているとも分からない集合写真に笑顔を向けた。  その写真がSNSに投稿されたのだ。  翌日には、そこに写った櫂が人気カフェの店長だと気づいた誰かが、悪意のあるハッシュタグをつけてインターネット上に拡散させた。結果、カフェの公式ブログやSNSが炎上し、嫌がらせ目的の客がやってきたりした。  それから数カ月が経って、ようやく店は落ち着きを取り戻しつつある。  ただ、櫂は不本意な形でカミングアウトすることになり、カフェのスタッフや友人との関係もいまだにぎくしゃくしたままだ。  両親は事情を知らずにいるのか何も言わない。しかし、幼い子どもに接するような母の態度を見ると、何かしら気づいているのだろうと思う。  今の時代、同性愛者であることを理由に辞職を促されたりはしないが、いつまた同じようなことがあるか分からない。  両親にだって、心ない言葉が投げつけられるかもしれない。  そう思うと、櫂はいたたまれなくて堪らなかった。  そうして、職場や自宅で居心地の悪い毎日を過ごすうち、十数年ぶりに白い蛇の夢を見たのだ。  最初は数日おきだったのが、今月に入ってからは毎晩、白い蛇に身体をきつく締めつけられる夢を見るようになった。お陰でもうずっと睡眠不足が続いている。 「たーくー! もうすぐできるわよ」  キッチンから母の呼ぶ声が聞こえ、櫂は慌ててバシャバシャと顔を洗った。 「これ以上、心配かけないようにしないと」  タオルで顔を拭い、もう一度鏡を見つめると、櫂は両手で頬を挟むようにして叩いた。  そして、急いでキッチンに向かうと、リビングのソファに腰かけて電話している父の背中が目に入った。父の姿に、今日が日曜だったと気づく。日本中を転々としながらホテルマンを続けてきた父は、今は都内の本社で営業部長となっていた。 「函館のおじいちゃんからみたい」  母が鍋敷きをテーブルに並べながらそっと教えてくれる。 「え……?」  ついさっき、母と祖父のことを話したばかりだったため、タイミングのよさに驚く。  櫂が椅子に腰を下ろすと同時に、父が通話を終えた。 「なんだ、まだそんな格好をしているのか。仕事はどうした」  ソファから立ち上がった父が、櫂を見るなり呆れ顔で言った。 「今日は……公休消化で休みをもらったんだ」  バツの悪さを覚えつつ答える。  すると、今まで日曜に休んだことなどなかったせいか、父は少し不思議そうな顔をした。 「お義父さんから電話してくるなんて珍しいわね。なんのお話だったの?」  テーブルにつく父の前に鍋焼きうどんを置きながら母が訊ねる。母方の祖父母が数年前立て続けに鬼籍に入ったこともあってか、母は函館の祖父のことを何かと気にかけているようだった。 「うん、それなんだがな……」  箸を手にする様子もなく、父が向かいに座った櫂を見つめる。 「櫂」 「……なに?」  何を言われるのだろうと少し緊張しつつ、櫂は父の言葉を待った。 「お前、函館で自分の店をやってみないか?」 「……え?」  一瞬、言葉の意味が理解できず、きょとんとなる。  悪夢にうなされながら目を覚ました、日曜。  父から投げかけられた問いかけが、諦めかけていた人生の大きな転機となるとは、櫂自身、欠片も思ってもいなかった。

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