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19.うわさ話

午前の診療が終わり、お昼休みに入った。 入り口の扉が開き、軽い足音が近づいてくる。 弟のカインだ。 いつも院長室で 昼食を一緒にとるのだが、今日はなかなか上がって来ない俺に痺れをきかせ呼びに来たのだろう。 足音を聞きながら、リハビリの計画書を書き続けていると、今度はふわりと後ろから抱かれる。 「随分お仕事熱心ですこと」 その手には、お揃いの弁当袋が二つ。 目の前にぶら下げながら、カインは拗ねたように言った。 「もう少しだから、ちょっと待って」 「ユウくんのですか」 「そ、少し段階を上げようと思ってね」 「ふうん」 カインは甘えるように俺のうなじに頬を寄せ、後れ毛を指でいじりながら待っている。 数分後、計画書を完成させファイルを閉じた。 するとすぐに後ろから顔を出し、目が合うとにっこり笑った。 控え目に言ってとても可愛い、愛しい。 「上に行く?」 「今日はもうここでいいです、そのつもりで来ましたし」 「そ、じゃあ食べようか」 テーブルの上のものを端に寄せて、二人並んで 長椅子に腰を下ろす。 カイン手作りの弁当は、今日も美味そうだ。 「ユウくんは、最近また一層よくなりましたよね」 「そうだね。 張り合いがあって、俺も楽しいよ。 それに彼は頑張り屋さんだしね。 ほんと、とてもいい子だよ」 「あの状態から、短期間でここまで治療を進められるなんて。 やっぱり櫂先生はすごいなあって感服させられますよ」 「そうなんだ。 俺にとってはちょっと変わった社長だけど」 「逆に私にしてみればそっちの方がびっくりです。 まさかキャバクラの経営者になっていただなんて」 カインは以前、総合病院の内科に勤めていた。 社長は当時、そこの脳神経外科で指導医をしていて、研修医時代世話になったそうだ。 一方で俺はそんなことを知らずに、病院を退職した社長が経営していたホストクラブで働いていたわけだから、何とも不思議な縁だ。 「誉先生が知ったら、何て言うか」 「誉先生? ああ、この前社長を訪ねて来た人のこと?」 「そうです。 誉先生と櫂先生といえば、橘総合病院の脳神経外科を担う若手ツートップだったんですよ」 「……なんか今の社長からは想像もつかないな」 「櫂先生は、現役の頃と随分変わられましたからね。 昔はもっとこう、繊細で、上品で、それはもう儚げな感じで」 「ええっ、今と正反対じゃないか」 「どちらかといえば物静かで、控えめで、後はものすごく神経質で……」 「うわあ、無い無い、絶対無い」 「いつも誉先生の三歩後ろを歩いているような……」 「何だそれ、昭和の夫婦みたいだな」 「まあ、実際公私共に良きパートナーだったようですよ」 「え"っ」 思わずハンバーグをポロリと落とし、カインを見る。 カインは平然と味噌汁を啜りながら続けた。 「櫂先生は隠しているつもりだったみたいでしたが、誉先生にもう全然そんな気がなくて。 だから院内では暗黙の了解的な感じで、結構有名でしたよ。 だからあんなことがあって、みんなすごくビックリしたんです」 「あんなことって?」 あの社長からは信じられない過去の数々に、箸が完全に止まる。 カインはそんな俺の弁当から、タコさんウィンナーをひょいと取って食べた。 そしてそれを飲み込むと、顔を近付け声を潜めて言う。 「誉先生が婚約したんですよ。 しかも、院長先生のご令嬢と」 「え? だって社長と付き合ってたんだろ?」 「そうなんですよ、それが二人の関係の闇というかなんというか」 「ってことは、誉先生は社長と並行して院長の娘と付き合っていたってこと? そして社長が捨てられたってこと?」 「さあ……真相は闇の中です。 けど、誉先生の婚約とほぼ同時期に、櫂先生が突然病院を辞めてしまったことを考えれば……まあ、お察しですよね」 「てことはだよ。 あの人は、今更昔捨てた"元恋人"を勧誘しにきたわけ? 無神経にも程があるんじゃないか?」 「そんなことを気にする人は、大病院では偉くなれませんよ。 