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13.櫂のお仕事

敢えて振り返ることをせずに、エレベーターに乗った。 泣き声が聞こえてこないので、まあ大丈夫だろう。 アース、もとい大地は、以前うちの店で勤めていたホストだ。 弟のカインが開院したのをきっかけに、リハビリ用のサロンを開設し今は理学療法士をしている。 ユウが今のように、ほぼ普通の生活が送れるようになったのは、偏にアースのサポートがあってこそだ。 俺は、傷や病気の治療をしてやることは出来るが、リハビリやメンタルのケアは専門外だからな。 エレベーターの扉が閉まる。 それに合わせ、内ポケットから赤い眼鏡を取り出して、かけた。 と同時に、手早く左向きに編んでいたみつあみを逆に直す。 それから大きく息を吸い、そして吐いた。 そして頭を上げ、前を見据えたタイミングでエレベーターが開く。 「如月先生、おはようございます」 クリニックに入ると、直ぐに受付のナースが声をかけて来た。 「おはようございます」 ″私″は会釈と共に、にこやかに返事を返す。 「本日の患者さまの予約リストとカルテですが……」 「昨日から変更ありますか?」 「いえ」 本日の患者の予約リストは昨日ファックスで送られてきたものを確認してあるし、抱えている患者のカルテは全て頭に入っている。 「でしたら、結構ですよ」 ナースにやんわりと断りを入れ、クリニックの奥へと入っていく。 途中、こっそり待合室を覗いた。 まだ診療時間30分前だというのに既に満杯。 飛び込みの患者が結構いるなという印象だ。 院長の許可を取って、少し早めに始めるか。 医師専用のクロークに入る。 このクリニックの若き院長、カインがこちらに気づき、声をかけてきた。 「おはようございます。」 流石双子だけあって、アースとカインは声も姿もよく似ている。 カインにこのポニーテールが無ければ、きっと見分けがつかないだろう。 挨拶を返した後、私もその隣のロッカーから白衣を出して羽織る。 そのまま軽く身だしなみを整えれば、医師、″如月 櫂先生″の出来上がりだ。 「今日、10名程、どうしても櫂先生の診察を受けたいという方が、待合室まで来てしまっているのですが」 「予約外ですか」 「ええ…。追い返すわけにもいかず」 「構いませんよ、対応します」 「助かります」 「いえ、こちらの都合に合わせ働かせて頂いてますから、出来ることはしますよ。 ただ、もし可能なら少し早めに診察を始めさせてもらえると助かります。 私がここにいられる時間は限られているので」 「ええ、勿論です。 宜しくお願い致します」 下のサロンと共に、この葉月クリニックがオープンしたのは、二年前。 なかなか繁盛していると思う。 本業の業種上、表立って名を出すことは敢えてしていないが、この二つをオープンさせるにあたり、実は私も出資をした。 ユウの薬を調達するためには、勤務医の肩書きがあった方が何かと便利だ。 しかし一方で、自分が開業するわけにもいかず、かといって普通のクリニックに雇ってもらおうとすると、それなりの時間を拘束されるので、厳しい。 それに薬の調達についても、自由が効かないだろう。 しかしある程度こちらの事情を理解をしてくれるこの二人なら、話は別だ。 出資について、彼らにはとても感謝されている様だが、偶々利害が一致しただけの話で、お互い様だ。 そんな訳で、あくまでも裏方的にここで働かせて貰うつもりだった。 だがそんな思惑は外れ、私がここに勤めていることが、徐々に口コミを中心に広がってきてしまっているのが現状だ。 私はこの珍しい見た目のお陰で、いい意味でも悪い意味でも目立ち人の記憶に残り易い。 また以前勤務医をしていた頃の評価がそれなりに高かったのもあり、以前の病院で診ていた患者が噂を聞きつけてやって来るケースも少なくなかった。 もう少し私の診療時間を増やしてほしいという要望も多く聞く。 確かに私の診察予約は毎回固定で埋まり、今朝のように飛び込みが待っている状態だから、本来ならそうするべきなのだろう。 しかし本業のこと、ユウのこと、そして何よりも私自身のこともあり、週2回、午前のみ。 それが限界だ。 「そういえば、一つ、お耳に入れておきたいお話が」 「……?」 「卯月先生、ご存知ですよね」 その名前に、反射的に笑みが崩れ、顔を強ばらせてしまう。 カインは私の顔色を伺いながら、続ける。 「先日、問い合わせがありました。 櫂先生にコンタクトを取らせてもらえないか、と」 「そうですか」 「丁重にお断りしましたが、それで宜しいですよね?」 「ええ、ありがとう」 それ以上の会話を拒絶し、そそくさとクロークを後にする。 ドアを閉じた後、息を深く吐いた。 ……動悸がする、息苦しい。 卯月。 卯月。 ドアに背中をもたれたまま、その名を何度も心の中で反芻する。 忘れたくても、忘れられない名前だ。 卯月 誉。 それは、かつての私の恋人であり、ユウを"あんな体"にした男の名なのだから。 今更この私に、一体何の用があるというのか。 よりによってあいつが、この私に。 そんなことをモヤモヤと考えていたら、診察時間なんてあっという間に過ぎ去ってしまった。 全ての診察を終えた私は、足早にクリニックを後にする。 朝と同じようにエレベーターを待ちながら髪を戻し、乗り込んだ後、眼鏡を取った。 ふうと一つ息を吐き前を向けば、エレベーターの鏡に写った"俺"が、こちらを睨み付けている。 髪も肌も真っ白。 その癖、瞳だけが血のように紅い。 まるで悪魔のような己の姿をどこか他人事のように見つめていると、扉が開いた。 急ぎ足でエレベーターから出る。 そしてサロンのドアを開いた、その瞬間。 「うわっ!」 突然の″でかい″衝撃。 思わずバランスを崩して、よろけてしまった。 その原因は勿論、 「コラ、ユウ、危ないだろう!」 「カイー!」 でかい体で、力一杯飛び付いてきたユウだ。 「社長、すみません。 急に走り出してしまって……。」 「まぁ、元気に走れるようになったと前向きに受け止めるわ。」 「カイっ。」 ユウは大型犬さながら、はしゃいで俺にじゃれついてくる。 その上、胸いっぱい俺のにおい嗅いで噛み締めてるし……本当に犬か、お前は。 「アース、ユウ、いいこしたよね?ね?」 「うん、そうだね。 たくさん頑張って、とてもお利口さんだったね」 アースはユウに優しい目を向けながらそう返した後、俺の方を向き直り、 「最近、心身共に安定していて、とても調子がいい様ですね」 「おう、お陰様で」 「筋力も体力もかなりついてきました。 ですから、少しずつ負荷をかけるメニューに変えていこうかと思います」 と、報告をしてくれた。 「おー、その辺は″プロ″に任せる」 アースは頷き、ユウにリュックサックを背負わせた。 それから同じ目の高さになるよう屈み、その肩を二回軽く叩く。 「じゃあ、今日はおしまい。ご挨拶しよう」 促してやると、ユウは名残惜しそうに俺から離れ、アースに向き直る。 そして、 「せんせい、さよなら」 と幼児さながらの挨拶をし、頭を下げた。 「はい。次は木曜日だね、待ってるよ」 「ん」 頭を撫でてもらったユウは、嬉しさから満面の笑みをこぼし俺の腕を大切そうにぎゅっと抱いた。 ーーそして、その顔を見た瞬間。 俺は誉の行動についてあれこれ勘ぐることを辞めた。 だって、それが何であっても俺がするべきことは一つだけ。 "ユウとの今の生活を守ること"だと決まっていることに気がついたからだ。

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