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第3話
翌日から、櫂はさっそく蔵のリフォームに取りかかった。
といっても、掃除をして新しく畳を入れ、祖父母が愛用していた和箪笥や円座卓を母屋から運び入れればほとんどの作業は終わったも同然だ。焼き菓子や軽食といったものしか出すつもりはないので、厨房は母屋の台所で充分間に合うし、食器も水屋にあるものを再利用することにした。コーヒーマシンやオーブンなど足りないものも手配済みだ。
リフォームらしいことといったら、門扉から続く飛び石の途中に、母屋と蔵を繋ぐ渡り廊下に向かって小さなくぐり戸を作ったことぐらいだ。客にはこのくぐり戸をくぐって渡り廊下に上がってもらい、蔵――店内へと案内することになる。厚い扉の脇には祖父母が使っていた下駄箱を置いて客の靴をしまうことにした。
そうして観音開きにした扉にかかった暖簾をくぐり、飴色の蔵戸を開けて、客は蔵の中へ足を踏み入れる。
蔵の中に入った瞬間、田舎の祖父母の家を訪ねたような懐かしさを感じてほしい。
祖父母が愛用した家具や調度品をそのまま利用したのは、そういう意図があってのことだった。
西洋文化が早くに花開いた開港地だけあって、函館には西洋風の建築物があちこちにあり、それらを利用した洒落たカフェが多く点在している。非日常的空間に癒される客がいることはたしかだろうが、櫂は同じような店を出しても仕方がないと考えていた。
昔ながらの日本の雰囲気の店内は、きっと外国人旅行客にも喜んでもらえるだろう。
「あとは、マシンが届けば……いよいよだな」
オープンを二日後に控えた朝、櫂は蔵の内部を見回して呟いた。
手にしたトレーには、試作したフィナンシェが盛られた小皿と、濃いめに淹れた緑茶の入った湯呑みがのっている。
櫂は祖父に頼みに従って、越してきたその日から、蔵の二階にある小部屋に菓子とお茶を欠かさず供えるようにしていた。
不思議なことに、供えた菓子が夕方になると消えてなくなるという現象が続いている。だが、櫂は恐怖や不安より、座敷わらしに対する強い好奇心をより抱くようになっていた。
「それにしても、どの食器も味わいがあって趣味がいいな」
祖父が子どものころから使われていた水屋には、古い食器がたくさん残されていた。陶器の茶碗に小皿、湯呑みや漆塗りの椀など、蔵を利用したカフェにはぴったりだ。
「おーい、いるかい?」
階段箪笥の一段目に足をのせたところへ、ダミ声で呼びかけられて振り返る。すると蔵の入口から、頭にタオルを巻いた日焼けした中年の男が顔を覗かせるのが見えた。
「あ、井口さん。こんにちは」
櫂はトレーを手にしたまま入口へと近づいて会釈をする。
井口は厨房機器のリースや販売を行っている地元の業者で、櫂の父とは同級生という間柄だ。
「頼まれてたナントカマシン、届いたぞ。設置は母屋の台所でよかったよな?」
「はい。玄関、開けてありますから、そっちから運んでもらえますか」
「分かった。……ところでソレって、座敷わらしのお供えか?」
井口がトレーのフィナンシェとお茶を見て、意味深な笑みを浮かべる。
「いるかいないかも分からねぇのに、律儀に泰治さんの言いつけ守ってンのか?」
「この家を譲り受けたとき、きちんとお祀りすると祖父と約束したんです。それに……」
櫂はそこで一旦口を閉じると、井口に顔を近づけた。そして、声を潜めて先を続ける。
「あながち、迷信でもなさそうなんですよ」
上目遣いに告げると、井口がギョッとして息を呑んだ。
「え……。まさか、見たのか?」
信じられないといった様子の井口に、櫂は静かに首を振った。
「いいえ。でも、もしかしたらいるんじゃないかなって、そんな気がするんです」
――まさか、お供えのお菓子が毎日なくなっているなんて、言わない方がよさそうだな。
井口の驚きぶりを見て、櫂は咄嗟に言葉を濁した。
すると、井口が神妙な面持ちで蔵の天井を見上げて櫂に言った。
「実はな、まだガキのころに、何度か妙な物音を聞いたことがあってな」
「え、本当ですか?」
今度は櫂が目を見開く番だった。
「お前の親父はまるで信じちゃいなかったし、俺も見たことはなかったが、昔からこのあたりに住んでる古い人間の間じゃ、新川の座敷わらしの話は有名だった。ガキのころの仲間で見たって言うヤツもいたが、子ども特有の見栄だと思って信じなかったんだが……」
座敷わらしの噂など欠片も信じていなさそうな井口の話を聞いて、櫂は思わずコクリと喉を鳴らした。
――やっぱり、見えないだけでいるのかもしれない……。
祖母が、そして祖父が何十年もお供えを欠かさずにいたのは、単なる迷信のためではなかったのだろう。
