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第70話
***
ピピピピっと電子音がなる。
目を開けるより先にその音が鳴り止んで「千紘、起きろ」と肩を揺らされる。
「やだ······まだ、寝るの······。」
「遅刻するぞ。早く起きろ」
目の前に綺麗な顔がある。ポーっとそれを眺めているとキスをされた。触れるだけのキスだけど、じんわりと熱が広がって心地良い。
「偉成······」
「ああ。おはよう。顔洗っておいで」
「眠たい······」
「早く起きないと朝食を食べる時間が無くなるぞ。」
会長に腕を引かれて起き上がる。
そのまま洗面所に連れていかれて顔を洗い、歯を磨いて寝癖を直した。
テーブルの席に着くと朝から贅沢だと思えるくらいのたくさんのご飯があって、驚いた。
「パン一枚じゃない······」
「パンケーキは嫌いか?」
「嫌いじゃないです······。凄い、ベーコンに卵もある······。」
「ああ。あと弁当を作っておいた。もし学食で食べるなら残しておいてくれて構わない。」
「······食べるに決まってるじゃないですか。」
ご飯を粗末にするなんてダメだという意味を込めてそう言うと、何を勘違いしたのか会長は嬉しそうに微笑んだ。
「そうか。」
「勿体ないからですよ」
「それでもいい。誰かに手作りの料理を食べてもらうのは嬉しい。」
胸がキュンとする。
嬉しそうな会長の声が聞こえるのと同時に、ふんわりと花の匂いがする。······多分これは会長が嬉しい時の匂いだ。
「ああでも、無理して食べなくていいからな。」
「······意外でした。」
「何がだ?」
「小さな事も会長がそうやって嬉しく感じてる事です。」
「小さな事?料理の事なら小さくはないぞ。食べることは生きることだ。俺の作った料理を誰かが食べて、そしてその誰かが生きるなら、それはすごく大きな事だ。」
ああ、確かにそうだなと思う。
どの生き物も食べる物がなければ生きていけない。
「俺はそういう、日常の中に転がっている些細な事でも大切にしたい。」
会長が柔らかく笑う。
あ、まずい。そう思ったのは今この瞬間、会長の事を少しでも好きだなと思ってしまったから。
「っ、遅刻します!早く食べて学校行きましょう!」
「俺は起こした時から遅刻するぞって伝えたけどな。」
慌ただしい朝。
会長から与えられる否定してしまいたいほど穏やかな気持ちに、心を満たされた。
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