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08.長い長い 二人の夜 ①
きつい目眩と共に世界が急速に遠退いていく。
よたついている自分の足を、どこか他人事のように見つめながら、ただ歩いていた。
ようやくたどり着いたベッド。
やっと横に慣れることに安心して、ほっと息を吐く。
と、同時に視界がブラックアウトして、意識が飛んだ。
……眠い。
すげー眠い。
眠くて眠くて、酷い目眩で意識が朦朧としている。
それなのに落ちる寸前、何かが俺の意識をピンと張り直して、眠ることを邪魔するんだ。
あれ、でもおかしいな。
俺、さっき薬を飲んでベッドに入ったんじゃなかったっけ。
……それに、眠気だけじゃなくてすごく頭が重くて痛い。
起き上がろうとしても、体が動かない。
ぐわんぐわんという酷い耳なりと目眩で目が回る。
ああ、とうとう息まで苦しくなってきた。
「……い、櫂」
次に、暗闇の中から俺を呼ぶ懐かしい声が聞こえた。
温かい手が、ゆっくりと俺の背を撫でていることに気がつく。
その瞬間、ようやく重たい瞼が開いた。
まず一番に、見慣れた文字が見えた。
それもそのはずだ、だってこれは俺の文字。
なにかを書いている途中だったらしい。
何だろう……レポート……臨床レポート?
「……うっ、う……」
続いて、しゃくり上げる声が聞こえた。
いや違う、聞こえるんじゃない。
この声は、俺から出ている。
つまり、俺が泣いてるということだ。
そして背に続き、今度は頭を撫でられた。
だから重たい頭をやっと上げる。
するとそこには、一番会いたくなかった……けど、一番見たかった顔があった。
いや、でもそんなはずはない。
だってこいつは。
こいつと俺は、もうこんな風に顔を合わせられる筈がないんだ。
だって、だって…………。
「ほまれ……?」
目の前にいることがまだ信じられなくて、思わずその名を呼ぶ。
"誉"は頷いて、呆けている俺の頬を撫でた。
それから腕の下敷きになっていたレポートを、片手間にすっと抜いて取り上げて言う。
「これは後にして、少し休みなさい」
何を言ってるんだ?
というかなんでお前がここにいるんだ。
そう尋ねたかったのに、俺の口は勝手に動き、思っていることと全然違うことを話すんだ。
「……休もうと思ったんだよ。
でも、眠れないんだ。
すげー眠いのに、全然眠れないんだよ、だから」
「薬は?」
「飲んだよ、6錠も飲んだ。
なのに眠れないんだ。
眠い、寝たいよ、俺だって寝たい。
なのに、何で眠れないんだよ!!」
突然自分が発した怒鳴り声に、自分で驚いた。
それは誉も同じだったようで、眉を上げてこちらを見ている。
しかしすぐに目を細めて、俺を抱き締めた。
それからゆっくりと打つように背中を撫でて、
「ああ、眠気のピークを逃しちゃったんだね。
可哀想に、疲れすぎちゃったのかな」
と、俺を宥めるように言う。
そしてその時、俺は急に自分がおかれている状況を理解した。
俺は、春に就職したばかりの研修医。
誉は"まだ"俺と付き合っている。
ここは俺と誉が一緒に暮らしていたマンションだ、懐かしい。
……懐かしい?懐かしいってなんだ。
ここに住みはじめてまだ半年なのに、懐かしいわけがないだろう。
むしろ初めて実家を出て、やっと新しい暮らしに慣れてきた頃だ。
何を考えているんだ、俺は。
眠れなすぎて、とうとう頭までおかしくなったのか?