「しかし、妙なモンがいるかもしれないって聞いて、気味が悪いと思わなかったのか?」
二階を感慨深げに見つめていると、井口が問いかけてきた。
「いえ。祖父や父からも、とくに災いが降りかかったとかいう話も聞いていなかったので、どちらかといえば、面白そうだなって……」
平然と答えると、井口が不意にはっとして櫂を見つめてきた。
「ああ、そういえば……お前さん、『蛇憑き』かもしれないって泰治さんが言ってたな」
「……あ」
一瞬、櫂の脳裏に白い大蛇の姿が浮かび上がる。
それこそ気味悪がられるかと身構えると、井口は上機嫌に櫂の肩を軽く叩いた。
「そうか。そりゃ、縁起がいい」
しかし、井口は櫂の予想に反して、白い歯を見せて朗らかに笑った。
「座敷わらしといやぁ、家に財をもたらす福の神だろ。その家の新しい主が水神様の御加護を受けた蛇憑きとくりゃ、この蔵カフェは繁盛間違いなしだ!」
厨房機器の販売業者というよりは、漁師といった方がしっくりくる日焼けした顔をくしゃくしゃにして、井口は櫂の尖った肩をポンポンと何度も叩く。
「え、あ、はぁ……」
トレーにのせた湯呑みからお茶が零れそうになって、櫂はしどろもどろに返事することしかできない。
「水神様と座敷わらし付きなんて、いい宣伝になるぞ。街のフリーペーパーにも載せてもらうといい」
「いや、そこまでは……」
見えないものをあたかも存在するかのように宣伝するのは、さすがに気が引ける。
「この蔵と、僕の淹れるコーヒーとお菓子を楽しんでもらえたら充分ですから」
自分で店を持つなら、落ち着いた空間にしたいと考えていた。
そんな櫂の反応に、井口は不満そうな表情を浮かべる。
「それに、あんまり騒がしくなると、座敷わらしが出ていってしまうかもしれませんし」
慌ててフォローの言葉を継ぎ足すと、井口は「それもそうか」と頷いた。
「まあ、とにかく応援してるから、頑張れよ。知り合いにも宣伝しておいてやるから」
「ありがとうございます」
櫂が会釈すると、井口はコーヒーマシンを運び入れるために蔵から出ていった。
しばらくの間、櫂はその場に佇んでいたが、湯呑みのお茶の湯気が消えていることに気づいて、慌てて新しく淹れ直しに台所に戻ったのだった。
そうして、その日の夕方――。
日が沈む前に蔵の二階にある座敷わらしを祀った部屋にいくと、いつもどおり塗りの膳の上には空になった小皿と湯呑みだけが残されていた。
「……本当に、いるんだろうか」
蔵の一階部分の半分ほどしかない部屋を見回して小さく呟く。部屋には積み木やけん玉など、昔懐かしい様々な玩具が置かれていた。
コーヒーマシンの調整の合間、座敷わらしについてインターネットで調べたところ、福をもたらす座敷わらしに永くいてもらうため、家の一画に子どもが好む小部屋を作る風習があるということが分かった。
小さな窓から西日が差し込んで、部屋は幻想的な雰囲気を醸し出していた。太い梁が剥き出しになった二階部分は天井が低く、櫂は中腰にならないといけなかったが、幼い子どもならのびのび遊べる広さだ。
「でも、フィナンシェは毎日なくなってるけど、玩具で遊んだ気配はないし……」
まさかネズミや予想しない小動物でも棲みついているんじゃないだろうか。
しかし櫂はすぐに、頭に浮かんだ考えを自分で否定した。
「くだらない。ネズミなんかより、座敷わらしの方が夢があってよっぽどいい」
空になった小皿と湯呑みを下げながら、櫂は無意識に頬を綻ばせる。
大人になった今では、もうその姿を見ることはできないかもしれない。
けれど……。
「これから少し騒がしくなるけど、どうぞよろしく」
階段箪笥を下りたところで二階を振り返ると、櫂はそう言って深々と頭を下げた。
その後、小皿と湯呑みを台所の流し台に置くと、櫂は母屋の裏手にある庭へ向かった。
「落ち着いたら、ここもきちんと手入れしないといけないな」
カフェの準備に忙しく、引っ越しの荷解きもほとんどできていない状況で、裏庭まで整備する余裕はまるでない。
祖父が元気だったころは雑草を抜いたり、庭木の手入れもしていたらしいが、祖母を亡くして以来、玄関まわりを整えるだけで精一杯になったと聞いていた。
櫂は寝室となっている六畳間の濡れ縁から下りると、持参したサンダルを引っかけて雑草で埋め尽くされた庭の様子を探るように歩いた。
裏庭の広さは二十坪ほどだろうか。宅地として開発するときに削ったらしい斜面はそのまま函館山へと続いている。
「きちんと整備すればオープンカフェにできるかも」
そんな夢を脳裏に思い描きつつ、雑草を掻き分けて庭の端まで進んだところで、斜面が不自然に崩れたような痕跡を見つけた。そこから先はふつうの山の斜面で、ブナや松、杉が生える自然林となっている。
