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09.長い長い 二人の夜②

ぐうっと鳴った腹の音に、誉が吹き出した。 俺は恥ずかしくなって、腹を抑える。 そうしたら追加でまた二回、腹が鳴った。 「お腹がすいちゃったね、ご飯にしようか」 誉はクスクスと笑い、そっと離れていく。 立ち上がる間際、髪に軽くキスされたのがこそばゆかった。 空腹を感じた自分に、正直驚いた。 それは、暫く忘れていた感覚だ。 「ご飯、用意している間にお風呂に入っておいで」 キッチンから誉の声が聞こえる。 俺はのろのろと立ち上がり、その方へ向かった。 「聞こえなかった? お風呂、どうせまだでしょ?」 「やだ」 誉の足に寄りかかるように腰を下ろし、答える。 「やだ、つかれた、むり」 「無理かあ。 じゃあ、下ごしらえが終わるまで待ってて。 一緒に入ろう、それならいい?」 「…………」 「返事がないのはOKってことだね」 「そんなこと言ってない」 「そっかー、じゃあ1人で入るのかー」 「………………一緒に入ってやってもいい」 「素直じゃないね、君は」 膨れっ面で横を向くと、また頭を撫でられた。 完全に子供扱いだ。 でもまあ、今日のところは大人しくしておいてやることにする、気持ちいいし。 手際よく下ごしらえを進める誉の手を下から見上げる。 誉が時折、こちらに目配せをしてくれるのがなんとなくくすぐったくて嬉しかった。 「夕飯なに?」 「何でしょう」 「一個は分かる、野菜スープだ」 「正解。 メインはグラタンだよ。あとサラダ」 「グラタン!」 「好きだろ」 「好き!だけど鶏肉は入れちゃヤダ」 「ベーコンならいいでしょ」 「ベーコンはいいけど……。 あっ、海老嫌い、入れちゃヤダ」 「海老は入れるよ、出汁が出るから」 「ええ、無理」 「君のに"実"は入れないよ。 全く、自分はそんなに酷い偏食の癖に、患者さんにはバランスの良い食事を、なんてよく言えたものだよね」 「それはそれ、これはこれ。 患者は俺が偏食だなんて知らねーもん」 「はは、せいぜい食堂で食事をするときは気を付けなさい。 あそこは患者さんも使うから」 「じゃあ、詰所でゼリーか固形栄養食しか食べない」 「それはダメでしょ、倒れるよ。 ふざけたことばっかり言ってると、ほんとに毎日詰所へ重箱に詰めたお弁当を持っていくからね」 「そ、それはやめろよ! 同期とか先輩に退かれるだろ!」 「俺は構わないよ。 櫂に変な虫がつく前に牽制するのもアリだし」 「絶対ダメ!!!!」 ……こいつなら本当にやりかねない。 学生時代、俺に新しい友達が出来る度、影で"面接"と称して圧力をかけていたの、知ってるんだからな。 「じゃあ、ちゃんとご飯は食べること」 「…………はい」 「素直で宜しい」 誉が目を細目ながら、くつくつと笑う。 俺は横を向いて、強めに背中をその足に押し付けた。 そのまま暫く誉にくっついて待っていたのだけれど、そのうち口寂しくなってくる。 「煙草吸う」 「ベランダでどうぞ」 誉が当たり前のように返してきた。 けど、何となく誉から離れるのが惜しい気がして、 「やだ、ここで吸う」 と、わがままを通すことにした。 「ベランダで吸う約束だろ」 「やだ、寒い」 「においが籠るからダメ」 「換気扇の下だからいいじゃん」 「換気扇からは大分離れてる気がするけど」 「やだ、ここで吸う、吸うったら吸う」 「今日は随分ワガママだなあ。 ……あ、いや、いつもか」 「いつもって何だよ!」 「素直に大好きな誉から離れたくないって言えばいいのに」 「…………」 「何も言わないってことは図星」 「うるさいなあ、もう吸うからな!」 「はいはい、一本ね」 「……三本」 「一本」 「二本」 「一本」 「さっき思う存分吸えって言ったじゃん」 「それはそれ、これはこれ。 中で吸うなら、一本」 「…………」 「一本吸い終わる頃には、ご飯の用意も終わるよ」 「ちぇ」 膨れながら、煙草に火をつけた。 そして吸いながら気がついた……というか、当たり前なんだけど、煙においのせいでさっきまで漂っていたスープの煮える美味しそうな薫りがかき消されてしまう。 それだけじゃなくて、誉のにおいも。 「……」 「まだ半分も吸ってないんじゃないの?」 「…………もういい」 俺は最後に深く肺に煙を入れた後、煙草をベランダの灰皿に捨てに行く。 直ぐに戻って、今度は誉の背中に鼻先をくっつけて、すうっと吸い込んだ。 誉が何も言わずに、後ろ手で俺の頭をポンポンと撫でてくれたのが照れ臭くて、でも嬉しかった。 その後直ぐに食事の用意が終わり、二人で風呂に入る。 同棲を決めた際に、唯一誉が口を出したのは風呂のサイズだった。 