"俺"は言う。
「もうやだ、つかれた」
そして誉のシャツをぎゅうと掴む。
すると堰を切ったように溢れた涙が止まらなくなる。
誉の掴んだシャツを引っ張り、胸を叩き、まるで癇癪を起こした子供のように泣きじゃくった。
ーーー研修医の仕事は、学生の実習とは訳が違う。
朝も昼もなく病棟で働き詰めて、勤務がやっと終わったかと思ったのも束の間、休む暇もなく研修、勉強会、レポート漬けの日々。
半年でもう2人の同期が職場に来なくなった。
俺の弱音は続く。
「だってさ、301号室のジジイは研修医だからって馬鹿にして、俺のいうことまともに聞いてねーし」
「うん」
「332号室のババアは注射が下手だってでかい声で文句言うし」
「うん」
「指導医の斎藤は、レポートの本筋と全然ちげーところでイチャモンつけてくるし」
「うん」
「子供には白くて気持ち悪いやつがいるって後ろから指差されるし」
「うん」
「夜勤眠いし」
「うん」
「早番も眠いし」
「うん」
「外来から病棟、めっちゃ遠いし」
「うん」
「食堂の飯まずいし」
「うん」
「敷地内完全禁煙だし」
「うん」
誉はそんな俺の愚痴を一つも否定せず、相槌だけを打ってずっと聞いてくれていた。
誉の体温と、におい。
背中を撫でられる心地よさ。
何よりも溜まっていたものを吐き出したお陰で段々気持ちが落ち着いてきた。
それを見計らって、誉が口を開く。
「けど、諦めたくはないんだろ?」
「……」
「航、いや、お兄さんを助けたいんだもんね」
「……」
俺は少しの間をおいて、頷く。
すると誉はふっと息を吐いた。
顔を上げると、今度は大きな手で額をよしよしと撫でられる。
そして誉は矢継ぎ早に、そして俺に言い聞かせるようにこう言った。
「301の山田さんは、誰の言うことも信じないよ。この間、専門医の坂上さんにも君へと同じ事を言っていたからね。
注射は、確かにまだうまいとは言えないかな。
まあ仕方ないよ。こればっかりは慣れだから。
練習をしたらいい。
俺の腕でよければいつでも貸してあげるよ。
斎藤先生が本筋以外のところばかり指摘してくるのなら、それはレポートがよく書けているってことさ。
彼は、ともかく何でも文句をつけないと気が済まない性格だから。
子供が言うことは気にしないことだね。
俺だって、この間背が高くて怖いって泣かれたし。
自分が異質だと思えば誰だって攻撃をする。
それが子供だ。
夜勤や早番の時は、うまく仮眠をとったらいい……と言いたいところだけど、不眠症の君には厳しいかな。
けど、マスクと耳栓をして横になるだけでずいぶん違うと思うよ。
外来から病棟へは一度外に出て裏に回ると実は意外と近いし、食堂の味付けが口に合わないならお弁当を作ってあげる。
禁煙なのはまあ仕方ないかな、病院だし。
うちに帰ってきてから、思う存分吸いなさい」
「……」
「他になにかある?」
「………………ない」
「ならよかった、解決」
そんな風に言われたら、逆に何も返せなくなってしまう。
けれど一方で、胸につかえていたモヤモヤが消えていくのを感じた。
誉はそんな俺に微笑みかけると、改めて抱き締め直し、
「しんどいのは、よくわかるよ。
俺もそうだったからね。
でもきっと君は乗り越えられるよ、大丈夫。
困っていることがあるなら、俺が何とかしてあげる。
だからあと一年半、一緒に踏ん張ろう」
と、励ましてくれた。
誉の優しい言葉が、ささくれ立った心に染みる。
そして、また鼻の奥がつんと痛くなってきてしまった。
「ふえっ、え……」
「大丈夫だからそんなに泣かないの。
男の子だろ?」
「ほまっ、うあ、あ……」
「……あー、はいはい。
わかったよ、わかったから」
結局また大泣きしてしまった俺を誉は苦笑いしながら抱いて、泣き止むまでずっと背中と頭を優しく撫でてくれていた。
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