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第2話

 美しい坂道と西洋建築が彩る景色が人気の函館市街地も、ゴールデンウィークを過ぎると行き交う観光客の姿はそう多くはない。 「ハァ……。こんなことなら、素直にタクシーにすればよかったな」  大きなキャリーバッグの持ち手を握り直すと、櫂はうっすら額に滲んだ汗を手の甲で拭い、忌々しげに坂の先を睨みつけた。  二十数年ぶりに訪れた函館の街を少し歩いてみたくて、基坂の下でタクシーを降りたのだが、後悔したところであとの祭。元町公園や旧イギリス領事館あたりまで上った時点で息があがり、両腿に乳酸が溜まっていくのを実感する。 「けど、もう少しのはずだから頑張るか」  己を鼓舞するように呟くと、櫂は再び歩きだした。  観光名所として名高い旧函館区公会堂から少し離れた細い坂道の先には、蛇のようにうねった階段が続いている。 「たしかにこの坂道と階段は、お年寄りじゃなくてもきついよなぁ」  うんざりしつつ、ひと月ほど前の父とのやり取りを思い出す。 『実は函館のじいさんが、やっと同居する気になってくれてな』  両親が一人で暮らす祖父を何度も呼び寄せようとしていたことは、櫂もよく知っていた。しかし、祖父は十数年もの間、頑なに拒み続けていたのだ。 『坂道や階段がきつくなったと言ってな。ご近所さんやよく知りもしない他人に迷惑をかけるぐらいなら、潔く息子夫婦の世話になった方がいいと思ったらしい』  聞けば祖父は数日前、自宅へ続く階段で転んで怪我をしたという。幸い軽い打撲のみで済んだらしいが、それが同居を決定づけたということだった。 『だが、うちで同居するのはいいが、どうしてもあの家を手放したくないと言って譲らない。なんとかじいさんを納得させる方法がないか考えていたんだが……』  坂道を上りきり、細い石造りの階段を見上げて櫂は溜息を吐いた。 「だからって、いきなり自分の店をやれなんて、ふつうは思いつかないだろ」  祖父と電話で話した直後、いきなり父から投げかけられた言葉が、ひと月半後には実現されようとしているのだから勢いというものは恐ろしい。 「これから毎日、この坂を上ったり下ったりするのか……」  小さく独りごちてから、意を決して階段を上り始める。  段数にして八十八の階段を、重いキャリーバッグを引っ張り上げるようにして上った先には、なんとも趣きのある古民家が静かに佇んでいた。質素な板塀と腕木門の向こう側には、松の古木や若葉の茂る桜など様々な木々が植えられている。周囲に民家はなく、背後は青々とした木々が茂り、函館山の頂へと続いていた。 「たしかに、建物だけでもお客さんが呼べそうだ」  明治時代に建てられたという蔵を見上げ、櫂は思わず笑みを浮かべた。少し汚れているが、白い漆喰で壁を塗られた蔵はとてもインパクトがある。坂と階段という難点はあれど、函館という日本国内だけでなく海外にも知られた観光地で、旧函館区公会堂やハリストス正教会など歴史的建造物の名所からもほど近い立地に恵まれている。ほかにも、家の下の階段にたどり着くまでには、明治から昭和初期に建てられた擬洋風民家も多く見られ、観光客は飽きずに坂を上がってくることができるだろう。  振り返れば、函館港を一望する絶景が広がっていた。夜になれば函館山山頂にも劣らない見事な夜景が望めるに違いない。 『お前の手腕次第で、とんだ繁盛店になるかもしれないぞ』  父は自分の実家が観光客相手に売りになる要素を持っていると、いつから認識していたのだろうか。業種は異なれど、櫂は父の営業手腕に感心するばかりだった。 「……ここで」  再び祖父の家を見上げ、櫂はコクリと喉を鳴らした。 「生き直せる……かな」  ゲイであると自覚したときから、なんとなく、人並みの幸福は得られないと思っていた。  