つまり、まあ、これを狙ってたんだよな。 男二人でも十分な程広いバスタブに浸かり、今更ながら思う。 誉はというと、当たり前のように俺を後ろから抱き、腹を撫でている。 なかなかご満悦なご様子だった。 心地良さからかその口も軽くなったようで、誉は急にこんなことを言い始めた。 「昔飼っていた犬に似てるんだよね」 「は?何が?」 「君が」 「…………どんな犬だよ」 犬なんかに例えられるのは心外だ。 少し気に入らなかったが、誉が自身の昔のことを話すのは珍しいので、我慢して聞いてやる。 「真っ白で、小さくて頼りなくて、でも目はすごく大きくて、気に入らないことがあると直ぐによく吠える犬だった」 「……ちょっと待て、チワワか、それ?」 「あ、よく分かったね」 いや、俺は背は……確かに少し低いけど、別に頼りなくないし、気に入らないことがあったってそんなに吠えねえし! そもそもなんだよ、チワワって。 そんな弱っちくもないぞ! あまりの言い様に体を捩って抗議をしたら、両頬を手で挟まれる。 頬をそれをふにっと寄せながら、 「ホラ、やっぱりそっくり」 と言って誉は笑った。 腹立たしく思ったが、これもまた本当に珍しく楽しげに笑っていたので怒る気が失せてしまった。 だから代わりに、 「つーかお前がチワワって、なんか似合わねーんだけど」 と、憎まれ口を叩いてやる。 「だよね。 どっちかっていうと大きな犬の方が利口で好きだなあ。ドーベルマンとか」 「それだと似合いすぎて洒落にならないな……」 「もともと飼っていた親戚が訳あって飼育できなくなったからって、父がもらってきたんだよ。 まあ、子供の頃から昴……、弟がよく入院して一人で家にいることが多かったからね。 寂しくないようにっていう親の配慮だったみたいだよ」 「へえ。じゃあよく二人で留守番してたんだ。 やっぱ、なついて可愛かった?」 「まあ、可愛かったよ。 犬自体は、それなりに俺にもなついてたかな。 俺しか世話する人がいなかったし。 けど、当時、もう俺は高校生だったんだよ。 だから留守番が寂しいって年齢でもなかったし、いきなり犬を渡されてもって感じで、正直戸惑いの方が大きかったかな」 そこで、誉の顔から一切の表情が消えた。 「それに、半年もしないで死んじゃったしね、その犬」 その表情に冷たい口調も相まって、ぞくりと背筋が冷たくなる。 そして気がついたんだ、さっきから感じていた違和感の理由に。 よく犬を飼ってるやつは、家族だとかなんだとか言って子供みたいに可愛がるもんじゃないか。 なのに、さっきから誉は、犬、犬とやけによそよそしいし、肝心なその名前が一向に出て来ない。 俺は嫌な予感を感じながら、尋ねてみる。 「あのさ、誉」 「ん?」 「その犬、なんて名前だったんだ?」 「……さあ、何だったっけ。 まあ、でも別にどうでもいいよ、そんなこと」 ーー……予感は的中した。 固まる俺の唇に、いきなり誉がちゅっとキスをしてきた。 それから、いつも通りの穏やかな笑顔を浮かべて言う。 「さ、そろそろ出ようか。 夕飯が遅くなっちゃうしね」 誉は人当たりが良く親切な男だが、興味がない相手には基本的に無関心で冷酷だ。 可愛いねと笑顔で撫でていたモルモットの首を、次の瞬間には実験のために平然と切り落とす、そんなヤツだ。 俺は、こいつの笑顔に騙されて近づき、切り捨てられて堕ちていった人間を何人も見てきた。 まさかとは思いながらも、確認せずにはいられなかった。 「……その犬は、何で死んだんだ?」 「寿命かなあ。そこそこ老犬だったし」 「……」 ーーそれは、果たして本当だろうか。 「どうしたの?難しい顔をして……」 誉が俺の顔を覗き込みながら、頬を軽く叩いてきた。 そして次の瞬間には顔が近づいてきて……そのままキス。 不意打ちの甘いキスに、思考が止まってしまう。 一方で、誉は嬉しそうに耳元で囁いた。 「もしかして、先に欲しかった? 本当は食事の後、ベッドでゆっくり……と思ったけど、そうならそうと先に」 「な、なんの話してんだよ!」 「何って今夜のセッ」 「わー!言うな、生々しい!」 「……君はいつまで経っても初心だねえ」 「お前が恥を知らないだけだろ!」 「愛する子を抱くのは恥じゃないよ」 「そういうことをあっさりと言うなバカー!!」 恥ずかしくてたまらなくて、声が大きくなる。 誉はまた笑ったが、俺は到底笑う気にはなれなかった。 いつか。 いつか誉は俺に対しても"そうなる"のだろうか。 そんな一抹の不安を感じながら、俺は誉の笑顔をただ見つめていることしか出来なかったんだ。

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