現に彼は今、奥さまのご兄弟を差し置いてかなりのご出世をなさっていますし。 櫂先生は、人の印象に残りやすくて腕も確か。 更にご実家も橘と並ぶ大病院のサラブレッド。 経営者として欲しい気持ちは分からなくもないですよ」 「うわ、コワ。 てか、ドラマじゃないんだからさあ」 「事実は小説よりもってやつですよ。 櫂先生も、橘を辞め、ご実家に帰ったのだとばかり思っていたのですが……」 「まさかの夜の店経営者」 「そう、まさかの」 「あの雰囲気だと、ユウのことがなかったら医者に戻るつもりはなかった感じだもんな」 「そうですね。 本来ならば、櫂先生は、これまで誉先生が形振り構わず苦労して手に入れたものを、当たり前に得られる立場の人なんですよ。 なのに彼はそれを望まずに捨ててしまった。 ほんと、皮肉というかなんというか」 「はー、医者の世界がそんなにドロドロしてるとは知らなかったよ、俺は」 「ええ……。 本当に早く開業ができてよかったです。 櫂先生には足を向けて寝られませんよ」 「そうだね、俺もだ」 今だからこそ、こんな風にのんびりしているカインだけれども、勤務医の時代はかなり仕事内容や人間関係に悩み、ピリピリしていた。 だから俺は心配でならず、ともかく早く開業させてやりたかったんだ。 しかし、俺たちは、家族と呼べるものはお互いだけで頼れる人は他にない。 開業させてやりたくとも先立つものがなく、たまたま街頭で声をかけられたホストのスカウトについていった先が社長の店だった。 この出会いがなければ、今の俺たちもなかったし、この幸せだって……。 「!」 なんて肩を寄せてくるカインの体温に癒されながら考えていたら、頬にその柔らかい唇が寄せられた。 ハッとして見ると、カインがいたずらっ子の様に笑っている。 「……ふうん、そう来る?」 「ふふ、たまには」 「俺はいつもでも大歓迎だけど」 「あっ、ちょっと、ダメ」 「誘っておいてそれはないよね」 指で"バッテン"を作り唇を抑えるカインを押し倒し、顔を近付ける。 「こらっ」 「煽ったカインが悪い」 「もおっ、すぐ調子に乗る!」 カインの抵抗なんて可愛いものだ。 赤子の手を捻るが如く簡単にそれを解くと、その唇に深くキスを落とす。 そして、ここまでしてしまうと俄然やる気になってきた。 膝をカインの太腿の間に割り入れ、完全に臨戦態勢だ。 チラリと時計を見れば、13時を少し回った所。 いける、と確信して今度は細い首筋にキスを落とした。 「いいよね、カイン」 「……もお」 さあ、お許しも出たし、食後のデザートを頂くか。 カインのシャツのボタンを二つ外して、浮き出た綺麗な鎖骨に舌を這わせた、その時。 突然、 「アース、たいへん! アース、アー……あれ?」 と、大きく響いたユウの声に驚き硬直する。 「おー、アース、悪ィ。 ユウが水筒を忘れ………………」 更に悪いことに、社長の声まで。 勿論遠慮なんかする人たちではない。 あれよと言う間に中へとズカズカ入ってきて、我々とご対面だ。 「…………」 我々の状況を目の当たりにし、流石の社長も言葉を失った様だった。 俺達も何も言えず、ただ見合うしかない。 この変な沈黙を破ったのは、空気が読めないユウだ。 「あっ! カイー、アースとカインがエッ……むぐっ」 それを契機に、社長はユウの口を素早く覆って、引きずりながら後退する。 そしてロッカーから水筒を引っ張り出し、 「ご、ごゆっくり……」 とだけ言い、いち早く退散していった。 「カイン、鍵」 「ごめんなさい、かけ忘れました」 「……かけてくる」 「あ、まだする気なんですね」 「ここまできたらする、もう意地でもする」 俺は非常階段の方から響いている、 「ねえねえ、カイ! アースとカイン、えっちなことしてたよー!」 「バッカ!でかい声でそういうこと言うな! はしたないぞ!!!」 という嵐の音を背に受けながら、しっかりと扉の鍵を締めた。

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