「……これって、鳥居?」
斜面の下部の土塊の中から、小さな石造りの鳥居の上部が覗いていた。
櫂は少し驚きつつ、衝動のままに崩れた土砂の上にハナイカダやムラサキシキブが生えた場所へしゃがみ込み、落ち葉の積もった斜面を手で掘り返し始めた。思ったよりも、土砂はやわらかく、崩れたのは比較的最近ではないかと思われた。
指の爪の間に土が入り込むのも厭わずに掘り進めると、やがて鳥居のほかに、木の根と土砂に埋まった簡素な造りの祠のようなものが現れた。高さは三十センチほどで、あちこちひびが入り激しく侵食されているうえ、崩れた土砂や木の根に埋もれていて全容は把握できない。少し離れた場所に屋根の部分が割れた状態で転がっている。
「なんの祠だろう……」
祖父や父からは、祠があるなんて話は聞いていなかった。
櫂は考えを巡らせながら、片方の脚が折れてしまった鳥居の土を払い落とし、祠にまとわりつく木の根を剥がしていった。そして、祠の前に少し盛り土をして鳥居を立てかけると、手を二回叩いて拝礼した。
「きちんとお祀りした方が……いいよな」
何を祀ったものか分からないが、丁重に扱う以外に思い浮かばない。
「日も暮れてきたし、明日、開店準備が落ち着いたら、お供えを持ってきますね」
小さな祠を見つめて呟いたとき、足許で雑草が小刻みに揺れた。
ハッとして目を向けた櫂は、目に飛び込んできた光景に息を呑む。
「白い、蛇……っ?」
夕暮れの薄闇の中、体長二十センチほどの白くて小さな蛇が、雑草の下で身体をうねらせていたのだ。
咄嗟に、夜毎夢に見た白い大蛇が思い浮かんだが、目の前にいるのは比べものにならないほど小さな幼体に見える。
「もしかして、この祠は伝説の水神様を祀ったものなんじゃ……」
白い蛇を見ても、櫂は不思議と恐怖を感じなかった。驚きに心臓がドキドキと高鳴ってはいたが、ぎょっとするよりは蛇を踏みつけずに済んでよかったという気持ちが大きい。
「こんなところにいたら、危ないですよ」
そっと足を退けて、白い蛇を手で山の方へと追い立てる。
小さな白蛇は、しばらくの間櫂の足許をうろうろと這っていたが、やがてゆっくりと祠の脇から山の藪の中へ消えていった。
櫂は闇の中に白く浮かび上がる細い身体が見えなくなったのを確認すると、もう一度祠に軽く頭を下げてその場を離れた。
「水神様の祠だとしたら、それこそちゃんと整備しないといけなくなるな……」
とにかく、一度東京の祖父に相談しなければならないだろう。
それにしても、座敷わらしに謎の祠に白い蛇と、函館にきてから不可思議なことが立て続けに起こるものだと感心する。
「あれ?」
すっかり夜の帳が下りた中、母屋の明かりを頼りに庭を歩きつつ、櫂はふと気づいた。
「そういえば、こっちにきてからあの夢、見ていない……な」
開店準備の忙しさで、悩んでいる暇などなかったせいだろうか。
以前勤めていたカフェでの出来事を思い出し、悶々と塞ぎ込むこともなくなっている。
「楽しい、からだ」
自分が笑っていると気づいて、櫂は久々に胸がはしゃぐのを覚えた。
「それにしても、夜になると途端に冷える」
五月半ばだというのに、肌寒くて震えがくる。やはり東京とは気候がまるで違うのだ。
ぶるっと肌を震わせながら、櫂は急いで母屋に上がり、夕飯の支度に取りかかった。
その後、ひと心地ついてから実家へ電話をかけたが、祖父はすでに眠ってしまったらしく、庭の祠の話を訊くことはできなかった。
『明日、おじいちゃんが起きたらかけ直す? 伝言があるなら聞いておくわよ?』
携帯電話越しに問いかける母に、櫂は小さく首を振る。
「いや、いいよ。明日は開店前日だし、しばらくはバタバタすると思うから、落ち着いたらまたこっちから電話する」
明日は近所の住民を招き、挨拶がてらのプレオープンを行うことになっていた。人を雇う余裕がないため、一人できちんと仕事をこなせるかのシミュレーションも兼ねている。
『そう。じゃあ、頑張ってね。お花、送っておいたから』
「ありがとう。頑張るよ。父さんやじいちゃんによろしく伝えて」
両親や祖父に余計な心配をかけたくないと思った櫂は、祠のことを伝えないまま通話を終えた。祖父もまだ東京での暮らしに慣れていないだろうし、何より櫂自身、新しい生活が落ち着くまで余裕がない。
「もう少し、明日の確認をしてから寝よう」
厨房での作業や接客、掃除や宣伝まで、たった一人でこなさなければならないため、櫂は夜遅くまで様々なシミュレーションを頭の中で繰り返した。
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