ともに働いた仲間や信頼してくれた上司、そして唯一のゲイの友人に迷惑をかけ、家族にまで言葉では言い表せないくらいの心配をかけてきた。  心の傷を抱え込んだまま、生きる意味を見失い、すべてを諦めかけていたのだ。  けれど……。 『お前、カフェの仕事が好きなんだろう? だったら、いつまでも雇われ店長なんかで燻っていないで挑戦してみろ』  やはり、父は何もかも知ったうえで、気にとめてくれていたんだろう。そうでなければ、咄嗟に函館の家でカフェをやってみないかなんて、思いつくはずがない。  父なりの優しさに背中を押され、やっと、新しい一歩が踏み出せる気がする。  ――生まれ変わるつもりで挑戦するって、決めただろう。  櫂は東京を離れると決めたときに、それまで自分を形作っていたすべてを捨てた。家族と数少ない友人以外、家具や服、携帯電話も、何もかも……。 「よし」  小さく頷くと、櫂は腕木門の扉を開いた。  函館の祖父の家には、小学校入学前の夏に一度訪れたきりで、当時の記憶はほとんどない。櫂の節句や入学式の際には、祖父母が東京まで出てきてくれるのが常だった。  けれど、庭に一歩足を踏み入れた途端、櫂の胸に懐かしさが込み上げた。それはまるで、この古い家が櫂の故郷だと錯覚しそうなほどの熱量で……。 「どうして、帰ってきた……なんて、思うんだ……?」  カットソーの胸許をぎゅっと掴んで首を傾げるが、答えは見つからない。  櫂は不思議な昂揚感を抱いたまま、ゆっくりと庭を進んだ。  門を入って右手に、古いけれどしっかりとした白壁の蔵。まっすぐ進むと平屋建ての母屋の玄関になる。それほど広くない前庭には、門から玄関までと、蔵の入口に向かって天然石の飛び石が敷かれていた。 「ああ、勝手口と蔵の入口が渡り廊下で繋がってるのか」  母屋も蔵も古いけれど、しっかりと手入れされていたらしい。  櫂はそのまま玄関に進むと、鍵を開けてガラスの嵌められた引き戸に手をかけた。 「お邪魔します」  名義変更の手続きも終えて、土地も建物も自分のものになってはいるが、思わずそう言わずにいられない。  引き戸を開けると、雨戸などすべて閉め切っているせいか、昼下がりだというのに家の中は薄暗かった。  広めの三和土にキャリーバッグを置き、スニーカーを脱いで上がり框に上がる。昭和初期の建物だけあって天井が低く、一七〇センチに満たない櫂でもちょっとジャンプすれば天井に手が届きそうだ。 「とにかく、窓を開けて空気を入れ替えよう」  祖父がこの家を離れて一週間が過ぎている。その間ずっと閉めきられていたせいか、屋内の空気が澱んでいるように感じられた。  櫂は函館に旅立つ前、東京へやってきた祖父と、譲り受けた家と蔵の管理や地元の人々との付き合い方など、いろいろなことを話して過ごした。 『古くてあちこちガタがきているが、ばあさんとの思い出が詰まった大事な家だ。それをアカの他人になぞ譲りたくなくてなぁ』  聞けば、祖父母は幼馴染みで、小さいころから密かに思い合っていたという。お互い大人になったとき、祖母に見合いの話があると聞いた祖父はいてもたってもおられず、祖母の家へ駆けつけ求婚したのだと教えてくれた。つまり、二人は静かな大恋愛の末に結ばれたのだ。 『孫のお前が継いでくれるなら、ばあさんもきっと喜ぶだろうよ』  少し丸まった背中を揺らして笑う祖父を、櫂は羨望の眼差しで見つめた。  愛した人を亡くしても、ひたすらに深く思い続ける姿に憧れを抱かずにいられない。  ――いつか、自分にもそこまで深く愛し合える人が現れるだろうか……。  祖父の言葉を聞いて、期待とも夢とも言えない淡い感情が胸に溢れた。  寛大で聡明な父と、思いやりに溢れた母。そして、深い愛を貫く祖父の姿に、櫂は後ろ向きな自分を恥じた。  まだ、すべて忘れることも、振り返らずに前を見つめることもできない。  しかし、誰も知る人のいない北の街でなら、もう一度、自分らしく人生を歩んでいけるような気がする。  覚悟と呼ぶには少し大袈裟な気もするが、櫂は新たな気持ちで東京をあとにしたのだ。 「まずは、蔵から……」  荷物をそのままにしてカットソーの腕を捲ったそのとき、櫂の耳に子どもの笑い声がかすかに聞こえた。 「え……?」  まさかという想いで、声が聞こえた台所の方へそっと進んでいく。心臓がドキドキと高鳴って、緊張のせいか無意識に左手を握り締めた。 『あの家には、座敷わらしが棲みついとる』  櫂の頭に、東京の家を出てくるときに祖父からこっそり聞かされた言葉が浮かんだ。 『おれは、一度も見たことはないがの』  日に焼けた皺だらけの顔に、悪戯っぽい笑みを浮かべてそう言った祖父。 『座敷わらしなんて、そんな……』  別れ際に妙な冗談を口にすると思ったが、祖父は困惑する櫂に一通の封書を渡した。 『ここに、お世話の仕方なんかを書いといた。最後の方はまともにお世話できんかったから、帰ったらとにかく蔵の様子を見てくれ』  茶封筒を押しつける祖父を問い質そうとしたが、そのとき丁度、迎えのタクシーが実家の前に着いてしまい、確認できないまま出てきてしまったのだ。 「まさか……本当に?」  座敷わらしなんて、昔話でしか聞いたことがない。  櫂は数秒の間、薄暗い廊下に立ち竦んでいたが、やがて意を決すると、台所を通って蔵への渡り廊下へ向かった。  台所の勝手口と蔵の入口は、一メートほどの板張りの廊下で行き来できるようになっていた。蔵の観音開きの扉は見るからに強堅そうで、古びた錠前がかけられている。櫂は祖父から預かった鍵を取り出すと、慎重に鍵を開けた。日ごろからきちんと手入れされていたのだろう。扉は思いのほか軽く開いていく。  すると、手の込んだ格子づくりの引き戸――蔵戸が現れた。ひと目で年代物だと分かるほどきれいに磨き上げられた木目は、全体が深みのある飴色に変色していてとても美しい。 「……っ」  いきなり目の前に、座敷わらしが現れたらどうしよう。  かすかな不安を覚えつつ、櫂は引き戸をそろりと開けた。と同時に、内部へ目を凝らす。  祖父から蔵にあった不要品はすでに処分したと聞いていたとおり、中はがらんとして人の笑い声どころか物音すらしそうにない。 「誰も……いない、よな」  板張りの床の上には何もなく、通りに面した場所に設えられた出窓から差し込む穏やかな光が蔵の中を照らしているばかりだ。  櫂は首を傾げつつ蔵の中に入ってみた。入口から見て左手に階段箪笥があって二階へ上がれるようになっている。 『座敷わらしを祀った部屋が、蔵の二階にある。その部屋にばあさんは毎日子どもが好みそうな菓子を供えていたんだ』  入口の格子戸と同じく、ぴかぴかに磨き上げられた階段箪笥を見つめていると、祖父の言葉どおり座敷わらしが蔵の二階にいるような気がしてきた。 「たしか大人には見えないんだっけ……」  伝え聞くとおりなら、姿が見えなくても仕方ない。 「でも、座敷わらしはその家に幸福をもたらすって話だしな」  不思議と、恐ろしくなかった。  それよりも、座敷わらしと一緒に暮らせるなんて、なんだか面白そうだとすら思う。  白蛇の夢を見て怖がらなかった幼いころから、櫂は不可思議な出来事や目に見えない存在を、「それはそういうもの」とごく自然に受け入れてきた。怖い目に遭っていれば違っていたかもしれないが、実際そんなことは一度としてなかったからだろうと推察している。 「とにかく、挨拶も兼ねてお供えをしないと」  階段箪笥の先を見上げて呟き、櫂はふと、自分が笑みを浮かべていることに気づいた。  東京にいる間、毎日鬱屈した気分でいたのが嘘みたいに、今、櫂の胸はドキドキとして新しい生活への期待に満ちている。  ここで、自分らしく生きていく。  両親と祖父の心遣いが改めて身に滲みるのを感じつつ、櫂は何かから解き放たれたような解放感を覚えていた。

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